第6話
「いやいや、小さい方じゃないんだな、ごめんね!」
「……」「……」
さすがにそちらの趣味はないらしい。
「じゃあさ、俺ら外で待ってっから、早く済ませてきてね!」
「ここのトイレ、窓小さいから、逃げらんないからね」
「はいこれ。ピルね。飲んどいて!」
小さなアルミパウチを渡す男。クソっ!
頼りない木の板でできた女子トイレのドアを開けると、個室ブースに駆け込んで、急いで閂を閉めた。合板でできた頼りのない板。ヒンジも鍵も簡素なつくりで、何度もねじを打ち直した跡がある。その理由を考えて、朱莉はゾッとした。
個室ブースに開いている窓は小さすぎて出れない。そもそもビルの十階だ。落ちたら死ぬ。いや、死んだ方がマシな結末かもしれない。
スマホを見るとアンテナが殆ど立っていない。電波回折の死角なのだ。便座によじ登り、窓を開けてスマホを外に出す。まだ駄目だ。
回折特性が良好な旧式の4G回線に切り替え、アルミ蒸着の手鏡を取り出し、反射する電波がブーストするようにスマホの後ろに重ね、十センチの位置を前後させて調整すると、ようやくアンテナが一本立った。
滲む涙をそのままに、震える手を抑えてスマホに文字を打ち込む。
『名無しさん:助けて!』
$$$
「おめえはよぉ、俺の息子みたいなもんだ! だからこれからもきっちり働けよ!」
三周目の『ボス』の話が始まる。いや、四週目だったか。
ふと、スマーとフォンから掲示板の書き込みを見る。
『名無しさん:助けて!』
「!」
『名無しさん:誰か助けて。お願い!』
『名無しさん:なんのフリ? マジウケなんだけどWWW』
『名無しさん:警察に連絡しろよWWW』
『名無しさん:警察に言えない。でも助けて!お願い!』
『名無しさん:援交バカJKが自業自得』
『名無しさん:JCかもね。どうなるのか、実況お願いします』
『名無しさん:誰か助けてよ!』
「おい、バリソン! 聞いてんのかよ! 人の話聞くときに、スマホいじってんじゃねぇ! 今どきの若者か!」
真っ赤な顔の『ボス』が激怒する。いや、赤いのはアルコールが原因か?
『名無しさん:今どこだ?』
『名無しさん:祭りだワッショイ』
『名無しさん:さあさあ、お楽しみ!』
ゴミスレッドが邪魔してリロードが遅い。くそ。
『名無しさん:クラブ雅。川袋駅出たとこ! 十階の女子トイレ』
川袋駅はここから、バイクで飛ばせば十分ほどだ。
『名無しさん:今から行く』
〈俺〉はメッセージを書き込むと席を立ち上がった。
「おいっ! バリソン! てめぇ!」
「『ボス』すまない。緊急事態だ。行かせてもらう」
「チッ! てめえのそういうトコが好きだよ!」
〈俺〉は駆け出した。BMF556が消えれば『あの方法』が聞けなくなる。それは決してあってはならない。
店のドアを蹴り開け、路駐したバイクにまたがった。
店の外で見張りをしていた若い衆が声をかけてくるが無視してエンジンを始動させ、前輪を浮かせる勢いで加速させた。
ギアを入れた後は右手でスマートフォンを操作し、クラブ雅を検索する。
『名無しさん:助けて!お願い!』
相変わらず、ゴミスレッドに紛れてBMF556の助けを求めるスレッドが入っている。
ロケーションを調べ終わった〈俺〉は、スマートフォンをしまってアクセルを捻った。
込み合った繁華街の道路を縫うようにバイクを飛ばす。次々に、ギラギラ光る街灯や、自動車の赤く光るテールランプが高速で流れていった。
――間に合うか? いや、間に合わせる。
$$$
『名無しさん:今から行く』
涙が出そうに嬉しかった。アイツだ。アイツに違いない、と朱莉は思う。
だが、無常にも女子トイレに猿どもが入って来た。
「あかりちゃぁーん、長いねぇ~!」「どうせさ、何もしてないんでしょ!」「無駄無駄! さっさと楽しもうぜ!」
「ご、ごめん! ちょっと便秘気味でぇ~」
「嘘つくんじゃねぇよ!」ドカっとドアが蹴られる。
朱莉は体重を乗せて揺れるドアを抑えた。
「甘ったれてんじゃねぇ! 優しくしてりゃつけ上がりやがってよ!」
「ここはよぉ、電波通じねぇんだよ! 誰にも連絡とれねぇんだよ!」
ドカ、ドカと連続して蹴られて、頼りない金具のねじが次々に外れていく。
「観念しろってよ!」「気持ちよくなるドラッグも飲ませてやるよ!」
「オラよっ!」
ついに朱莉は個室ブースのドアごと蹴り倒されてしまった。
カシャンと音を立てて、手に持っていたスマホが陶器の床に滑り落ちる。
「いやっ!」「うるせぇ!」
猿どもが朱莉の腕を掴み、女子トイレから引っ張り出す。
座り込んで抵抗しようとしたが、体重が五十キロもない朱莉は、両腕を猿どもに抱えられて容易に引きずられてしまう。
「動画チャーンス! おぉーいいねぇ!」
腰を落として足でもがくと、制服のスカートから、下着が見え隠れした。
それを前からスマホで録画するクソ野郎。
「いい加減にあきらめろやっ」「痛っ!」
後ろから髪を思い切り引っ張られる。
朱莉は、狭い通路を引きずられて、通路の奥にある個室の飲食スペースに放り込まれた。
「ほらよっと!」
突き飛ばされて尻餅をつく朱莉。
乱暴に制服のシャツを掴まれ、胸元のボタンが弾けて飛んだ。
「あかりちゃん! 本村からは何してもいいって言われてるからさぁ!」
――本村。アイツか……。友達でもなんでもなかった。うすうす判っていた。なんてバカなんだ、私は。居場所があると思い込んでた。
「なになに? 泣いてるの? 本村たち、お前のこと金魚のフンって言ってたぜ?」
「俺らと仲良くなっちゃえばさ、見返してやれるぜ? へへへ」
腰のベルトに手を掛ける猿。苦しまみれにその場に合ったガラスの灰皿を投げつけ、ローテーブルを蹴り飛ばした。
「いでぇっ」「いって」
猿の何人かにそれが当たったのだが、それが彼らを激怒させた。
「いい加減にしろや!」
平手打ち。シャツを引っ張られて壁に叩きつけられる。ビリっと音がして服が破けた。
胸倉をつかまれて壁に押し付けられる。
「オラこれ飲めよ!」
何かの錠剤を口に詰め込まれる。
朱莉は首をひねって必死によけるが、力ずくで押し込まれた。
手で男を突き飛ばそうとするが別の猿に両腕を抑え込まれて身動きが取れない。
「バイオレンスだねぇ!」
目の前でスマホを構えて撮影する汚い金髪の男。
朱莉は隙を見て口に入った錠剤を吐き出した。
「ちっ! 幾らしたと思ってんだよ! てめえか気持ちよくなるためのモンだぞ! 痛てぇよかいいだろうがよ!」
「いやっ!」再び平手打ち。
「死にてぇのかよ! 殺して埋めんぞっ!」
「う、うぅ……」
殺されてしまう。怖い。怖くて仕方ない。涙が出る。
「大人しくしてりゃあ、いいんだよ。俺らと楽しんで、本村見返してやろうぜ」
ちくしょう、と朱莉は思う。遠くでダンスミュージックに交じって悲鳴のような叫びが響いているが、もうどうでもいいことだ。何でこんな人生なんだろう。普通に生きていたいだけなのに……。敗者は敗者のままって事なのかな。
猿がブラを乱暴に引き下げた拍子に、首に掛けていたペンダントが千切れて落ちた。
「へへ。いい乳してんじゃん」
その時、ドアが乱暴に蹴破られる音がして、外で流れていたダンスミュージックとバイクのエンジン音が一斉に流れ込んできた。異常な状況に一斉振り向く猿ども。
「な!」
振り返った猿が見たのはドアをぶち破った一台のバイクと、それに跨る男だった。
小さな金髪の女を三人の男が押さえつけ、一人の男がスマートフォンを向けている。
$$$
〈俺〉はバイクをその場に倒すと駆け出した。
スマートフォンを向ける長髪の男の髪を掴んで捻り上げ、首関節を固めて力の限り引き倒し、近くにあった強化ガラスのローテーブルに叩きつける。男の頭から血が噴き出て、ローテーブルが叩き割れた。
〈俺〉は右に素早く跳躍し、女を抑えていた右側の男の脇腹に革靴のつま先を叩き込んだ。
「ぐふっ」
呆気ない、と〈俺〉は感じた。
倒れかけるその男の長髪を掴んで支え、腹部に拳を叩き込む。暴力に対して、容赦はしない。
内臓が破裂しない程度に何度か拳を叩き込み、その場に男を捨てる。
恐怖におののいたもう一人の男が後ずさった。
露になった胸部を腕で隠した金髪ツインテールの少女がこちらを見つめてくる。
「BMF556か?」
「……」こくりと頷く少女。
「て、てめぇ……」
後ずさった男がバタフライナイフを取り出し、カチャカチャさせ始める。振り回して開閉するナイフ。いまだにあるんだな、とバリソンは思いつつ、ポケットから蝶の刻印があるナイフを抜き出しサムスタッドを弾いた。即座に展開されるブレード。
「あ!」
ようやくナイフのブレードを出し終える男。みれば子供のようだ。
「暴力には暴力で返す。要望:ナイフを捨てろ」
「わ、わかったよ!」
男はナイフを捨てた。
〈俺〉は跳躍すると男のみぞおちに拳を叩き込み、突き出た顎にフックを叩き込んだ。
「ええ!」
隣の坊主頭の男が驚いてこちらを見る。
右にスウェーして坊主頭に接近し、その勢いで裏拳を顔面に叩き込む。
グキっと鼻の骨が折れる感触がした。
そのまま坊主頭の後頭部に手を滑り込ませて引き寄せ左膝を鳩尾に叩き込む。
「げぇ!」
昏倒していないのは、ローテーブルに叩きつけた汚い金髪の男。
逃げ始めたその男にバランスを崩した坊主頭の男の重心に手を添えて抱え、放り投げた。
「ガッ」
逃げた男がスマートフォンを取り落としながら転倒する。〈俺〉は、ゆっくり歩いて汚い金髪の男に近づくと、落としたスマートフォンを拾い、震える男の口に押し込み、そのまま殴りつけた。スマートフォンが割れて火花を散らし、同時に男の前歯がへし折れた。
奥で尻餅をついて震え、涙を流す少女。水色のブラウスが引き裂かれ、露になった胸元を両腕で必死に隠している。
〈俺〉は歩いて近づくとき、その脇にある小さな欠片が落ちているのを見つけた。
チェーンの切れたペンダント。
膝をついてジャケットを少女に被せると、そのペンダントを拾った。
「引き取りを要望。アンタのだろ?」
少女は目を見開き、それを受け取る。
「うん」
そろそろ、騒ぎが大きくなる頃だ。
「行こう。話が聞きたい」
〈俺〉はバイクを引き起こすと、だぼだぼのジャケットを羽織った少女をバイクの後ろに跨らせてエンジンを始動、セキュリティの連中が走ってくるがお構いなしにスロットルを吹かし、狭い廊下を突破した。
少女は〈俺〉の胴に、きつく腕を回している。震えと共に温かさが、ペラペラのシャツ越しに伝わって来た。
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