第16話 まるで悪魔の囁きだ

乱れた吐息と甘い嬌声が室内に響く。


「エメル様…っ」


身体を一層近づけるように腰を引き寄せれば、期待がこもった声で名前を呼ばれた。


「今日のお姫様はせっかちだね。焦らなくてもちゃんとあげるよ……ほら、口開けて」


柔らかな頬に手を添え、耳元で囁いた。小さく開いた真っ赤な唇に触れる――直前。


「ちょっと!もう予定の時間がとっくに過ぎてるんだけど!?」


勢いよく開いた扉の先から怒号が飛び込んできた。

殿下に言われて俺を探しに来たのであろうキオンは、大層お怒りの様子だ。


「残念だけど時間みたい」


目の前にいる彼女へ、挨拶代わりに軽く唇を重ねる。彼女は残念そうだったけど、キオンの形相を見てこれ以上は無理だと悟ったのだろう。引き止めたりはしなかった。

賢明な判断だ。キオンは女性に対しても辛辣だから余計なことを言って怒らせない方がいい。




「ほんっと、いい加減にしてよね。毎回迎えに来させられるのはボクなんだから」


心底不快そうに呟くキオンの文句を軽く受け流す。ここで「そんなに怒ったら可愛い顔が台無しだよ」などの軽口を叩くのはNGだ。以前試しみたことがあるけど、更に怒りに火を注ぐ結果となった。


「可愛いお姫様からの誘いは断れなくてね。でも次からはキオンに迷惑をかけないよう努力するよ」


「はぁ、それ毎回聞くけど?」


キオンが呆れたようにため息をつく。

毎回同じと言われれば、そうだったかもしれない。どうやら謝罪の言葉を新しく用意しておかなければならないようだ。


キオンは文句を言ったり、不快そうにするけれど、女の子と遊ぶこと自体を止めたりはしないから楽だった。公爵家を継ぐことになれば辞めざるを得ないだろうけど、今はまだ辞める気はないし。


息が詰まりそうな毎日の中、あの甘い時間が俺にとって唯一気が紛れる瞬間だから。


女遊びしていると、最初に噂が流れた時は父上から怒られるかと思っていたけど、両親のどちらからも何も言われることはなかった。

その時、少しだけがっかりしたことを覚えている。


「ボクに迷惑かけないならそれでいいけど。せめて遊ぶ相手くらいは選びなよ」


「未婚で恋人はいない、後腐れがない相手だけだから大丈夫」


「あっそ」


その言葉を最後に口を閉じたキオンと廊下を歩いて行く。


確かに同じ方向を向いているはずなのに、道が違えてしまったのはいつからだろうか。


そして、きっともう交わることはないだろう。――俺がアイリス・オルレアンの兄で、キオンがアリア・ウォレスの兄である限り。







「――だから、――だろ!」


「早く――ないと――」


嫌でも聞こえてくる騒音で意識が浮上した。変な体勢で寝ていたのか身体が痛い。なんで私、こんな所で寝てたんだっけ……

頭がぼんやりする中、重い瞼を持ち上げれば、薄暗い牢のような場所が視界に映った。


「……?」


「あっ、リア起きた」


キオンの声で一気に思考が戻ってくる。そうだ、私達は昨日捕まって……どうやらいつの間にか眠っていたらしい。

光が届かない上、時計もないからどのくらい寝ていたのかは分からないけど。


「んん……ありあさま?」


「すみません、起こしてしまいましたか?」


私の膝の上にいたアイリスが身を捩りながら起き上がった。暫く眠気の残った声で受け答えをしていたアイリスが突然、私の太もも辺りを見て小さく声を上げる。

この反応はやっぱり、昨夜の会話を聞いていたようだ。


「あ、アリア様、すみませんっ…!」


「このくらい大丈夫です」


ドレスを触れば少し湿っているけど、びしょ濡れという程ではない。

下腹部が濡れているだなんて、よからぬ誤解を招きかねないからね。目立つことは無さそうで幸いだった。……本当に。




「お腹空いた……」


キオンがぽつりと呟く。昨日は結局夕飯も食べれなかったから当然だろう。

私達が居なくなったことはさすがにもうアリアのお父様達の耳にも入っているだろうし、あとは時間の問題だと思うんだけど……しょんぼりするキオンはまるでお腹を空かせた子犬のようで早急にご飯をあげなければという気持ちになるから不思議だ。


しかし、残念ながら食べ物は持ち歩いていない。持っていたとしても、この状況で私達だけが食べるわけにもいかないし。

つまるところ、ご飯にありつくためには助けに来てもらうしか方法がないというわけだ。

……まさか私達が拐われたことを知らない訳じゃないよね?



「急げ!もう時間がない!」


「分かってるよ!クソッ!あと一日だっていうのに、今嗅ぎつけられるなんて!」


悲観的な考えが過ぎる私へまるで答えを差し出すように、男達がバタバタと焦った様子でこちらへ向かってきた。


「おいガキ共、出ろ!」


ガチャガチャとうるさい音を立てて鍵が外れる。

荒い口調と苛立ちの先から激しい焦燥感が伝わってきて、その様子を確認しながら私は口を開いた。



「おじさん、私達をどこに連れてくの……?アリア、怖い……っ」



手を震わせ、眉を下げて、今にも泣きそうな表情で。

怯えているフリを全力でする。



「「「…………」」」



そんな私を見てキオンとアイリス、そしてエメルの三人が目を見張り、言葉を失った。まるで見てはいけないものを見てしまったかのような表情だ。


……そこまで?

一応、私は子供だし怯えたりするのはおかしくないと思ったんだけど……いいえ、今はそれどころではない。


私が羞恥を捨ててこんなことをしたのは勿論キオン達を驚かせるためなんかではなく、時間を稼ぐためだった。


昨日までは余裕だった男達がいきなり焦りだした。つまり何か予定外のことが起きたということだ。

子供を急ぎでここから出そうとしてる――逆に言うなら、出さなければならない理由があるって意味で。


残念ながら私は戦えない。だから今できることは、一つ。

一秒でも長く時間を稼ぐことだけだ。


「アリア……ってまさか公爵家の、」


「プハハハハッ!!」


目の前にいる男の言葉を、大きな笑い声がかき消す。

入口からまた一人仲間が入ってくる。忘れるはずがない。私達をここに連れてきた張本人だった。


「おいお前、あん時の子供だろ。クセェ芝居はやめろ」


他の男達とは全く違う気迫。そして圧倒的な自信と余裕。

この男を前にして心臓が逸るのは、私が焦っているからだろうか。


「……ようやく家に帰してくれる気にでもなったわけ?」


「ハッ、お前もそうじゃねェって分かってるから焦ってるんだろ?――それにしてもまさかお前があ・の・アリア・ウォレスだったとはな」


「?」


どういう意味だろう。まさかこの男の耳にまでアリアの噂が届いていたのか。少なくとも良い意味ではなさそうで私は眉を寄せた。


「聞いてた話とはだいぶ違ってたが、素質はそこそこありそうだ」


「何を……」


「一緒に来いよ。そうすればソイツらは助けてやる」


私に手を差し伸べながら、横にいるキオン達に視線を移す。それはまるで悪魔の囁きだった。

例えばこれを言われたのが純粋で疑うことを知らないようなヒロインだったなら、あの男の手を取っていたのかもしれないけど。

私は少し震えている手をぎゅっと握り、にやりと笑った。


「断るわ。貴方は私のタイプじゃないから」


この男の言葉を信じるほど純粋でもない。何よりここに居ればいずれ推しに会えるのに、そのチャンスを自ら投げ出すなんて御免だ。


ちょっと頭が冷静になったおかげか、ふと疑問が湧いた。

ところで私を一体どこへ連れていくつもりだったのか。てっきり人攫いの仲間に加えるつもりかと思ったけど違和感が残る。

この男と、他の奴らでは行動に温度差があるからだ。


ここに連れてこられたのは私達を抜けば、残りは全員平民だった。偶然ではなく、多分意図して平民だけを選んだはずだ。

にも関わらず、私達を連れてきたのはなぜか。公爵家とは特定できずとも格好くらいで貴族なことは分かっただろう。というか護衛まで付いているのだ、気付かない方がおかしい。


「じゃあ無理矢理連れていくしかねェな」


てっきり諦めると思ったのに、狂った発言が返ってきた。

……うーん、訂正しよう。やっぱりこの男は何も考えてないのかもしれない。

どう見てもあの男は本能的に動くタイプだ。


「リアに触るな!」


「お兄様!」


こちらへ近づいてくる男に、いよいよ我慢できなかったのかキオンが私の前に出てくる。しかしあっちからすればキオンの睨みは子犬の威嚇のようなものだろう。


「なんだ、美しき兄妹愛ってか?――でも邪魔だ」


「ウッ……!」


「「キオン!!」」


男が手を払い、キオンが目の前から消えた。ガッシャンと鉄格子に何かがぶつかった音と、アイリスとエメルの悲鳴のような声が聞こえる。


今すぐキオンに駆け寄って無事を確認したいのに、身体が動かなかった。



「このクソ××が!今、誰に手を出して…!!」



代わりに、私は自分でも知らないうちに酷い悪口を吐き出していた。

目の前が真っ赤に染まり、頭が煮えくり返りそうだ。

身体の中で急速に何かが駆け巡り、溢れそうになる寸前で。



「――レイスト」



時が、止まった。

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