五月の雨

清瀬 六朗

第1話 優とあのひと

 ああ、降ってきたな、と気づいて、ゆうが次に思ったのは「あのひと、傘、持ってないな」ということだった。

 「あのひと」とは、優の姉、澄野すみのあいのことだ。

 姉を「あのひと」と呼ぶのはべつに仲が悪いからではない。たぶん姉妹仲はいいほうだと思う。

 だから、お母さんの前でお姉ちゃんを「あのひと」と呼んで「なんですか、他人行儀ぎょうぎな!」と叱られたとき、優はわけがわからなかった。

 「他人行儀」って言っても、他人に対しては家族に対する以上に親切にするものだとしたら、そっちのほうがいい呼びかたなんじゃない、と思った。

 それ以来、本人を含めて、ほかの人がいるところでは「お姉ちゃん」と呼んでいる。

 でも、優にとっては、やっぱり、愛は「お姉ちゃん」ではなく「あのひと」だ。「あのひと」でないとすれば「愛」と呼ぶほうがまだ抵抗感がない。

 どうして「あのひと」はだめなのか、いまも優にはよくわからない。

 そんな国語力で、名門といわれる明珠めいしゅ女学館じょがっかん第一高校に合格し、姉「あのひと」の後輩になったのだから世話はない。

 優は折りたたみ傘は持っていたが、使わない。まだそれほど降りは強くないし、寮はすぐそこだから。

 明珠女学館第一高校の寮、「豊玉とよたま寮」。

 あのひとも優もこの寮に住んでいる。

 らくだ色のような色の、煉瓦れんがをまねたタイルを貼った古い建物の入り口の階段を少し急ぎ足で上る。

 のきが出っ張っただけの飾り気のないポーチから寮に入る。

 靴のまま玄関を上がる。

 明珠女学館は「戦前」という時代に「女学校」として始まった。この豊玉寮の建物が建てられたのも明珠女学館がまだその「女学校」だった時代だという。だから、建てられてからもう九十年は経っているらしい。

 それから何度も修理はされているのだろうけど、床は木のタイルだし、照明器具は何か気取った貝殻かいがら型の覆いがついている。基本は昔のままのようだ。

 その年代物の廊下は足を下ろすたびにきしみの音を立てる。

 二階に上がり、自分の部屋に入って、靴を脱ぎ、鞄を置く。

 普段ふだんに着替えようとしたが、ふと思い直した。

 制服のままで待つことにする。

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