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父の記憶は無い。
物心ついた時には、既に母親と祖母の三人暮らしだった。
母は父の事について何も話さなかったし、話そうともしなかった。『男には気を付けなさい』と母と祖母からはよく言われてきた事から察するに、きっと訊いても教えてくれなかっただろう。
箱を見つけたのはごく最近の事で、他界した母の部屋を整理している時に、隅っこにポツンと転がっていたのだ。
手の上で転がる小ささがとても可愛くて、でも何処か寂しそうな小ささで、部屋の隅に置いておくのは可哀想で自分の部屋に持って行った。
一体どういう小物なのか?
訊ける相手は病気で逝ってしまった。だから、何の為の箱だとか、何故部屋の隅に置いていたかだとかは判らないままだ。祖母に訊いてみたところ『アンタの父親がお母さんにあげた物だよ』と、それだけ教えてくれた。決して、明るい顔では無かった。
ずっと親は母だけだと思っていたから、今更興味は無い。顔も知らない。声も知らない。
「えっ……?」
だから、和輝が目の前の人物を自分の父だと疑っても、鈴鳥にはそれを理解する事が出来なかった。
「ハ……俺が、そいつの父親だって?」
籠飼が嘲笑する。
その顔に会った時の籠飼の面影は微塵も残っていない。明らかに、侮蔑して見下した目を和輝に送り付けていた。
「だったら何だ。何か問題でも有ンのか!?」
問題しかないだろう。と、和輝は睨む瞳に更に力を籠める。
付き合おうとしている相手が自分の父親で、しかも幽霊だって?
これが親としての庇護の愛なら和輝も黙していたかもしれない。
だが、この男からそんな涙ぐましい感情は何も感じられなかった。
我欲。
この男から滲み出ているのはただそれだけだ。
和輝が手に触れそうな程に鈴鳥と間近の距離に居るというのに、鈴鳥の霊は和輝よりも籠飼に向かって敵意を示している。
鈴鳥の両親の間に何が遭ったかは和輝の知るところではない。この父親が小鳥遊雄介のような生霊なのかも、亡くなっているのかも判らない。
しかし、頼って来た人間をこんな霊が憑いている男に渡すなど、避けなくてはいけないと思う。
これは自分のエゴだ。そうも和輝は思う。
それでも良いと彼女は言うかもしれない。和輝にはそれを止める権利は無い。
だからこのまま成り行きを見守る?
それは違う。
優弥の言葉じゃないが、この場に立ち会っておきながらみすみす悲惨な目に遭いに行かせる真似など、そんなのあまりに寝覚めが悪いじゃないか。
「駄目だ。彼女は渡せない」
和輝は力強く、それでいて冷静さを失わないように淡々と言葉を繰り出した。
「俺がどうこう言う立場じゃないし、決めるのは彼女だけどさ……アンタみたいな奴に渡したら、きっと周りに被害だって……!」
そこまで言って、和輝は自分に伸びる何かに気付いた。
咄嗟に反応出来たのは目線だけだ。和輝がそれに気付いた時には既に。
「ぐあ……ッ!」
籠飼の身体から伸びた青白く太い腕が、和輝の喉を捉えていた。
「彼氏気取りか? テメェ……外野がギャアギャア騒ぎやがってよぉ!」
週末の昼下がり。関係の無い人間も居るこの空間で。
(マジか、コイツ……!? こんな白昼堂々と……!)
首に負荷が掛かる。力が強すぎて息がまともにできずに和輝の顔は歪んだ。
締め上げられた視界の端で、夏樹が動いたのだけ見えた。
「ぐっ……」
「店員さ……優弥さん!!」
「クソッ、正気か!? あの野郎ッ!」
夏樹の声が店内に響き、彼女はそのまま腕の霊に飛び掛かる。
鉄製のトレイが何処かの机にぶつかった音がする。同時に、飛び込んで来た優弥が籠飼の身体を後ろから羽交い絞めにした。
何も見えないだろう鈴鳥には、口元を両手で押さえて和輝の身体を呆然と見つめる事しか出来なかった。
足掻こうとすればする程に食い込んで潰れていく喉。和輝の身体が僅かに浮き上がる。
ぼやけていく視界の中で、それでも和輝は全くの無策で臨んだ訳ではなかった。
状況を突破する方法は有る。賭けだが、それは和輝の携帯に掛かっている。
「和輝さんから、離れ、ろー!」
夏樹は必死に腕を掴んではいるが、その青白い腕はビクともしていない。
(何だ……! 強すぎる! 夏樹ちゃんが女の子とはいえこっちは二人掛かりだぞ!?)
「……力も二人分って事か……!」
渾身の力で籠飼にしがみついた優弥は、歯ぎしりしながらそう吐き出した。
このままでは和輝の首が折れるのは時間の問題だ。何せコイツ、全く加減をしている様子が無い。
あの腕さえどうにかできれば。
優弥は夏樹の掴んでいる霊の腕に目をやった。
一瞬、優弥の顔に躊躇が現れる。
(……こっちをやるしかないってか!)
何故、少し躊躇ったか。
夏樹を引っ張った時に何もなかったのは、彼女には最初から敵意が無かったからだ。
夏樹が掴んでいて無事なのは、恐らく霊同士の抵抗が有るからだ。
和輝がギリギリ無事なのは、少しの力でも夏樹が止めてくれているからだ。
生きてる人間が敵意を剥き出しにしている幽霊に対して単純な敵意で触ったのなら。
「夏樹ちゃん、そのまま離さないでくれ!」
どうなってしまうのか。優弥は解っていた筈なのに。
「ぐ、お……ッ!」
籠飼の背後から伸びた優弥の手が、青白い腕を掴んだ。
それと同時に、優弥の視界が眩む。
冷たい水の中に叩き落されたように、触れた指先から凍り付くように感触が失われていく。
掴んだ途端に頭の中に靄が掛かった。冷や汗が止まらない。
「優弥さん!!」
夏樹の呼び掛けにも応じる事が出来ずに、優弥の身体はぐらついた。
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