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 当の瞬本人は、数秒何が起こっているか解っていない様子でその手を見ていた。

 徐々に彼の中の時間も動き出したようだ。額から汗が噴き出ている。

「はっ、ちょっ……ちょっと何言ってるんですか城戸さぁん。今の忠告と完全に矛盾してしまってるんですけれども」

 身体の震えが再始動してしまった瞬が、恐る恐る目線を上げる。

 するとその先には、いつになく真剣な目つきで瞬を真っすぐ見る優弥の顔があった。

「うん、だからお前が行け」

 優弥の手に力が入る。

 その場から後退りしようと試みた瞬の身体は、それだけで押さえつけられてしまった。

「じゃないと……もう神谷が行っちゃいそうだし」

 優弥の言葉で気付いた瞬が、急激に顔の向きを変えた。

 和輝も釣られて同じ方向に顔を向ける。

 そこには、鞄から片手持ちのビデオカメラを取り出した神谷まひろが、恍惚の表情を浮かべて井戸へにじり寄っていく様が目に入った。

 いつの間にか一人だけ、皆とだいぶ距離が離れている。

 あのままでは間違い無く超危険区域に一番乗りだ。

「いやお前が行けよ!!」

 瞬が大声で怒鳴った。

 それはそうだ。

 気付いたのなら自分で行けば良い。何故一番余裕が無さそうな瞬に頼むのか。

 その答えは、優弥自身が冷酷に告げた。

「お前、俺に万が一何かあったら誰が帰りの車を運転するんだ?」

 和輝と舞はお互いに顔を見合わせた。

「それは……困るかも」

「困る、よね」

 瞬には心の中で謝っておいた。

 帰宅手段でもあり逃走手段でもある優弥を、ここで失う訳にはいかない。

 あと井戸に向かうという被害がこちらに及ぶ前に、彼には尊い犠牲になって貰おう。

 最早怯えか怒りか定かではなくなった震えを見せる瞬に、優弥が追い打ちを掛ける。

「それとも、あれ? もしかして瞬君、お化け怖い?」

 半笑いで完璧な煽りをのたまう優弥に対し、瞬は震えたままでまひろの方角にゆっくり向き直った。

「まっ、まさか」

 引き攣った表情と上擦った声で、まひろに向って歩みを進める。

「ぃよぉし、まひろさん! 危険な撮影は僕に任せて、下がっていたまえ!」

 悲しい。これが男の性なのか。

 美女と美少女を前にすると、命の天秤さえも軽くなってしまうものなのか。

 確かにこの肝試しに置いて、女子に良い所を見せるのは今が絶好の機会だ。

 もしかすると、皆そこまで気にする余裕は無かったかもしれないが、誰よりも俊足で逃げていた汚名を返上出来るかもしれない。

 しれないのだが、既に膝から下が震えている。

「えー……? 折角自分で見れるチャンスなのにぃ」

 ビデオカメラに添えられた瞬の手のせいで、カメラが小刻みに振動していた。

 膝下だけでは無かったらしい。

 その手にも力が入っていなさそうなところを見るに、どうやら瞬の中では激しい葛藤が繰り広げられている様だ。

 彼の童顔には『お願いします! 断って下さい! あっちのツラだけ根暗野郎に唆されただけなんです!』という文字が浮かんでいる。

 ただ、それを口にしてしまうと、これまでは何となくそうなのかな、というビビりのイメージが定着してしまう。だから言わない。言えない。

 そんなものが定着してしまえば、数多の未返信を潜り抜けてきたこの二人ともお近付きになれないかもしれない。

 それは、これから来る瞬の夏が瓦解する事を意味していた。

「まぁ良いわ。後でちゃんと観せてね」

 まひろはカメラを持つ手を緩めると、瞬の手に押し付けた。

 意外だ、と和輝は思う。

 これまでの彼女の性格からして、是が非でも自分で行きそうだったのに。

 和輝たち男三人より付き合いの長いと思われる舞ですら、感嘆の声を漏らしていた。

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