君が好きかはわからない

真矢野優希

前編

 遠く、どこかで、ひぐらしの鳴いている声がする。

「………………んぇ」

 まるで長い眠りから目覚めるように、重く閉ざされた瞼をゆっくりと開ける。意識がはっきりしてくると樹木にも似た古い家の匂いに包まれていることに気づいた。頬に当たるざらざらした畳の感触が少しこそばゆい。

「ぅー」

 横になっていた身体を起こすだけでじんわりと額や腕に汗が浮かぶ。薄暗い室内に陽射しは届いていないけれど、まとわりつくような熱気と湿気に夏を感じた。

 あつい、と口にすると思い出したように喉が渇きを訴え出す。水を求めて立ち上がると暑さのせいで視界が不確かに揺れる。それをなんとかやり過ごして台所に向かおうとして。

「んん?」

 そこで、ようやく。

 ここが自分の家じゃないことに気がついた。

「……いや、えっ、どこだここ」

 部屋の隅には仏壇が鎮座している。その横にはなにやら厳しい顔をした神様の絵が掛けられている。こわい。ところどころ傷跡が目立つ箪笥は、夕闇のせいか陰影が浮き彫りになって、何か惨劇でもあったんじゃないかと想像を掻き立ててくる。ひぐらしの鳴き声に混じってカラスの鳴き声まで聞こえ始めた。ひぃっ。

 見覚えのない、おどろおどろしい和室の風景にそれまで感じていた暑さが吹き飛ぶようだった。背筋を流れる汗がひんやりと冷たく感じる。

「か、帰らなきゃ……!」

 つんのめるようにしながら慌てて部屋を飛び出す。

 あれ? でも帰るってどこに?

「沙季?」

「ひゃあ!?」

 突然肩を掴まれて悲鳴にも似た声が出る。なになに、と振り返ると制服姿の女の子が驚きと怯えが混じった表情でこっちを見ていた。

「……急に、なに。わたし、なんか変なことした?」

「い、いや変じゃないっていうか……」

 お化けに肩を掴まれたと思いました、なんて言ったら女の子はめちゃくちゃ怒り出しそうな雰囲気があった。化粧気の薄い顔や肩にかかる真っ黒な髪、ほとんど折ってないようなスカートとかを見て、真面目そうだなあって印象を抱く。冗談とか通じなさそうなタイプだった。

 女の子が少しだけ訝しむように目を細める。でもそれも一瞬のことで「ごはん、出来たよ」と言って私の横をすたすたと通り抜ける。……ごはん?

 どういう関係なんだ、私たち。

 自分の姿を見下ろすと女の子と同じデザインの制服を着ていることを知る。目線がほとんど同じだったからおそらく同級生だと思う。先輩後輩という線は考えないことにしよう、ややこしくなるから。

 整理すると、

・『同級生(仮)(知らない人)(真面目そう)の家で』

・『ごはんを作ってもらってる』

 ということになるわけで。

「??」

 疑問が再び振り出しに戻ってくる。整理すると余計にわけがわからなくなった。

 付いてこない私に不満を覚えたのか、女の子が振り返って口をへの字に曲げる。その子供みたいな仕草に淡く心が揺れる。

「食べてく、ってゆったじゃん」

「そうだっけ?」

 そうだよ、と女の子は事もなげに言って廊下の奥へ進む。置いてかれないように板張りの床の感触を意識しながら早歩きで彼女の後を追う。

 思い出そうにもそんなこと言った記憶が一切ないのだけど。

 言った覚えがない。

 記憶が、ない。

 …………。

「あっ」

 パズルの最後のピースが嵌るように。これまでの疑問への答えが唐突に見つかる。理解すると、綺麗に椅子に収まったような、そんな据わりの良さを覚えた。

 私はいま。

 絶賛記憶喪失中なのだった。



 女の子について行くとキッチンが併設された居間に着く。テーブルの上にはざるに盛られたうどんとかき揚げが並んでいる。香ばしい匂いから察するに揚げたてであることがわかった。

 椅子に腰掛けてもどこか落ち着かなくて、きょろきょろと視線を巡らせてしまう。他人の家だから少し緊張しているのかもしれなかった。

「行儀わるいよ」

 嗜めるように言って女の子が私の正面に座る。それから二人一緒に「いただきます」をして食事を始めた。

 女の子の作った料理はすごく美味しかった。あまりにも美味しいので一口食べるごとに「美味しい、美味しいよこれ!」と感想を述べると「さっさと食べなさい!」と怒られたりもしたのだけど。でもその口元が嬉しそうに緩んでいたから本気で怒ってるわけじゃないってことはすぐにわかった。

「あっ、そうだ」

 用意された料理を味わって一息ついたところで、さりげなさを装って聞いてみることにした。

「ところで、ここどこ。あなた誰?」

「…………………………………は?」

「いやそもそも私って誰だよって話だし。ねぇ、あなたって私の知り合い? 私たちってどういう関係なの?」

「…………冗談で言ってる?」

「いやめっちゃ本気。マジって読むくらい」

「…………」

「…………にはは」

 とりあえず笑って誤魔化してみる。

 女の子はいまにもいーっ、とかうーっ、とか唸り出しそうな難しい顔をする。綺麗な顔が勿体無いなぁ、と思ったけれど原因が私にある以上なにも言えなかった。

「…………わかった」

 女の子が重い荷物でも下ろしたように深い溜息を吐く。

「最初の質問に答えるけど。ここはわたしの家。で、わたしは、あんた……沙季……西尾沙季の、」

「はーいストップストップ。さっきも言ってたけど沙季って私のこと?」

「そうだけど」

「あっおっけぃ了解。続けて?」

「……調子くるうなぁ」

 不満そうに口を尖らせる女の子をまあまあと宥める。

「沙季は、わたしの……友達」

「うん」

「…………なにその目」

「いやあ、なんかこう『大親友!』的なやつを想像してたんだけど」

 ごはんを作ってくれる友人というのもなかなかいない気がする。気がする、といっても記憶が無いからよくわからないけど。

「昔は、そうだったかも」

「ほほぅ」

「でもいまは普通……普通の、友達」

 そう言って、女の子は何かを耐えるようにきゅっと口を横一閃に結ぶ。

 なにかあるんだろうなぁ、となんとなく察するものがあった。けれどそれを私が、『記憶を失った西尾沙季』が聞いていいか迷う。だっていまの私と記憶を失う前の私は別人みたいなものだし。

 それでも、もし叶うのなら。

 力になりたい。

 そんな想いが頭の片隅にふわっと浮かぶ。

 記憶を失って振り返るものが無くなって。だから前向きなことしか考えられないんだろう。そう思うとなんだか可笑しかった。

 笑みがつい溢れて、女の子が怪訝そうに眉を顰める。

「普通じゃないよ」

 いきなり笑い出すことは置いておいて。

「……どういう意味?」

「なんたって私はいま記憶喪失中だからね!」

 テレビとか漫画の中の世界なら記憶を失くす、なんてイベントは日常の出来事なのかもしれないけど。現実でそんなことが起きてしまうのは稀か、あるいは一生出会うことのないもの。

 言ってしまえば、私は。

 女の子にとっての『特別』になりたかったのだと思う。

 普通という言葉で誤魔化して俯いてしまうくらいなら。せめて顔を上げられる手伝いくらいはしたいと思ったのだ。

 時間が、過ぎることを忘れてしまったように女の子の動きを止める。凍りついた表情からは感情の機微を読み取れない。その下で彼女は一体なにを考えているのだろう。どんなことを想っているのだろう。

 机を挟んだ向かい側の距離をひどく遠く感じる。

 沈黙がそろそろ耳に痛くなってきた頃「はひっ」と潰れたような笑い声が静寂を破った。ななにっ、って一人驚いていると女の子が身体をくの字に折り曲げるところだった。

「ひひひ」

「え、えーっと、あの、大丈夫……?」

「あー……そっか。そういうことかぁ」

「もしもーし」

「事情は、うん。なんとなくわかった」

 女の子が顔に掛かっていた髪を上げると、その下から可憐な笑顔が覗いてどきりとした。

 一人で悩んでいたと思ったら、これまた一人で解決して。振り子みたいな女の子に忙しないなあ、って感想を抱く。

 元気が出たのなら良いのだけど。

 それはそれとして。

「あのさ」

「んー、なに?」

「いや、なんていうかですね、その」

「ハッキリ言ってよ」

「うへへへ」

「笑ってないで」

 げしっ、と足を蹴られる。いたい。

「じゃあ聞くんすけど」

「うん」

「名前、まだ聞いてなかったな、って」

 たぶん一番最初に聞くべきだったこと。

 私が誰とか、ここはどことか、そんなことじゃなくて。

 君が誰かを知ることをずっと疎かにしていた。でなきゃ恩とか感謝とかその他色々、返すときに困るじゃん。それにいい加減、女の子で通すのもつらくなってきたし。

 女の子があぁそっか、って納得したように息を吐く。ややあって、

「あお」

「アオ?」

「そ。海南碧みなみ あお。……またよろしくね、沙季」

 伸ばされた手を取ると、繋がりの形がテーブルの上に架かる。指が絡まない橋は友達と名付けるのに十分すぎるほどだった。

 離すのが惜しくてアオの手をにぎにぎしてると「こら」と叩かれる。ひどいや、と涙目で抗議するけど「片付け手伝って」と言われたので粛々と片付けをこなすことにした。

 食器を洗い終わって、壁にかけられた時計を見る。もうすぐ十九時になるのが見えて、そろそろ帰ろうかなー、と横目でアオを窺う。アオは遠くを見つめるように手元へ視線を注いでいた。肩を指で小突くと飛び跳ねるようにこっちを向く。

「な、なに?」

「や、帰ろっかなー、って」

「そ、そう」

「でさ」

「?」

「玄関ってどこ?」

 アオが呆れたように溜息を吐く。ごめんなさいね、記憶喪失なもので。

 アオに連れられて玄関に向かう。途中、私が寝ていた和室に寄って通学鞄を回収する。

 靴に履き替えて外に出ると蝉の鳴き声はどこにも聞こえなくて、代わりに鈴虫の輪唱が夜闇に響いていた。凛とした音色に秋を先取りしたような涼しさを感じる。

「じゃあ、気をつけて」

 家の明かりから離れて夜の中に入ると、心が支えを失ったようにか細くなるのを感じる。離れたくない、もう少しここに居たい、という気持ちと帰るべき場所がある現実とがせめぎ合う。

「アオ」

「なに、改まって」

 もう少しお喋りしようよ、と言ったらアオはどんな反応をするか想像してみる。なんだかんだ言いながらも話に付き合ってくれそうだった。

 それがわかってしまうから言い出せないでいた。

「……なんでもない。また明日」

 未練がましいものを振り払うように大きく手を振る。アオがぎこちなく手を振り返すのを認めてから帰路に着く。

 暗青色の空を見上げるといまの自分と重なる気がした。空に浮かぶまばらな光点が今日私が得たもので。いつか夜空を埋め尽くすほどに星が満ちたとき、私の記憶は元通りになるのだろうか。

 わからない。わからないことだらけだった。

 記憶を失った原因も、私自身のことも、アオのことも。

 まぁ、でも。

「なんとかなるか」

 放っておいても死ぬわけではないのだし。それに自分の足跡を辿っていけばふとした拍子にばーんと記憶を取り戻すかもしれない。

 道の先は真っ暗なのに。それでも足を踏み出せてしまうのはきっと経験が無いからだ。だから今はその無鉄砲さを頼りに前に進んでいきたいと思った。……進んで、暫くして気がつくことがあった。

 急いで回れ右をしてアオの家へ走って引き返す。夏の夜は蒸し暑く、せっかく引っ込んだ汗がまた吹き返してくる。玄関先にまだアオが居たことに安堵と疲労の息が漏れた。

「お、おかえり……?」

 ただいま、と冗談もそこそこに要件を切り出す。

「アオ、私の家どこか知ってる?」

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