第17話 屋敷の監視人(1)
本格的な暑さに突入してきた頃、エリーヌとアンリは木陰で座りながら朝食をとっていた。
小さな木のローテーブルには、この地方での伝統工芸である『シュラース』という技法で編み込まれた竹のカゴがおかれている。
中には夏野菜とミートソースのサンドイッチに、スクランブルエッグを挟んだロールパンなど。
お供には桃のジュースがグラスに注がれており、エリーヌは一口飲んで顔を綻ばせる。
「やっぱり美味しいですね、この地方の野菜や果物は」
「ああ、それは俺も思う。ここは土壌も豊かだし、人々の気質も穏やかだが努力家が多く、いいものへの探求心が強いからな」
「頑張り屋さんということですね」
「そうかもしれないな」
この地方の工芸品について饒舌に、そして楽しそうに話すアンリを見つめてくすりと笑う。
「どうかしたか?」
「ふふ、いえ。本当にアンリ様はここの皆のことを愛していらっしゃるのだな、と」
「あ、あ、愛してる!? いや、別に、そんな愛してる……」
そんな簡単に愛してるなんて言葉が出るのか、なんて小声で言ったが彼女の耳には届いていない。
やはり自分には愛の言葉を囁くなんて芸当は無理かもしれない、と必死で恥ずかしさをごまかすようにパンに手を伸ばした。
スクランブルエッグ入りのパンを手に取ると、口に頬り込む。
「んっ!!」
「アンリ様っ!?」
「み……みず……」
急いで食べたせいで喉に詰まらせてしまったアンリは、胸元を叩いて苦しそうに顔を歪める。
エリーヌはテーブルの上にあった冷水をさっと取ると、彼に手渡した。
受け取った水をこれまた急いで飲もうとしたアンリに、横から「慎重にゆっくりと!」と声がかかる。
喉を大きく揺らしてパンと水を流し込むと、ふうと大きく息を吐く。
落ち着いた様子を見て、エリーヌも胸をなでおろした。
「もう、びっくりするのでやめてください」
「いや、ごめん。ちょっと焦って食べ過ぎた」
「子供じゃないんですから」
「……ごめん、気をつける」
事が落ち着くとなんとなく二人とも目が合った。
ごくりとまた喉を鳴らしたアンリと、少々瞬きが多くなるエリーヌ。
まだ朝の涼しさが風に乗って運ばれてくる。
「エリーヌ」
「アンリ様」
互いの名を呼んでどちらからともなく身体を寄せ合っていく。
アンリの少し冷たい手がエリーヌの頬に添えられている。
エリーヌはそっと目を閉じて、二人はまだ重なったことのない唇を意識して、鼓動を高鳴らせた。
吐息が徐々に近づいていったその瞬間に、アンリは添えていた方と反対の頬にちゅっと優しく唇をつけた。
エリーヌがそうっと閉じていた目を開くと、目の前には目を逸らして顔を赤くした夫の姿があった。
(ああ、そうだ。この人はこんな感じだ。可愛い人……)
ここで思い切って唇に出来ないのが、彼。
アンリも自らの頭に手をやって、悩ましそうにする。
「ふふ、待っています」
「それは、かなりプレッシャーだよ。エリーヌ……」
再び目が合った二人は鳥のさえずりが一つ聞こえた後に、笑いあった──
ゆっくりとした朝食の時間を過ごしたエリーヌは、自室で作業をするべく廊下を歩いていた。
(よし、ロザリアにペンとインクももらってきたし、これで作業できる)
部屋に大量の紙はあったものの、ペンやインクは長年使用していないせいか変色が激しく使えなかった。
昨日の夜そのことをロザリアに伝えると、替えのペンとインクを用意しておくとのことだった。
(こんなにいいペンでなくてよかったのに……)
それはルジュアル細工のペンで、一目で高そうなそれとわかった。
自分でひとまずは書物を使ってこの地方の歴史と伝統工芸品について勉強しようとしていたので、なんとなく高級品を使わせてもらうことに少し引け目を感じる。
しかし、受け取ってしばらく考えながら歩いているうちに、これは逆にやる気になるのではないか、と考えが改まって気分も高まってくる。
(意外と形から入るタイプなのかもしれないわね)
そんな自分分析をしながら、自分の部屋の近くの角に差し掛かった時に部屋のある壁の前で立ち止まる。
それは前に夕食の席に向かおうとした時に躓いてしまった壁。
今見ると、以前の壁のズレはなくなっており、綺麗な白い壁になっていた。
(ディルヴァール、直してくれたのね)
彼の手際の良さに驚きながら、その壁に手を触れてみた。
(そういえば、この壁もちょっと変わった材質のような気がする)
なんとなく柔らかい材質で、人差し指でちょんと押すと少しへこんですぐに反発しながら元の形状に戻る。
自分の部屋の壁はこんな柔らかいものではなかったような気がする、とふと考えながら天井を仰いだその瞬間、触っていた壁が急に奥へと移動してエリーヌは前に転げそうになった。
「うわっ!!」
壁は数十センチ前にずれた後にそのまま真っ暗な空間が現れる。
勢いよくそこに飛び込む形になってしまったエリーヌはそのまま暗闇に身を投じた──
「う……いたた……」
絨毯のおかげでひどい怪我はしなかったが、手と膝あたりが少し痛む。
じんじんとする身体を起こしながら暗闇の中でぼうっと光る奥に視線を向けた。
(光……?)
辺りを見回しても真っ暗で本とんどよく見えない。
かすかに奥の光が漏れ出ているおかげで、壁と大きな本棚がいくつか見える。
エリーヌはひとまず光がするほうへとゆっくりと歩いていく。
光は扉の小窓から漏れているものだとわかって、その小窓から覗こうとするがガラスの細工が細かく中が見えない。
好奇心と恐怖心が入り交じりながらも、今回は好奇心が勝った。
慎重にドアノブに手をかけて扉をあけると、そこには年季の入った椅子が目の前にあった。
よく見ると、背もたれの部分から頭が少し覗いている。
(誰かいる……?)
エリーヌはその人物に夢中になっており、気づかなかった。
椅子に座ったその人が鏡越しにエリーヌの姿を確認していたことを……。
エリーヌが回り込んで顔を確認しようとしたその時、椅子から彼は立ち上がった。
「──っ!!」
振り返った彼はシルバーの髪、そうしてルビーのような丸い瞳をしてエリーヌを見つめていた。
「待っていましたよ、お姉様」
エリーヌより背の高いその男は、彼女に向かって手を差し出して歓迎した──
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