コイのアジ
おじさん(物書きの)
どんなアジ?
嵐の日に大破した漁船が、波間に消えていくのをぼんやりと見ていた。
岩礁にでも叩き付けられたのだろうなと、考えるでもなく考えていると、波風に乗ってかすかに血の臭いがした。忙しなく上下する波間に目を遣ると男が見える。こんな嵐の日に船を出す馬鹿はどんな顔なのだろうと、興味本位に思うまま、男に近付き抱き寄せた。
だいぶ時間が経っている事に気がついた。それもその筈だ、男を抱えたまま住み処に戻っていたのだから。
男は息もしていなかったし、体のあちこちの骨が折れているようだった。額に張り付いた前髪をなで上げ、蒼白な顔を両手で包み込むと、冷たい唇に自らの唇を重ね、祈るように息を吹き込んだ。
幾度そうしただろうか、男が咳き込んだ時に歯が当たったのか、それとも噛まれたのか、唇が少し切れて血がにじむ。何にせよ男は息を吹き返した。そして飲み込んだ海水を吐き出し終わると、全身の激痛で気を失ってしまう。
苦痛に歪んだ顔に頬を寄せ、再び唇を重ねた。
どうやら俺はまだ生きているらしい。体を動かそうとすると全身に痛みが走り、声にならぬ叫び声をあげる。それに目も見えぬようだ。痛みだけが俺を支配している。舌を噛み切る力もない。ただ苦痛に耐えるだけの、まるで生き地獄。
どれだけ時間が過ぎたのだろう、不意に口の中に何かを押し込まれた。これは魚の切り身か。噛む力もなく飲み込むと、不思議と体の痛みが和らぎ、次に眠気がやってきた。
数日すると男は喋れるまでに回復した。男は自分の事、両親の事、村の事、色々な事を話してくれた。
私は専ら聞き役だったが、痛みに耐える男の体を摩りながら、歌を口ずさむと、男は綺麗な歌声だと呟いて眠りについた。
娘のおかげで体に力が戻ってきた。起き上がる事はできなかったが、腕を動かして娘の手を握る事くらいはできる。温かくてしなやかな手だった。
男の体力が回復していくにつれ、悲しみを伴った胸の痛みを感じていた。もうすぐこの甘い営みが終わってしまう。
私の全てを捧げた男。その最後の時、どんな言葉が溢れ出すのか想像も付かない。
男の顔を見ているとどうしようもなく涙が溢れた。
頬や唇に温かい雫が当たるのを感じて眠りから覚めた。驚いた事にぼんやりとしているものの、視力が回復している。
「見える……君の顔が見えるよ——泣いているのか?」
「……嬉しいからだよ」
「ありがとう、君のおかげで——」
言葉を失った。彼女の下肢を見てしまったから。
固い唾を飲み込んだ。
「君は俺のために……」
「大丈夫、私達はこれくらいじゃ死なないんだから」
「だったら、だったらどうしてこんなにも君の体は冷たいんだ……」
「自分を責めないで、これは私が選んだ事なんだから。……少しだけ眠るね」
「……ああ、ゆっくりおやすみ。君が目覚めるまでそばにいるから」
二人は仄暗い洞窟でいつまでも、いつまでも寄り添っていた。
コイのアジ おじさん(物書きの) @odisan_k_k
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