第35話 実は甘えん坊な元勇者カレシ
暫く果凛の好きなようにさせていたが、さすがにこのままずっと過ごすわけにもいかない。ダンジョンにせよ、その前に夕飯にせよ、やる事はたくさんある。
「……もうこのくらいで十分だろ。そろそろ離れてくれないか? 母さんも帰ってくるし──」
「だ~め、ですわっ」
「ぐええええ」
引き離そうとすると、それに抗うようにして果凛は俺の腰を抱き締めた。
苦しい、背骨が折れる。いや、どうせこの身体は何をしても折れないのだけれど。
「だって、何もできないだろ。このままだと」
「何もできなくて構いませんわ。このままぎゅってしたまま過ごしましょう?」
「ぎゅってしたまま、ねえ……?」
「はいっ。ぎゅってしたまま、ですわっ」
果凛は言いながら、言葉通り俺の腰をぎゅっと抱き締めた。
そのままの体勢のまま、彼女の頭を撫でながら天井を見やる。電気はついておらず、部屋の中の明かりは外から差し込まれる夕陽のみだった。
クーラーが利いてきて、室内のじんわりとした暑さは少しずつ和らいでいた。腰回りから感じる彼女の体温以外は、ちょうど良い気温だ。
何か話そうにも、ここ数日毎日一緒にいて何かしら話しているわけで、今更新しい話題なんかもない。〈
果凛は相変わらず黙ったまま、俺に抱き着いていた。仕方なく、彼女の体温を感じたままぼんやりとリビングの天井を見上げて過ごす。
生まれてから当たり前に過ごしてきた自宅のリビングに、異世界で死闘を繰り広げた魔王がいて、そんな魔王が俺に抱き着いて甘えている。数日前には、ここで彼女と初めてのキスだってした。
正直、どうしてこんな事になっているんだろうと思いながらも、今の環境にどこか幸せを感じていた。
本当だったら、この世界にいるはずのない少女。いや、本当だったら、俺もトラックに轢かれていて、この世にはいなかったはずだった。
そこで、ふと思う。
だとすると、ここにいる俺は、本当に存在していると言って良いのだろうか、と。俺は、本当に異世界に転移する前までの俺と同じ人間と言えるのだろうか? 本当はもう冴木蒼真は死んでいて、俺の記憶と容姿を持つ別の誰かが異世界転移前と後で俺とすり変わっているのではないだろうか?
もしこうだとしたら、それはもう、この世界に生きていた冴木蒼真とは別の人間だ。
「……何を考えておりますの?」
果凛は腕の力を緩めて、こちらを見上げて訊いた。
どこか心配してくれているようにも思えた。
「別に、何も」
少しだけ嘘を吐いた。
何も考えていなかったわけではない。ただ、彼女に話していいのかもわからず、そして自分自身がどこか頓珍漢な事を考えている自覚があったので、伝えようがなかったのだ。
しかし、果凛はやはりパートナーというか、そんな俺の嘘を簡単に見破ってしまった。
「嘘、ですわよね?」
「えっ?」
「今、とっても寂しそうな匂いを発しておられましたわ」
「匂い⁉」
慌てて自分の匂いを嗅ぐ。俺、そんな変な匂いをしているのだろうか?
果凛はそんな俺を見て、「体臭の事ではありませんわよ」と呆れたように笑った。
「雰囲気というか、オーラというか……蒼真様にまとわりつく空気感に、どことなく哀愁が漂っておりましたの。何だか、まるで泣いているみたいでしたわ」
「泣いているみたい?」
「ええ。孤独で、寂しくて……一緒にいるわたくしまで泣きたくなってしまいましてよ」
「えっと……それは、ごめん。全然自覚がなかったけど」
本当にその自覚はなかった。だが、孤独や寂しさを感じていたのも間違いなかったと思う。
果凛は俺のそんな本音を見抜いているかのように、じっと見据えていた。これは、逃れる事はできなさそうだ。
俺は意を決して、先程考えていた事を話し出す。
「……今こうして果凛と一緒にいる俺はさ、果たして本物なのかなって、ちょっと考えてた」
「本物……? 蒼真様の偽者がいますの?」
「そういう意味じゃないんだけど……ううん、何ていえばいいのかな」
苦い笑みを浮かべて、頭を掻く。
何て言えばいいのか、上手い表現方法が浮かばない。
「俺、果凛がいた世界に転移する直前に、トラックに轢かれそうになってたんだ。そのタイミングでテンブルクに召喚されて、〈
事故の際、俺はトラックの前輪・後輪で轢かれて、その後ガードレールに突っ込んだらしい。生身の身体ならば、あの瞬間に俺の人生は終わっていたのは間違いない。異世界転移という超展開がなければ、今この家にいる事も、ここにいる果凛とこうして過ごす事もなかったのだ。
だとすれば……それは果たして、本当に生きていると言えるのだろうか? いや、生きているには生きているが、俺が俺だという証明を、誰ができるのだろうか?
あの瞬間に、冴木蒼真という人間は実は死んでいて、俺の思考と記憶を持つ別の誰かが俺とすり替わっているとしたら? もしそうなら、それ以前の俺と今の俺を区別できる人間は、以前の俺と今の俺が同一人物である事を証明できる人間はいるんだろうか。それを考えると、なんだか急にとても怖くなってしまった。
そこまで果凛に説明してから、彼女が驚くように目を見開いていたので、はっとする。一体俺は何を話しているのだ。頭がおかしいにも程がある。
「なんてな。ごめんごめん、今なんかぼーっと天井見てたらそんな事考えちゃってさ。もしかしたら、ここ最近の環境変動っぷりに心がヤられちまったのかもな。変な事言って──」
「わたくしがッ」
変な事言ってごめん、と繋げようとした言葉は、果凛によって遮られた。
「果凛……?」
「わたくしが……証明できますわ。蒼真様は蒼真様、とわたくしはちゃんと認識しています。わたくしと出会う前の蒼真様については存じ上げませんけれど、それでも……わたくしと出会ってからの蒼真様は、間違いなく同じ蒼真様でしてよ。それだけは、わたくしが証明いたしますわ。ですから……そんな悲しい事を言わないで下さいまし」
果凛はまるで俺の存在をしっかりと確かめるようにして、ぎゅっと俺の腰を抱き締めた。その声はどこか震えているようにも聞こえた。
「そっか……うん、そうだよな。ありがとう」
言いながら、果凛の頭を撫でる。
彼女の体温を感じているうちに、先程感じていた不安がどんどん薄れていっているように感じていた。
転移前と転移後の自分の自己同一性を俺は確信できないでいるけれど……それでも、きっと彼女の存在と温かさ、そして彼女の言葉だけは本物だと確信が持てた。
俺は彼女を撫でる手を隣のソファーに置いて、ぽんぽんと叩いて言った。
「ほら、そろそろ隣座れよ」
「……隣に? それは、構いませんけれど」
果凛は怪訝そうにしながらも、一度立ち上がって優雅に俺の隣へと座り直した。
「よし……ほら」
果凛が隣に座ったのを確認してから、俺は柔らかく微笑んで、彼女に向けて両手を広げてみせた。
唐突な俺の不審な行動に、果凛は不思議そうに小首を傾げている。
「いや、ずっと前屈みでハグするのって意外に腰に来るんだよ。これならもっとぎゅってできるだろ?」
「……!」
そう言ってやると、彼女はみるみるうちに顔中に喜色を広げていく。そして、俺の胸の中目掛けて飛び込んでくるのだった。
「ええ! たくさんたくさん、ぎゅ~して欲しいですわっ」
「はいはい、わかったよ」
頭を撫でてやると、「うぅぅん……」と何とも言えない声を上げて甘えてくる。何だか猫だか犬だかみたいだ。
「まさか、あの魔王がこんなにも甘えん坊だったなんてな」
ちょっとからかいの意図も兼ねて、言ってやる。
彼女は特段否定もせず、くすくす笑った。
「ええ。本当はずっと……誰かに甘えたかったのかもしれませんわ。それが許される立場ではなくて、またそういった相手もいなかっただけで。幻滅させてしまいまして?」
「いや、そんな事はないよ。ちょっと意外だったけどな」
ダンジョンでの果凛を見ていると、やっぱり異世界で戦ったあの魔王だなと思う時もある。だけれど、学校や家で果凛と過ごしていると、全く別の存在のようにも思えてくるから不思議だった。
「あなたの果凛は、本当は甘えん坊で寂しがり屋で、ちょっとだけヤキモチ妬きなのですわ」
「ちょっと……なのか?」
「ええ。ほんのちょっとだけ、ですわ」
可笑しそうにそう言うと、彼女は瞳を閉じて、ほんの少しだけ顎を上げた。
俺も同じようにして瞳を閉じて、そっと彼女の方に顔を寄せていく。
実はこの時、俺はまた嘘を吐いた。
甘えん坊なのは、果凛ではない。俺だ。俺が果凛に甘えたかったから、果凛の甘えん坊な性格を利用したのである。
こうすると、彼女が甘えてくれると知っていて。彼女に甘えられると、俺は安心できて。甘えてくれる彼女に、俺は甘えていた。ただただ自分の存在を誰かに認めて欲しかったのだ。
結局、母さんが帰ってくるまでの間、ずっと俺達はくっついていた。クーラーが利いて冷える身体を暖め合うようにして、互いの体温でクーラーの冷気に抵抗する。
そういえば、初日のキス以来恋人っぽい事はしていなかったし、果凛は果凛で少し寂しかったのかもしれない。初日以降ダンジョンにも入っていなかったし、怨恨路線で大正フラミンゴが狙われたわけではなさそうだというのもわかったので、少し気が緩んでいたというのもあるだろう。
俺も……ちょっと疲れていて、色々考えてしまった。一体何を考えているんだか。柄にもない。
ただ、少し気を緩め過ぎていたな、と俺達は翌日に痛感する事になる。
俺達がこうして穏やかな土日を過ごしていた頃、ダンジョンでは異変が起きていたのだ。
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