老夫婦
あべせい
老夫婦
セダンタイプの車が走る。車のドアには大きなヘコミがあり、その周りにも醜い引っ掻きキズがたくさん。
運転席のカメが、助手席の鶴吉に話しかける。
「郵便局って、どこにあるンだい。どこにもありゃしないじゃないか」
「もう、通り過ぎたンだ。さっき、曲がれと言ったのに、聞かないからだ」
「なに言ってンだい。あのとき、あんたは性懲りもなく、横断歩道を歩いて行く若い娘に心を奪われていて、『曲がれ!』と言ったかと思うと、『いや、まっすぐだ!』『いや、曲がれ!』って、どっちなんだか、わかりゃしない」
「そりゃ仕方ない。あの女は、曲がると思ったら、まっすぐに行きかけ、まっすぐと思ったら、急に曲がって行ったからだ」
「あんた、その病気、いつになったら、治るのさ」
「これは病気なンかじゃない。おまえの皿集めと同じだ」
「わたしがお皿やお碗を集めるのは、立派な趣味だよ」
「安物ばかりな」
カメ、怒りに火が入る。
「安物しか買わせないのは、だれだい! あんたがロクな稼ぎしかないからだろう。2人で箱根に日帰りで温泉につかっただけでなくなる年金で、1ヵ月暮らせ、って。あんたは、年金制度がお粗末なンだというけど、あんたの稼ぎがお粗末なンじゃないか。お国のやることは昔から、こんなものさ。やっているという形だけで、中身はお粗末。年金制度はありますって言わないと先進国として恥ずかしいからそうしているだけで、中身は、役人には手厚く、多くの国民には薄っぺらな年金しか支給しない。そんなこと土台、わかりきっていることさ」
鶴吉は、また始まった、といわんばかりの顔をして、窓の外を見ている。
「都合が悪くなると、ダンマリかい。あんたの昔からの悪い性分だ」
鶴吉、突然、
「オイ、おれが運転する。変われッ!」
「いやだよ。どうせ、また、若い子を見つけて、後をつけようって魂胆だろうけど、これ以上、車をボコボコにされたらたまらないからね」
「だれが車をボコボコにした!」
「あんたじゃないか。女のコに見惚れていて、電柱にガーンと車体をぶつけて。このドアのヘコミはいつになったら直すつもりだい」
「これくらい大したキズじゃない。ボコボコなんていうな。人聞きが悪い……」
「へェー、人聞きが悪い、って。よく言えたもンだ。これが、まともな車かい。傷のないところを探すほうが難しいくらい、そこらじゅうキズだらけじゃないか。ボンネット、ドア、屋根、バンパー、どれひとつとってもまともな所がありゃしない」
「おまえな。これはもう18年、乗っているンだ。キズがつかないほうがおかしい……おまえの……いや、なんでもない」
カメ、キッと眉を吊り上げる。
「わたしのシワと同じと言いたいのかい。わたしのシワとタルミは、みーんなあんたのせいだ。さんざん苦労させられたからね。若い頃から、金をかけて手入れさえすれば、こんなもの、一つも見えなくできるンだ。いまの美容テクニックならね!」
「また、それだ」
「女優をみてごらん。わたしと同じ年なのに、いまだにシワ一つない、つるンつるンの顔で、テレビに出ているじゃないか」
「もういい。おまえの話はなんでも、最後はおれの責任になるンだ」
「それがいやなら、さっさと離婚するンだね」
鶴吉、真剣に地図を見ながら、
「もうそろそろだ。通り過ぎて、1回、2回、3回、4回と回って、元の通りに出たンだからな……」
「あんた、こんなに遠くまで来て、郵便局に何の用事があるンだい」
「決まっているだろうが、貯金をおろすンだ」
「貯金!? 通帳を持っているの、あんたが! わたしの知らない通帳が、まだあるって!」
「毎月、余った小遣いを貯めている。おれのヘソクリだ」
「だったら、たいしたことはない。あんたの小遣いは月に5千円だけだから。いくらもないだろ」
「それがそうでもない。パチンコでふやし、競馬で当て、宝籤で大当たりしたからな」
「だったら、わざわざこんな田舎に来なくても、家の近くの郵便局でもよかったじゃないか」
「この街がいいと言い出したのは、おまえだゾ。高速を1時間余り走り、海に面したこの城下町の郵便局に行こうと言い出したから、おれもついでに、同じ郵便局を利用しようと考えただけだ」
「ヘェー、そうだったの」
カメは考えている。言っていいものか、どうかをだ。
「おまえこそ、この街の郵便局に何の用事があるンだ?」
「決まっているじゃないか」
鶴吉、首をひねる。
「わからないのかい」
カメ、真剣な顔付きをして、運転に集中している。
「ここは、どこだい?」
鶴吉、車の窓から、二階家が建ち並ぶ街並みを好ましそうに見ている。
「どうして、こんなところまで来たと思うンだい?」
「おまえが、街のスーパーじゃロクな食材が手に入らない。2、3日旅行して、おいしいものを食べようと言ったからだろう」
「うちに、そんなお金があるのかい? 2人で毎月、10万にも満たない年金で、預貯金を食いつぶしながら、きょうまでカツカツで生きて来たンだ」
「年金は、5年早くもらうと3割減額なんてあのとき社会保険庁の役人に脅かされたが、あのとき我慢していらゃなァ……」
カメ、鶴吉の繰り言は聞いていない。
「いまはもう少し多く、もらえていたンだ。しかし、あの5年間は、わずかでもいいから金が必要だった。あのときの判断に間違いはなかったはず。悪いのは政府だ。元々の支給開始年齢を無理やり5年も遅らせておいて、早くもらったやつは減額ダなんて。こいつは詐欺にも等しいやり口だ」
「なに、ぶつぶつ言ってンだい」
鶴吉の愚痴は終わらない。
「2ヵ月に1度の年金支給日まで、まだ20日以上もあるこの時期は、いつも1日の食事代を3日に分け、スーパーの試食品やパン屋の売れ残った徳用セットで空腹をごまかしている」
「なのに、よく旅行なんてできる、って。おかしいと思わなかったのかい」
「やりくり上手なおまえだ。ついにおまえもヘソクリを出したか、って考えた」
「そんなのは、去年の暮れでなくなっちまったよ。寂しい話だがね」
「じゃ、本当に金がないのか。今夜泊まるホテルの支払いはどうするつもりだ」
「だから、これから」
「これから?」
「ホントにあんたは鈍いね。いやになっちまう」
鶴吉、わけがわからない。
「いいから、よく聞くンだよ。これから、郵便局に着いたら……」
鶴吉、カメ夫婦の車が、車道脇に停止する。特徴のある郵便局の看板は、百メートルも先だ。
鶴吉が助手席から降り、おぼつかない足取りで、咳込みながら郵便局に向かって歩く。
鶴吉はくたびれた野球帽を深くかぶり、口には大きめのマスクをしっかり着けている。
郵便局は、局員が3人だけの小さな店舗。
鶴吉が郵便局のドアの前に立つと、自動で開く。中から「いらっしゃいませ!」と若い元気な声が響く。
店内には、局員以外には、和服姿の若い婦人のお客が一人いて、何かの支払いに必要なのか、ちょうど百万円の束を窓口から受け取ったところだ。
鶴吉、鞄から通帳をとりだすと、窓際にある書き物台に向かい、支払い票をとって、金額を記す。「¥5000」と書いて、すぐに「¥50000」と訂正する。
時計を見ると、車から降りて4分、たったところだ。
百万円の婦人は、お金をバッグにしまうと、窓口の方を向いている長椅子に腰を下ろす。
鶴吉、百万円の婦人をちらちら見て、迷っている。
「ダメだ!」
鶴吉は、局員がびっくりするような大声を出すと、支払い票を握りつぶし、ドアの前に立つ。
自動ドアは、中から出るときは、手で触れないと開かない仕組みのようだ。
鶴吉、透き通ったドア越しに、外の通りを見ている。
見覚えのある車が、ポストの前に停止している。運転席から、野球帽にサングラスの緊張した妻の顔が、鶴吉を見ている。
鶴吉、大きく口を動かし、「まだ、だめだ」と口の形だけで伝えようとする。しかし、妻のカメは、「エッ、なに、なんだって!」とつぶやき、業を煮やしたのか、エンジンを切らずに車から降りた。
手には、ハンマーを忍ばせたボストンバックを提げている。
鶴吉はドア越しに、手を小刻みに横に振った。
しかし、カメは怖い顔をして、鶴吉をにらみつけながら、郵便局のドアに向かってくる。
一方、百万円の婦人はスマホをいじり、だれかと話をしている。
「用意できたわ。なに……外で? ダメよ。ここでないと……見られる、って? それがいいンじゃないの……もォ、そばまで来ている、って……」
婦人、立ちあがって、ドアのほうに行きかけた。
ドアの前には、手を横に振る鶴吉がいて、婦人の行く手に立ちはだかっている。
「ちょっと、ごめんなさい」
婦人はそう言って、鶴吉を退かせようとするが、鶴吉の耳には届かない。で、何気なく、鶴吉の背中越しに、郵便局の外を見た。
突然、ドアが左右に開く。
緊張した表情でやってきたカメとドアの間に割り込むようにして、若い男が飛び込んで来た。
男は、呆然としている百万円の婦人の手から、ハンドバッグを引っ手繰ると、踝を返し、「邪魔ダ!」とどなり猛然と逃げた。
「ドロボー!」
婦人はようやく事態を飲み込み、叫ぶ。
カメは出て来た男に突き飛ばされ、2メートル近く飛んだ。
鶴吉は地面に転がった妻に駆けよりながら、逃げる男を目で追う。すると、男はエンジンの掛かった無人の車に気がつき、その運転席へ。
それに気がついた鶴吉は、倒れてもがいている妻を放りだし、車に走った。
「ドロボー!」
鶴吉は年齢を感じさせない素早さで、動き出した車の後部ドアを開いて、中に飛び込んだ。
3分後、鶴吉を乗せた車は、交差点で信号を無視したことから、右から来た車に衝突されて大破、運転席にいたドロボーは重傷、後部座席の鶴吉は幸い、額にかすり傷を負っただけですんだ。
鶴吉、カメ夫婦のオンボロ車が走る。
鶴吉が運転席の妻に話しかける。
「なんでこんなことになったンだ」
「そりゃ、ドロボウ逮捕に協力したからじゃないか」
「そうじゃない。おれが車に飛び込んだのは、車を盗られたからだ。自分の車を奪い返そうと思ったからだ」
「そんなこと、どっちだって、いいンだよ。世間は、結果がよければ、拍手するンだ。これが、わたしが70年生きてきて学んだ人生訓だよ」
「そんなものか。2人で、ゴウト……」
「シッ! 何を言うンだ。お礼に10万円もらったンだから、結果は同じ」
「しかし、あの奥さん、いい女だった……」
「あんた!」
「いや、あの奥さん、夫の両親がこの街で旅館をやっているから、『お礼に泊まっていって欲しい』って、言ったよな……。しかし、あのドロボウ、ちょっとおかしい」
「どうしてよ」
「あのとき、奥さんは、スマホでこんな会話をしていた。『用意できたわ。なに……外で? ダメよ。ここでないと……見られる、って? それがいいンじゃないの……もォ、そばまで来ている、って……』。あの金は、知り合いに頼まれて用意したが、手渡したくなかった性質のものだ。それを、ほかの者に盗られそうになった……」
「身内のだれかが、あの事件にからんでいるというの。あんた、そのこと、警察に行ったとき、話した?」
「そんな余計なことはしなかった。その前に、奥さんが、戻ったお金の中から10万円を取り出し、『いろいろ事情があります。お察しください』と言って、おれの目をじっと見つめたンだ。あのイロ目には、久しぶりにクラクラした」
「まァ、いいか。そのおかげで、老舗旅館に泊まれるンだから。今回は、大目に見てやろうかい」
「とにかく、今夜は老舗旅館の豪華な夕食をご馳走になって、ホテルで寝る」
カメ、顔がキッと険しくなる。
「どうしてホテルよ」
「予約してあるンだ。もう、キャンセルできない。当日キャンセルは、全額とられる」
「ンもォ! あンたのことだから、住所も名前も本当のことを教えたンだろッ。バカなンだから」
「バカはないだろう。正直にやって何が悪い」
「あんたの正直はバカが付くンだ!」
「亭主に向かって、バカとはなんだ!」
「泊まるっていっても、あそこは去年の暮れにも泊まったホテルだよ」
「おまえが、高速で1時間ほどの距離にある町の郵便局がいいと言ったから、すぐに予約したンだ」
「あのホテル、温泉があったっけ?」
「ない。ただのビジネスホテルだ」
「去年の暮れ、あのホテルに泊まったときのこと、忘れたかい」
鶴吉、つまらなそうに答える。
「覚えている」
「チェックインするとき、フロントの男が、『朝食は無料になっています』って言うから、わたしが『朝食無料じゃなくて、朝食込み、というのが正しいンじゃない』って言ったら、横からフロントの若い女が、『いいえ、お客さま、当ホテルでは、朝からお仕事をなさるお客さまに、朝食を無料でサービスさせていただき、たいへん喜ばれております』って、ヌカした。だから、わたしは教えてやった。『1泊朝食無料と言えば、宿泊できたうえに朝食が無料で食べられるのだから、聞こえはいいけど、食べないお客にはありがたくもなんともない。これが、1泊朝食込みとなれば、朝食を食べないお客は、自ら朝食の代金を捨てることがはっきりする。だから、その分、ホテル代を安くしろという気持ちになるから、ホテルを選ぶ際、格好の判断材料になるじゃないの』って言ったら、あの女、『朝食がいらないお客さまって、おられるンですか』って、ヌカした。だから、『いるわ、うちの亭主よ。朝まで前の晩の酒がのこっているから、よほどのことがないかぎり、朝食はとらないの! この40年ずーっとそうだ』って言ってやった。そうしたら、あの女、目をシロクロさせて、『信じられません!』だって。だから、そばにいたあんたを呼んで、『これが朝食嫌いの亭主。あんた、言ってやんなさいよ。朝食分、宿代を下げろって』と言ったら、あんた、どうした? わたしの前に出て。あの女に『いいえ、お嬢さんの朝食なら、いつでも喜んでいただきます』って。わたしに大恥じをかかした」
「恥じをかかせようとしたわけじゃない。あのときは、本当に、朝食が食べたくなったンだ」
「鼻の下を、長―く伸ばしてね」
「もォ、いい」
「それよか、あんたのヘソクリ口座に、13万円もあったなンて、わたしにはそれが今回のいちばんの収穫だわさ」
「これは、おれの金だ!」
鶴吉は強い口調で言った。
「なにバカなことを言っているだ。法律を知らないのかい。『婚姻生活において築いた財産は、夫婦の共有のものとする』って、決まっているンだよ」
「ヘソクリでも、かッ!」
「ヘソクリも、ヘソのゴマも、だよ」
「汚いことを言うな。わかった。じゃ、さっさと旅館に走らせろ」
鶴吉は考える。
カメは、ちょっとマジな顔付きで、
「わたしね、いま考えていることがある」
「なんだ、言ってみろ」
「相手がどういうかわからないけれど、これから行く旅館で、住み込みで働けないか、って頼んでみないかい?」
鶴吉も同じことを考えていたのか、ドキリとする。
「おまえ、本気か?」
「そうよ。家に帰っても、することがない。もし、わたしたちを使ってくださったら、ありがたい」
「おまえの舌先3寸に賭けてみるか」
「一言、多いよ。向こうに行ったら、『お料理は頂戴いたしますが、宿泊のほうはご辞退させていただきます。その代わりといってはなんですが、一つお願いがございます』といって、話してみるわ。ダメモトだもの」
鶴吉、しみじみと、
「築30年の雨漏りし放題のボロ家に帰っても、つまらないか」
「ローンが終わったと思ったら、途端に雨漏り、床のきしみ、サッシや壁からの浸水。この世はホントによく出来ているわ。貧乏人には、いい思いをさせない、って」
「残るのは土地だけか。おれたち夫婦には、こどもがいないから、遺せる相手もいない。あの土地を売ったら、少しは余生を送る資金の足しになるか」
「そう、そうしよう。旅館で風呂炊きでも、トイレ掃除でも、なんでもやって、家なしで、気楽に行こうよ」
「家はなくても、宿があるか」
この夫婦、やっと、気が合った。
(了)
老夫婦 あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます