異世界チュートリアル 02 —異世界—





 異世界——そっか、異世界かあ。ん? 異世界? 異世界ってあの?



「お待たせいたしました、熱いので気をつけてお飲み下さいね」


 私の前のテーブルにホットミルクが置かれる。


 異世界という言葉がゲシュタルト崩壊しそうになったところで、彼女が飲み物を持って戻ってきたのだった。


「そういや自己紹介がまだだったな。まず、こちらの女性がヘザー。うちで色々と面倒を見てもらっている」


 男は私の正面の席に腰掛けながら、女性を紹介してくれた。


 紹介を受けた彼女は男の前に紅茶を置き、私に向かって軽く頭を下げる。


「私のことはヘザーと呼んで頂ければ。あと、何か困ったことがあったら気軽にお申し付け下さい」


 そう言って彼女は静かに微笑み、窓辺に置かれた椅子に戻っていった。


 改めて思う。綺麗な人だ。落ち着きがあって上品で、そしてどこかはかなげで。


 ヘザーさんは椅子に座り、長い髪をかき上げて先程の読書の続きを始めた。絵になるという言葉はこういう時に使うのだろう。


「そして私はカマツカ・セイジだ。漢字だとこう書く」


 男はペンを取り「やはり日本語はしっくりくるな」と、どことなく嬉しそうに言いながら、テーブルの上に置かれた便箋びんせんに『鎌柄 誠司』と書き込んだ。達筆だ。


「それで、君のことは何て呼べばいいかな」


「あ、ええと……私はヒシバナ・リナって言います。漢字はこう書きます」


 一瞬、本名を名乗っていいものかどうかという考えが頭をよぎったが、決して長くない人生経験における直感では『鎌柄さんは信用にる人物』だと判断した。何よりここが異世界なら、本名を隠したところでたいして意味はないだろう。


 私は、達筆の文字と比べられるのが少し恥ずかしく感じ、鎌柄さんの名前の下にちょこんと『菱華 莉奈』と書き加えた。


「菱華 莉奈さんだね、いい名前だ」


 本当にいい名前と思ってくれたかどうか怪しいが、そんな些細な言葉でも私の緊張は少しずつけていく。そして、鎌柄さんは紅茶に口をつけ本題に入った。


「さて、色々聞きたい事があるだろう、君も私も。質問があれば私の知っている範囲で答えよう。何でも聞いてくれ」


 どうぞ、と促された私はとりあえず思った疑問をぶつけてみる。


「ここは……ここは本当に異世界なんですよね?」


「その認識で問題ない。菱華さんは異世界という言葉自体は知っているようだね」


 日々生活に追われ友達と遊ぶことなどなかった私の娯楽と言えば、空いた時間にネットでアニメを観ることだった。その中には当然異世界を舞台にした作品もあったし、なんなら異世界に憧れていたふしもある。


「はい、そういった作品はたまに……いえ、よく観ていました」


「なら、話は早い。物語の中でしか起きないようなことが我々の身に起きてしまった、という認識で問題ないと思う」


「それでは、あの、私は死んでしまったという事でしょうか」


 一つの疑問が浮かんだ。大抵、その物語の彼彼女かれかのじょらは、死んだ後、異世界に転生してしまったのだから。


「それは、正確にはわからない」


 鎌柄さんは首をゆっくり横に振り、続ける。


「もしかしたら私達は死んでしまい、この世界はぞくに言う『あの世』というやつなのかも知れない。ただ、この世界でも人は死ぬし、魔物もうろついている。どちらかと言えば天国というより地獄の方だな」


「地獄……」


 私は少し、目の前が暗くなった。


「ああ、怖がらせてすまない。少なくともこの家の周辺は安全だ、安心して欲しい」


 少なからずショックを受けた私を落ち着かせようと言葉をかけ、鎌柄さんは話題を変える。


「菱華さん、少し妙な質問をしようと思うのだが構わないかな」


「あ、はい」


「君は『穴』に吸い込まれてこちらの世界に来た、ここは間違いないかな?」


 穴? 何のことだろう?


「いえ、私は通学途中に突風に巻き上げられて……気づいたらこの世界に」


「突風……突風ね——」


 鎌柄さんは考え込んでいる。私はミルクに口をつけ、続きを待った。


「いや、失礼。私は、あっちの世界で地面に出来た『穴』に吸い込まれてこの世界に来たんだ。そしてもう一人いるんだが、そいつは壁に出来た『穴』に吸い込まれたと言っていた。つまり——」


「ちょっと待って下さい、もう一人って私達の他にも?」


 驚いて話をさえぎってしまった。


「ああ、失礼。君よりもずっと昔にこっちの世界にやってきたものがいる。そいつも日本人だ。今はすっかりこっちの世界に馴染なじんで、遠くの街で暮らしてるよ」


 確かに、二人転移者がいるなら三人目がいたとしてもおかしくない。もっとも、彼らにとっては私が三人目なのだが——。


 色々と気になるけど、話の腰を折ってしまったことに引け目を感じていたので、閑話休題、続きをお願いした。


「すみませんでした。それで、つまり私は……」


「うん、同じ事例だとしたら、君は空中に出来た『穴』に吸い込まれた、と考えるのが妥当だろうな」


 なるほど、確かに『吹き飛ばされた』ではなく『巻き上げられた』と感じたのはそのせいかも知れない。


「『穴』というのは見てませんが、確かに感覚的にはしっくりきます」


「そこで、妙な質問の本題だが——」


 鎌柄さんは、私の服に視線を落とし問いかける。


「——君はさっき通学途中と言っていたね。それにその制服は高校生が着るものだろう。で、一応確認なのだが、菱華さんは『穴』に吸い込まれた時『高校生』だった、間違いないかな?」


 ドキッとした。そう言えば、この世界に来てから鏡で私の姿を見ていない。


「はい、と言ってもその日が入学式でしたが……」


 鎌柄さんは戸棚へ向かい、手鏡てかがみを持ってきた。


「念の為だ、これで自分の姿が相違ないか確認して欲しい」


 手鏡を受け取った私は、恐る恐るのぞき込んでみる。子供に戻っていたらどうしよう。大人になっていたらどうしよう。お婆ちゃんになっていたらどうしよう。



 果たして、鏡に映っていた自分の姿は——



 ——なんてことはない。少し汚れてしまっているが、家を出る前のまんまの私の姿がそこには映っていた。


 私は一応、右を向いたり左を向いたりと角度をつけて確認をし、答える。


「はい、変わったところがあるような感じはないです」


「そっか、そいつは重畳ちょうじょう


 鎌柄さんは紅茶に口をつけ続ける。


「いや、なに、菱華さんが会話の感じから年相応に見えなくてね、もしかしたらと思ったんだ。良く言えば大人びていて、悪く言えば子供らしさが感じられない」


 と、バツが悪そうに語った。


「よく言われるので、大丈夫ですよ」


 放任され、自分の生活は自分で管理しながら生きてきたのだ。同年代と比べると自然とこうなってしまうのは致し方ない。


 そこで、一つの疑問が浮かんだ。


「あの……そういう質問をすると言うことは、もしかして鎌柄さんは——」


「そうだね。私は二十五歳の時に『穴』に吸い込まれ、四歳くらいの身体でここに来て、それから四十年近くこの世界にいる」


 驚きだ。ということは鎌柄さんは、ええと……もう六十年程生きている計算になる。


「む、とは言っても精神年齢は年相応の自信はあるぞ」


 私の考えていることがわかったのか、鎌柄さんはどうでもいいフォローをし始めた。気のせいか、ヘザーさんの方からクスリと笑う声が聴こえたような気がする。


「もう一人の……日本から来たという方はどうなんでしょう」


 私は気になって尋ねてみた。


「彼は確か……二十八歳の時に『穴』に吸い込まれ、憶測が正しければ二十二歳の年齢でこの世界にやって来たはずだ」


「憶測?何か条件みたいなのがあるんでしょうか」


「私はその時期『子供の頃に戻りたい』と願っていた。そして、彼は『就職した頃に戻りたい』と思っていたそうだ」


 大人は大変なんだなあ、と場違いな感想が頭に浮かぶ。


「で、だ。『年齢に関しては願望が反映された姿で転移する』と私達は仮定した。その憶測が正しいのであれば、もしかしたら君にはそういった『年齢に対する願望』はなかったんじゃないか?」


「言われてみれば……そんなこと考えたことなかったかも知れません」


 子供の頃に戻って、また同じ生活を繰り返すなど論外だ。大人になりたいと思ったこともない。


「ただ、今から始まる高校生活を楽しみにしてました」


「そうか……それはお気の毒に……」


 目の前の男は、決して作った訳ではないだろう、沈痛な面持ちを浮かべていた。


「ちなみに、元の世界に帰る方法はないんですか?」


 私は、念の為聞いてみる。


「すまない、一応帰る方法を探していた時期もあったが……取っ掛かりすらつかめなかったよ」


 それはそうだろう。元の世界で『異世界から帰ってきた人』の話なんて聞いたこともないし、この世界に来た二人はこの世界に定住している。望んでか望まざるかは判断はつかないけれど。


「いいんです、それならそれで。でも、これから生活できる場所に心当たりがあるなら、できれば教えて頂けると助かります」


 元より私は一人だ。異世界がどんな場所かはわからないけど、覚悟を決めればなんとかなる、と思う。


「何を言ってるんだい」


 鎌柄さんは当然のように言う。


「年頃の娘さんを知らない土地に放り出すなんて出来るわけないだろう。何より、この世界の言葉を覚える必要がある」


 くっ、そうか言葉か、甘かった。大抵の異世界ものは言語の壁はなかったように感じていたのに。そう言えば鎌柄さん、さっき不思議な言葉を話していたがあれが異世界語か——。


「そういう訳で菱華さん、君が望むまでこの家に住んで貰っていい」


「でも、ご迷惑では……」


「そんなことはない。と言うより子供が遠慮するもんじゃない」


 子供扱いされたのが少し悲しかったが、ありがたい話だ。


「ありがとうございます、家事は一通り出来るので頑張ります」


 鎌柄さんは、気にしなくていいのに、とボヤいていたが、ハッと思いついたかの様な素振りを見せ、私に言った。


「菱華さん、これは住んで貰う条件というかお願いがあるんだが」


「はい、私に出来ることなら」


 平静を装いつつも、私は固唾かたずを飲んだ。変なお願いだったらどうしよう。


「——娘と友達になってくれないか?」





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