12 帰還


「そ、そんな横暴は許されませんぞ!」


 魔王城の一室。リザエラの姿を目にした途端、いつかの羊裁判官さんが気絶しそうな勢いで叫び声を上げた。


「終身刑ですぞ、終身刑! あれからまだ三ヶ月ほどしか経っていません。これのどこが終身ですか!」


 私は、いまだ現実感のないぼんやりとした頭でベッドに横になり、目の前で繰り広げられる騒動を眺めていた。


 リザエラ、無事帰還。


 この肉体は約三ヶ月間、棺の中でひっそりと死んでいたらしい。日本で最後の息を吐きだした直後、土臭く真っ暗で狭苦しい密室の中で目覚めた時にはパニックに陥りかけたのだが、直後、デュヘルの命令により墓地から掘り起こされて、私はなんとか正気を保つことができた。


 老いて凝り固まっていたはずの筋肉は、今は拍子抜けするほど滑らかに動く。痛みも強張りもない。


 頭の回転はともかくとして身体は元気だし、病人ではないのだから横になる必要はないのだけれど、起き上がろうとすると心配性のデュヘルが血相を変えて駆け寄って来るので、断念した。


 そして、そのデュヘルは今、とてつもなく悪い顔をして、屁理屈を捲し立てている。


「リザエラはあちらの世界で百年生き、天寿を全うした。そもそもこの刑を下した時、君は何と言った? 『死が訪れるその日まで、生涯幽閉されるべき』だったな。考えてみるのだ。リザエラは混沌の世界に落ち、あちら側に幽閉されたまま命を終えた」


 羊裁判官は呻いた。デュヘルがいっそう口角を吊り上げる。


「ゆえにリザエラは罰を受け終えた。以降、どのように生きても問題ない。彼女はもはや罪人ではないのだから」


 何と強引な。一応デュヘルの味方である私ですらそう思うのだから、リザエラの復活を良く思わない立場の人々からすれば、いっそう認め難いはず。


「そもそも、リザエラ様はすでに呼吸の停止が確認されました。ご遺体は、崩御一ヶ月後に国葬を行い、埋葬までされたはずでは?」

「奇跡が起きたのだ」

「そんな馬鹿な! 絶対に何か仕組んでいましたね」

「証拠は」


 羊裁判官は「うぐっ」と呻く。それから、全てを諦めたようにすとんと肩を落とし、恨めし気な視線をこちらへ投げた。私はさり気なく掛け布団を引き上げて金色の眼差しから逃げた。


「とにかく」


 羊裁判官は一気に消耗した様子で息を吐き、気弱そうな顔を精一杯怒らせて、捨て台詞を吐き捨てる。


「敵を増やしましたな、魔王陛下」


 デュヘルは冷えた笑みを浮かべ、羊裁判官の憤りと恨みを受け流す。


「敵など恐れるに足らぬ。それよりもどうなのだ。刑の終了を認めるか? いいや、訊くまでもなく認めざるを得ない。そうだろう」


 羊裁判官はぎゅっと唇を引き結び、不満を露わにぺこりと頭を下げて、何も言わずに部屋を出て行った。


 勝ち誇った様子でその背中を見送るデュヘル。不敵な表情はまさに魔王だ。


 私は布団を少し下げてシーツから完全に顔を出し、控えめに訊いた。


「あの、大丈夫なんですか。これ以上敵が増えたら」


 元々、魔王一家への反感は大きかったのだ。事態がどんどん悪化して、悪意を持った者らにお城から追放される未来がぼんやりと見え、私はぶるりと身震いする。


 一方、私の気など知らないデュヘルはあっけらかんとしている。


「ああ、問題ない。ナーリスがこの国にとって重要な存在である限り、表立って反逆する者はいないのだよ」

「でも」


 そのナーリスはモフモフで、それが原因で何度も嫌な目に遭ってきたではないか。


 その時、コンコンと控えめなノック音が室内に響いた。


 今度はいったい誰が来たのかと身構える。デュヘルが入室を促すと、扉が少しずつ開き、隙間から黒い靄がふわりと入り込む。


 全開になるのを待たずして、小さな塊が弾丸のように室内に駆け込んで、ベッドに横たわる私の上に飛び乗った。


「ぐふっ」


 小さいのに、結構痛い。けれどそんな痛みは些細なことだった。お腹にしがみ付き、顔面を私の寝巻きに埋めるようにして頬ずりをする幼い子供の姿を見て、私は何度か瞬きをする。


「え、誰……」

「リザエラ様」


 遅れてやって来たアリスが、兎耳を側頭に張り付かせ、今にも泣き出しそうな目をして言った。


「ナーリス様です。もう三か月もそのお姿で過ごされているのですよ」


 なんと、ナーリス。私は中古パソコン並みにのろい頭をフル回転させる。


 私の上でぐりぐりと顔を擦りつける茶色髪の男の子。その姿が、混沌に下る直前、腕の中で鼻ドリルを披露していたモフモフ子犬の姿と重なった。


 確かにナーリスは、生誕祭で人型を披露してから、短時間であれば少年姿を取ることができるようになっていた。けれど本当に僅かな時間だけしか維持できないので、あの子はずっと子犬姿で過ごしていたはず。


 私は半信半疑で口を開いた。


「ナーリスなの?」


 お腹の上の少年はピタリと動きを止める。それから、おずおずと顔を上げた。どこか照れ臭そうな赤い瞳がこちらを上目遣いに見上げた。その瞬間、私の心臓は射抜かれたように大きく跳ねて停止して、ひどい不整脈を起こした。


 尊い。なんて尊いのだろう。愛するモフモフとは程遠い、つるつるすべすべのお肌だけれど、こんなにも愛おしく思える存在は他にいない。間違いない。この子はナーリス。何よりも大切な、私の息子。


「ナーリス」


 私はもう一度呼びかけて、肘を突いて上体を起こす。ずり落ちかけたナーリスのお尻を手のひらで支えて抱き締めた。


「ナーリス、会いたかった。この百年間、モフモフや小さい男の子を見る度にいつもあなたを思い出していたわ」

「ひゃくねん?」


 嬉しそうに輝いていた瞳に怪訝そうな色が灯る。助け舟を出したのはデュヘルだ。


「母上は、三ヶ月で百年が過ぎる不思議な場所に旅行していたのだよ」


 ナーリスは純粋な顔で頷いた。


「そっかあ、母上がしばらく旅行に行くって聞いた時には寂しかったけれど、母上はもっと長い時間を一人で過ごしたんだね」


 なるほど、旅行。混沌へ下る直前、ナーリスは寂しそうにしていたものの、今生の別れを悟った様子ではなかった。デュヘルは最初から、理沙が天寿を全うした後に迎えに行く計画を立てていて、上手いこと伝えておいたらしい。


 私は、デュヘルのしたたかさに感心しつつ、話を合わせる。


「え、ええそうなの。ちょっと旅に出たくなってしまって」

「僕、お留守番頑張ったよ」

「偉いわ!」

「ウィオラと一緒に行ったんだよね。ウィオラはいつ帰って来るの?」


 私は顔を強張らせて静止する。そういえば、あちらでウィオラらしき人には出会わなかった。いや、もしかすると出会っていたのかもしれないけれど、私は気づけなかった。


 きらきらとした赤色の眼差しが突き刺さる。私は助けを求めてデュヘルへと目を向ける。彼は悲しげに少し眉尻を下げ、誤魔化すことなく真実を告げた。


「ウィオラはもう、帰って来ない」

「え」


 ナーリスのあどけない顔が凍り付く。デュヘルは腰を屈めて息子と視線の高さを合わせた。


「ウィオラは帰って来ない。旅行先が気に入ったので、あちらで暮らすことにしたのだ」

「そんな……」


 衝撃を消化していくごとに、ナーリスの表情が歪む。やがて、くしゃりとした泣き顔へと変わる。彼は、再び私の胸に顔を押し付けてしくしくと泣いた。


 ナーリスはウィオラに懐いていた。彼からすれば、実母も乳母も、ただ少し長い旅行に行っただけだと思っていて、まさか二度と会えないだなんて考えてもいなかっただろう。


「ウィオラは僕のことが嫌になったの?」

「違うわ、そうじゃない」

「じゃあどうして僕が待っているのを知っていて帰って来てくれないの」

「それは」


 もっともらしい言葉が出てこない。私はただ、哀れなナーリスの背中を撫でた。


 しばらく嗚咽を繰り返し、やがて気持ちが落ち着いたらしいナーリスははなをずびずびと言わせながら私の胸から顔を上げる。いじらしい仕草で私の顔色を窺い、怒りの色がないことにほっと息を吐いてから、健気に拳で涙を拭う。


「……お昼寝する」


 内向的な性格のナーリスにとって、悲しみを癒す手段は一人で涙を流すことなのかもしれない。私はナーリスの言葉に頷いて、アリスへと目を向ける。有能なメイドは意図を察して歩み寄り、ナーリスへと腕を伸ばした。


「ナーリス様、お部屋に行きましょう」

「うん」


 ナーリスは可哀想だけれど、ウィオラがどこにいるかわからないし、そもそも私と同じ混沌術で地球へ行ったのだから、もうとっくに天寿を全うしているのだろう。


 輪廻転生というものがあるのなら、あちらの世界で生まれ直し、全てを忘れて幸福に生きているかもしれない。ウィオラは根っからの悪人ではなかったはずだ。罪を償った彼女にも、どこかで幸せな未来を築いて欲しいと思えた。


 そうしていつか、もしかすると、世界を移動する方法を見つけてナーリスに会いに戻って来る……いや、さすがにそんなに都合の良いことは起こらないか。

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