2 奥様、こちらにおいででしたか
帽子から垂れるレース越しに周囲を見回す。
薄暗く、天井が低い。けれど床の面積は広く、バーカウンターのようなものやテーブルが並んでいる。縦の圧迫感があるものの、横に間延びしていて、まるで上からぺしゃりと踏み潰されたかのような空間だ。
つんと鼻を刺すのはアルコールの匂い。それと折り重なるように、ガーリックとオリーブオイルの香ばしい香りが漂っている。お酒のおつまみのようだ。美味しそう。
私は拍子抜けた思いで、いかにも飲食店らしい空気を吸い込んだ。
入口付近で突っ立っている私に向けて、好奇と怪訝の視線が向けられる。私は慌てて取り繕い、とりあえずバーカウンターへと向かった。
お酒の瓶が並ぶカウンターの奥から、目がちょっと退化した感じの……
「ご注文は」
酒焼けしたような、しわがれた声だった。私は反射的に答える。
「とりあえず生で。じゃなくてお勧めを」
いけない、素が出てしまった。ここは日本じゃないし、私は今、貴婦人らしい出で立ちをしているのだ。生ビールをがぶ飲みする令嬢がどこにいる。いやそもそも、この世界にビールはあるのだろうか。
心の中でごちゃごちゃと言っているうちに、土竜さんは軽く頷いてシェイカーに三種の液体を注いだ。シャカシャカと軽快な音がして、しばらくすると、鮮やかな青色の飲み物がカクテルグラスに注がれた。
目の前に差し出されたグラスを受け取る。綺麗だけれどすごい色。着色料なんてものが存在するのかわからないが、この色の正体はいったい何だろう。
「これは?」
恐々訊いてみたのだが、土竜さんは答えない。代わりに、無遠慮に私を観察しながら言った。
「お客さん、見ない顔ですな」
背筋を氷が滑った心地がして、未知の飲み物に対する不信感が鈍くなる。私はさり気なく視線を逸らし、グラスを傾けた。強烈なアルコールが舌を焼く。飲み込むために顎を上げると帽子がずれて、再びひやりとする。ケモ耳がないことがばれてしまったら面倒なことになりそうだ。
「きっと良いところの奥さんでしょう。こんなところまで大変ですねえ」
帽子の陰になった私の顔を、薄く膜がかかったような灰色の目で覗き込んだ土竜さん。その視線から逃れるため、さり気なく俯いた。
「どうしてそう思うの?」
「それはだって、こんなに上等な格好をする庶民はいませんからね」
言葉に詰まる。ほつれ一つない滑らかな布地の袖を指先でぎゅっと掴み、動揺を押し隠す。
「向こう側にも、お金持ちそうな人がいるわよ」
バーカウンターから離れた四角いテーブルの辺りで、小奇麗な格好をした紳士が数名、見るからに裏社会感のある怪しげな男らと何やらやり取りをしている。
土竜さんは私の視線を追い、顔を突き出して目を凝らしてから、くつくつと笑った。
「ああ、そうですね。じゃあお客さんもアレを買いに来たクチですか」
「え、ええ。そうね」
「何に使うんで?」
何に使うって、何を。
適当に話を合わせようと試みる。帽子の陰で無表情を装いつつも、全身の汗腺から嫌な汗が噴き出している。私は頭をフル回転させた。読みでは、この場所は混沌術と関係しているはず。となれば、秘密裏に売買されているのは関連の品。保護院で耳にした、盗まれた神樹の力なのでは。
そうとしか思えないけれど、もし予想が外れても言い訳ができるように、あえて曖昧な言葉を返す。
「息子のために……」
土竜さんは、ああと頷いて、水滴の付いたグラスと白い布を手に取った。
「それは大変なことですな」
特に怪訝そうにする様子はない。私は内心でほっと息を吐き、青色カクテルを喉に流し込む。本当はちびちびと味わうべき高アルコール度数だが、これ以上土竜さんと話しているとボロが出そうなので、早くこの場を離れようと思ったのだ。
グラスを拭きつつお客の飲みっぷりを眺めていた土竜さんが、首を傾ける。
「おかわりは?」
「いいえ、結構。美味しかったわ」
「まいど。事情があるみたいだし、今回はまけておきますよ」
「まけ」
その言葉に、私は硬直する。全身から血の気が引くのは今夜何度目だろう。
まける。つまり、お代は安くしておくよ、ということか。すっかり忘れていた。大変まずいことに私、お金を持っていない。
現代日本では、お財布を忘れたとしても交通系ICカードとかスマホとか、とにかく何らかの決済手段を持っていたから、つい深く考えずにお酒を注文してしまった。
奇跡が起きて硬貨が現われないかと思い、ポケットをごそごそと探る。もちろん、そんな都合の良い現象は起こらない。
指先に触れるのは、お城を出る前に突っ込んだ小瓶と、例の便箋が二枚だけ。
「お客さん?」
密売人に会いに来てお金がないなんて、いよいよ怪しい。こめかみ辺りに汗が伝う。何か口にしなければ。私は唇を開く。その時だ。
「奥様、こちらにおいででしたか」
ふわり、と柔らかな声が降って来る。続いて、空間に満ちるガーリックの匂いの中に爽やかな草花の香りが漂った。たおやかな手がカウンターに伸び、硬貨を三枚置く。
振り返るまでもない。この声、この香りは。
「ウィオラ」
犬耳の乳母はいつもの通り、ふっくらとした頬に優しい笑みを浮かべている。
「奥様、あちらの方で話がつきました。どうかいらしてくださいませ」
「え、ええ」
とりあえず話を合わせて席を立ち、土竜さんに「ごちそうさまでした」と告げ、ウィオラに続いてそそくさとカウンターを離れる。
背中に、ぼんやりとした視線を感じたが、怖いので振り返ることはしなかった。
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