6 事故か陰謀か

 しばらく中庭でナーリスと遊び、気づけば日差しが斜めに傾ぐ時刻になっていた。私達は名残惜しさを感じつつも、夕食の身支度のため、それぞれの自室へ向けて足を進めることにした。


「それでね、アリスがすってーんって転んだ後、うんうん唸って目を開けなくなっちゃて。ウィオラが慌てて良い匂いがする小瓶を嗅がせたらお耳がぴーんと立って、アリスが起き上がって」


 両親の間を歩きながら楽し気に報告してくれるナーリスの無邪気な様子に、私は目元が緩みっぱなしだ。


「そう、アリスが転んでしまったのね。でも無事で良かったわ」


 アリスは先ほど、帰宅した主人をいつも通りの調子で迎えてくれた。大転倒がいつの話なのか不明だけれど、少なくとも後遺症はないようでほっとする。


「それでアリスがね、ウィオラっていつも良い匂いがするねって言ったの。そしたら教えてくれたんだけど、あの匂いはね、ウィオラの父上のお屋敷に咲いているハーブやお花で作った香水なんだって」


 確かにウィオラとすれ違うと、ほんのり甘くて爽やかな香りがする。ナーリスにとって、あの香りは乳母の匂いであり、包まれれば安心を覚える芳香なのだろう。だが、ナーリスが言いたかったのはそこではないらしい。彼は純粋な口調で言った。


「ウィオラが生まれたお屋敷のお庭、見に行きたいなあ」


 きっとすごく綺麗なお花が咲いているのだろうな、とうっとりするナーリスに、デュヘルが小さく笑う。


「それを聞けばウィオラも喜ぶだろう。彼女はこの休暇で実家に帰っているのだったね。寂しいかい?」


 そう、いつもナーリスの側にいてくれる乳母は三日前から休暇を取り、体調を崩したという親族に会いに行っている。


 先日、リザエラが薬をがぶ飲みして倒れた時期にも実家に戻っていたらしいので、親族の体調は芳しくないのだろう。


 ウィオラがしばらくいなくなると耳にした時のナーリスは、しょぼくれてしまって、見ているこちらの胸が痛んだ。悔しいことに、ナーリスは私よりもウィオラに懐いている。


「ちょっと寂しいけど……もうすぐ帰ってくるもんね」


 微かに不安を帯びた赤い瞳に見上げられ、私は力強く微笑んだ。


「もちろんよ。帰って来る日は未定だけれど、きっとそんなに遅くならないわ」

「そうだよね! 良かった」


 輝くような笑顔を浮かべた息子を見つめ、私は胸に抱えた白い花をぎゅっと握り締めた。いつか私にも、あれほど純粋な思慕を向けてくれる日が来ると良いのに……。


 その時。感傷に浸る私の耳に、突然何かが弾けたかのような悲鳴が飛び込んだ。声の方を振り返ると同時に、視界が黒い物に遮られる。


「危ない!」


 デュヘルの背中だ。彼は叫び、私の腕を引く。あまりの強さによろめいた私と、茫然としているナーリスの前に背を向けて立ちふさがり、右手を掲げる。


「弾け!」


 鋭く命ずると、デュヘルの全身から黒い靄が噴き出した。それらは三人の周囲に半円状の覆いを形作り、次に訪れた衝撃を弾き飛ばす。


 すぐ側で、重量感のある落下音と同時にガラスが粉砕される音が響き、耳をつんざいた。一瞬、聴力が失われる。周囲の音が戻って来た時には黒い靄の障壁は消え去り、デュヘルの険しい横顔がすぐ近くにあった。


「怪我はないか二人とも」

「ええ」


 白い花を放り投げ、ナーリスを抱き上げる。負傷している場所がないかと撫でるが、障壁のお陰もあり、擦り傷一つなかった。


 怯えたナーリスが、私の胸にしがみ付く。普段ならば歓喜する場面だが、さすがに今はそれどころではない。私はデュヘルの視線を追い、大惨事の現場に目を向けた。


 上質な絨毯の上に、見るも無残な姿になった小型のシャンデリアが粉々になって散らばっている。幸いなことに怪我人はいないようだが、私達のすぐ近くに落下したシャンデリアの残骸に、全身から血の気が引いた。


 少し歩くのが遅ければ、私達はぺっしゃんこに潰れていたかもしれない。そうならなかったとしても、飛び散ったガラスの破片で肌を切り裂かれていたかもしれないのだ。


 あまりに恐ろしい事故に、柄にもなく脚が震える。驚愕から覚めたデュヘルの全身から、静電気のような黒い靄が発せられた。


「誰だ」


 ぞっとするほどの怒りが込められた低い声で、デュヘルが言う。


「シャンデリアを落としたのは誰だ」


 私は思わず「え」と声を漏らし、彼の意図を察する。


 シャンデリアが頭頂を直撃すれば、即死を免れない。凶器になり得る危険な物を、ぞんざいに固定するはずないのだから、これはただの事故にしてはきな臭い。


 だが、犯人よ手を挙げよと命じたところで、素直に出て来るはずもないのだ。もちろん、ただの事故の可能性だってある。


「名乗り出ろ」


 肌をひりつかせるような怒気を浴び、騒ぎを聞きつけて集まった使用人達が皆一様に耳を倒して尻尾を脚に挟み込んだ。


 デュヘルはその場に居合わせた全員の顔を探るような眼差しで射抜いてから、少し肩の力を抜いた。


「心当たりがある者はいないのか。それでは聞き方を変えよう。最後にこのシャンデリアに触れた者は?」


 ざわり、と空気が揺れたのがわかる。使用人達は躊躇いがちな視線を後方へと注ぐ。やがて人垣が割れ、全身を震わせた小柄なメイドの姿が露わになった。


「あ、あの……私……」


 私は息を吞む。張りつめた空気を震わせて、小柄なメイドが顔を上げた。灰色の楕円耳がひくひく痙攣している。知った顔だ。彼女の名は確か。


「エナ」


 私が呼ぶと、エナは大きく肩を揺らす。私の姿を瞳に映すと、エナは縋るような目でこちらを見た。


「あ、リザエラ様。違います、私は何もしていません。ただ、昨日そのシャンデリアの掃除をしただけで」

「エナ?」


 デュヘルは眉根を寄せて考え込む。次第に深まる眉間の皺から察するに、彼も思い出したのだろう。先日、ナーリスのすぐ近くに花瓶を落としてしまったメイドが彼女であると。


「君は以前もナーリスに危害を加えようとしたな」

「違います! そんなつもりは」

「故意であったかどうかなど、関係のないことだ。不注意の結果だとしても、おうへ二度も危害を及ぼしかけたことは罪に値する」


 赤紫色の瞳が憎悪に鈍く光っている。私は背筋を震わせた。


 だが、デュヘルの言い分はもっともなのだ。危うくナーリスや魔王夫妻が取返しの付かない大怪我を負うところだったのだから。


「状況が判明するまで、地下牢へと入れておくのだ」


 魔王の一声で、即座に衛兵が動く。涙を流して震え、潔白を叫ぶエナは、魔術剣を腰に差した大柄な男達に拘束されて地下へと連行された。


 残された使用人の間から、微かな言葉が漏れ聞こえる。


「あの子、災害で親族を失ったから」「最初は厨房のスカラリーメイドだったんだけど、身の上を憐れまれて、この前から掃除係に」「災害ってことは、もしかして」

「ナーリス様に恨みがあるのでは?」


 心臓を凍った手で掴まれたかのような心地がした。


 災害の頻発、只人ただびとの増加。それら全てが、皇であるナーリスの不完全が原因だとしたら。


 悪いのはナーリスではない。元凶はきっと、この私。リザエラが愛のない薄情な聖女だから。それに、今回の事件で狙われたのは、私だという可能性もある。リザエラの薬物死に関与していた誰かが、仕留め損ねた獲物を狩るためにことを起こしたのでは。


「不用意な発言は控えよ。真実を歪める憶測を吐き出す者は、首謀者と同様に捕らえることとする」


 デュヘルは騒めきを切り裂いてから、気遣わし気にナーリスの頭を撫でた。


「ナーリス、リザエラ。恐ろしかっただろうがもう大丈夫だ。さあ、部屋へ戻ろう。必ずや真相を明らかにして、悪意ある者をこの手で捻り潰してやる」


 恐ろしい言葉を吐き出しながらもデュヘルは、包容力に満ちた仕草で私の肩を支える。私は頼り甲斐のある腕に導かれるまま、その場を後にした。


 拍動が耳に痛い。全ての音が遠のいたり近づいたりする錯覚に苛まれる。


 近頃国中を襲っているという災害。これまで、何度か真相を訊ねてみたが、アリスは「わかりません」と困ったように視線を彷徨わせるだけだし、デュヘルはお砂糖を吐いてはぐらかす。猫耳フェールスや他の人々も似たようなものだ。


 私は軽く拳を握り、決意した。


 世界で何が起こっているのか、ありのままの現状を知らなくてはならない。それから、皇の不完全を憎む者を取り締まり、リザエラの死の真相を探るのだ。ナーリスや私達家族の安全のためにも。

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