ドミナント・ハズバンド

小狸

短編

 *


 父は、偏食家であった。


 食卓に並ぶ時、父の座る机の前にだけは、違う料理が出ていた。


 それは主に、肉であった。


 魚類にアレルギーがあるという訳でもないらしい。ただ、「酷い偏食だった」と、母から聞いていたように思う。


 父はそれを、まるでかぶりつくかのように、くちゃくちゃと音を立てながら食べていた。家族の中で、誰一人としてそれを指摘できる者はいなかった。僕も、弟も、母もである。


 父は、俗に言うところの亭主関白であった。


 自分の意見を間違っているとは絶対に思わず、どんな失態があったとしても子どもや妻に「謝罪」することができない――否、しない、そんな人間であった。


 玄関の靴の位置なども、細かく指定していた。自分は家長なのだから、中心に置くべきだ、として、僕や弟が失念して中心に置いた時には、散々説教をされた。


 食卓を囲むときは、必ず全員が揃っていることを、父は強要していた。


 母が先に食事を作り終わっても、父が帰宅するまでは、食事を取ることは許されなかった。それを破ると、途端に機嫌が悪くなり、自室に籠っていた。


 そして挙句の果てに、父は新興宗教に入っていた。


 いずれ僕らを宗教二世にするつもりだったのだろう。


 いただきます――の前に、必ず祝詞のりとのようなものを読まされるようになった。


 僕ら兄弟がそれを異常であったと気付いたのは、中学に入ってからの話である。


 父は、僕ら兄弟のあらゆる行動に嫉妬していた。


 例えば僕がヴァイオリンを始めようとすれば、彼はギターを始め、僕が小説を書こうとすれば、同じく小説を書き始める――という具合に、何もかもを模倣して追随してきていた。


 それは、父が元々、祖父――僕が生まれた時には既に肝硬変で他界している――からの抑圧を受けて育ったことが遠因らしいが、僕らには知ったこっちゃないという話である。


 やることなすこと全てを模倣されるのは、良い気分ではなかった。


 そして父のその時の感情の源流が、恐らく嫉妬であると分かったのは、随分後の話である。


 つまり父は幼少期の抑圧的環境と今の僕らのある種自由な環境を比較して、僕らに対して嫉妬していたのである。


 だから、僕らが楽しく笑ったり――幸せそうにしていることが、耐えられなかったのだという。


 ふざけるなという話である。


 どうして勝手に嫉妬されなければならないのだろうか。

 

 一体子どものことを何だと思っているのだ。

 まあ、自由などと言っても、僕の家庭は、機能不全家族そのものだった。


 家族という機能が、真っ当に構築されているとは思わなかった。


 子に失敗作、と言う母親。


 勉強ばかり重視して、いじめを助けてくれなかった母親。


 子の心より世間体を優先して子を矯正しようとする母親。


 子の教育に全く無関心の父親。


 一人暮らしをしている時と全く変わらない生活をしようとする父親。


 子を邪魔、だと思う父親。


 そんな間で育った僕らが、まともな大人になることができるだろうか。


 積極的に世の中に奉仕し、歯車として生きてゆくことを良しとするだろうか。


 答えは、否、である。


 前述の通り父の家庭も、話を聞けば機能不全家族だったと聞く。


 毒親。


 その親を持つ子は、同じように毒親になるという。


 僕の親は、毒親で、毒家庭であった。


 弟は、そんな中で、優秀だった。


 だからこそ、父も母も、そんな弟に心血を注いだ。


 金も出した、知恵も出した。


 対して僕はと言えば、分かりやすく出来損ないであった。


 中学校までは、何とか極限まで努力することによって成績を維持することができていたけれど、高校に入って、勉強についていくことができなくなった。


 誰にも相談することはできなかった。


 僕の話をまともに聞いてくれる人など、この世には存在しないと思っていた。


 それはひとえに、家がそうだったから、に尽きる。


 そんな父が、脳梗塞で入院したというしらせを聞いたのは、母からのLINEによるものだった。


 僕はその時一人暮らし先にいた。


 地方の大学を卒業して、神奈川県の公立高校の国語科非常勤講師をしていた。


 今年で二年目になる。


 別段常勤で働く試験を受けても良いけれど、このまま非常勤講師で安住していても良いというような、半ば精神的自堕落の中に、僕はいた。教員採用試験は、昨年は一次試験は合格したけれど、二次は受からなかった。


 報せを耳にしたのは、平日の夜、シャワーを浴びた後だったけれど、特に僕は驚かなかった。


 何でも父は、リビングで倒れ、救急搬送されたらしい。


 ふうん、と思って、そのままスマホの他のSNSをスクロールして回った。


 思った以上に、自分が冷静であることに驚いた。


 まあ、そうだよな。


 あんな生活を続けていれば、いずれは身体がおかしくなっても、どこかに疾患が起こってもおかしくない。


 それに自ら望んで、そんな食生活をしていたのだ。好きな物、脂っこいものばかりを、くちゃくちゃ音を立てて食べていた。


 運動もほとんどせず、休日は家の部屋の中に引き籠って、いつも好きな映画やお笑い番組を見て笑っていた。 


 僕らのことなど、まるで居ないみたいな扱いであった。


 そんな父を――まあ正直父と呼ぶことも憚られるのだが――見舞いに行こうなどと殊勝な気持ちが働いたのは、僕にしてみれば珍しいことだっただろう。


 神奈川の下宿先から、父の搬送された病院へは、片道電車で二時間半はかかる。近くはないが、遠くも無い。ローカル線を通るので、本数が少ないのが、玉に瑕だけれど。


 何となく、あの父のことだから、しぶとく生きているのだろう――という気持ちはあった。


 その予感は的中していた。


「おお――■■■、■■■■」


 僕を迎え入れた父は、多少呂律が回っていなかったが、元気そうであった。


 点滴による保存的治療、発症後早くに発覚したことが奏功したようで、血栓を溶かす薬を利用できたのだそうだ。


 母が医師から伝えられた言葉をそのまま僕に説明した。そんなことを説明されても、僕には理解できなかった。


 ただ――ああ、まだ生きているのか、この男は。


 という。


 そんな残念な思いが、僕の胸の中に靄を作っていた。

 

 すると、回らぬ呂律のまま、父は続けた。


「××ちゃん――介護、よろしくね」


 ××ちゃん、というのは、僕の呼び名である。


 僕の思考回路は、思わず停止した。


 介護――介護って。


 思わず僕は、身震いした。


 おいおい、冗談だろう。


 今まで散々迷惑を掛けておいて、今まで散々僕の何もかもを抑圧した元凶のくせして、その上で迷惑を掛けながら、、この男は。


 年上は敬うべき、両親は尊ぶべき?


 ああ、そうなんだろう。


 それが正しい。


 世間一般的な親子関係は、そうであるものだ。


 


 僕はその問いに、何と答えたかは分からなかった。


 うん――とか、ああ――とか、そんなことを言っただろう。


 これから僕は?


 僕の人生は、どうなる?


 やっと自分の仕事を見つけて、それに就いたのに。


 介護――だって。


 


 


 


 


「■■■■■■ッ!」


 自分が何と言ったかは、記憶していない。


 僕はそのまま、病室を走って後にし、一人で家に帰った。


 母と弟が何かを言っていたけれど、返事をするつもりはなかった。荷物を持って、そのまま家を出て、電車に乗って、神奈川に帰った。


 *


 それから三か月程程経って、父の訃報が入った。


 僕はそれを、母からのLINEの通知で知った。


 死因は、脳出血だそうだ。


 僕はやはり、ふうんと思った。


 葬式は、身内だけでこぢんまりとして行われた。


 父と、叔母さんとその息子さんと、母と、弟と、僕。


 元より父には、友人という友人がいなかったのである。父が入っていた神道系の宗教の方による、不思議な葬式であった。


 二度と帰るつもりはなかったけれど、こうして棺の外から見てみると、父の顔立ちは、僕に似ていた。


 僕は、そんな父の下に、花を添えた。


 火葬され、遺骨を集める作業まで、ほとんど誰も一言も喋ることはなかった。


 ただ、一言。


 葬儀関係のあれこれが終わり――帰宅して、母の夕食の手伝いをしながら、ふと、母が言ったその言葉だけは。

 今も僕の脳裏に焼き付いて、離れなかった。



「疲れた。」





(了)

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