第9話 結婚していると信じてもらえていなかった
「申し訳ないです。割増料金とってもいいと言われたので、ぼったくってやります。そのお金で、今度美香さんの好きなもの買ってあげます」
結局、デートは途中で切り上げて家に帰る羽目になった。敦さんは街中で私に土下座しそうになったので慌ててそれを辞めさせて引きずるように家に帰ってきたのだ。
家に帰った敦さんは、リビングでパソコンとにらめっこしながらブツブツ仕事をしていた。
「大体、こっちは納期余裕で提出したのに、なんでグッズの形全然間違ってたとか……。全部やり直しになるじゃないか……。それもなんで今日なんだよ……」
機嫌の悪い敦さんに、今日は私が夕食を作ろうとキッチンに立った。しかし敦さんはリビングから顔を出して声をかけてきた。
「美香さん、大丈夫です。美香さんは何もしなくていいですよ」
「でも、敦さん今日忙しいでしょ?」
「
「ああ、日下部さんが」
日下部さんは、敦さんの仕事仲間だ。営業のようなマネージャーのような役割をしていて、仕事を取ってきてくれたり、クライアントとの交渉をしてくれたりしている男の人だ。
ただ、私は会ったことがない。敦さんから話を聞いたことがあるだけだ。
敦さんが会わせてくれないのだ。「日下部といえども、美香さんを無防備に晒すわけにはいかないんです」と、訳のわからないことを言ってくる。
「なんか、悪いわね」
「まあ、手伝いたいって言ってくれたので。日下部に手伝いしてもらうことは無いので、代わりに夕食を買ってきて貰うことにしたんです。あ、日下部が来ても美香さんは玄関に出なくていいですからね」
「そう?一度日下部さんにご挨拶したいのだけど」
「駄目です。日下部さんは口の上手いヤツです。日下部と美香さんが仲良く話したりすることを想像するだけで……あぁああ……」
「わかった、わかったから!仕事に集中しよう?」
私は慌てて敦さんをパソコンの前に座り直させた。
敦さんが黙々と仕事を進める中、私は暇でボーッとしていた。せめてお茶くらいは入れされてほしいな、とまた台所に立とうとしたその時だった。
ピンポーン、とインターフォンが鳴った。
敦さんが玄関に出ると、元気な声が聞こえてきた。
「お疲れ様!!今回大変なことになってるんだって?」
「ああ、そうなんだよ。夕飯ありがとう。お金これで足りるか?」
「ああ、いいよいいよ。俺じゃ手伝えない代わりだから。あ、俺の分も買ってきたから中に入れて。一緒に食べようぜ」
「それは絶対に駄目だ」
敦さんが即答する声が聞こえた。
「何でだよ。散らかってんのか」
「今は妻がいる。お前ごときに僕の美しい妻を見せるわけにはいかない」
「……マジで言ってるから怖いよなあ……」
日下部さんの呆れた声が聞こえてきた。
「まあいいじゃねぇか。おじゃましま~す」
「お、おいっ」
敦さんの焦る声と、日下部さんの強引に家に入り込んでくる音が混ざって聞こえてくる。
「奥さん、おじゃましま……」
リビングに入ってきた日下部さんは、私を見るなり硬直してしまった。
「あ、はじめまして……」
私が思わず挨拶すると、日下部さんは目をパチクリさせた。
「本当に、いたんた……」
「え?」
「おいっ!勝手に入るなよ!」
あとから敦さんが焦ったようにリビングに入ってきた。
「神田!なんで教えてくれなかったんだ!本当に奥さんがいたなんて!」
「ずっと言ってただろ!さっきも言ったじゃないか、今は妻が家にいるって!」
「だって、全然会わせてくれないから、てっきり神田の妄想妻か、2次元妻だと思ってた」
「失礼だな!」
「会わせてくれない方が失礼だろうが!こんな可愛い奥さん、いくらでも自慢しろよ」
敦さんには可愛いって言われ慣れてるけど、社交辞令とはいえ他の人に言わるとものすごく恥ずかしい。私は顔がカッと熱くなった。
日下部さんは敦さんを無視して私に向き合った。
「すみません、勝手に入り込んでしまって。はじめまして俺は
「はじめまして。妻の美香です。いつもお世話になっております」
私も急いで頭を下げた。
「いいから!もう帰ってくれよ」
敦さんは怖い顔で日下部さんを引っ張った。
「ああ、本当に奥さんいたなら俺は帰るわ。ごめんね、奥さん、また今度ゆっくり」
「お前に美香さんとゆっくりさせる予定はないからな」
「またまたぁ。あ、ちゃんと今度お祝いやるからな。じゃあ、仕事続き頑張れよー」
日下部そう言いながら嵐のように立ち去って行った。
「賑やかな人だったね」
私はそう敦さんに言いながら、テイクアウトのカレーを袋から取り出していく。
「敦さんの仕事キリが良いところだったら、食べようか」
「……何で……」
「え?」
「何でさっき顔を赤くしたんですか」
「え?顔?」
私は首をかしげた。何のことかしら。
「さっき、日下部が美香さんの事可愛いって言ったとき。何で顔を赤らめたりしたんですか」
敦さんは不穏な顔でそう言いながら私に近づいてきた。
私は困ってしまった。赤らめたつもりなんかなかったのだけど。
「だってそりゃあ、可愛いって言われたら恥ずかしくなっちゃうじゃないの」
「僕だっていつも言ってるのに、最近そんな可愛く赤らめた顔を見せてくれない」
いじけているような言い方。でも目はとても穏やかならぬ色を見せていた。だって、敦さんはいつ言ってくれるから慣れちゃって……。でも、よく考えたら、慣れてるなんて敦さんに失礼よね。
「僕以外にそんな可愛い顔を見せるなんて……やっぱり誰にも見せられない」
敦さんは私をギュッと強く、痛いくらいに抱きしめた。
「あ、敦さん、ごめんね。ほら、冷めちゃう。早く食べて仕事続きしなきゃでしょ?」
私はなだめるように言ったが、敦さんは聞く耳を持たずにずっと抱きしめ続ける。
気が済むまでこのままだな、と私は今日も冷めていくカレーを見つめるのだった。
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