どうやら彼女が俺に惚れているらしい⑤
鏡の中を覗き込んでみると、そこにはゾンビのように凄惨な顔をした面長の少年があった。
時刻は正午を過ぎたところで、本来ならば空腹を感じるところだが、今の俺には食欲はおろか、他の様々な欲求すら実に希薄だった。
場所は学校のトイレの洗面台で、俺の隣りでは顔も頭も悪そうな知らない男子生徒が延々と髪を弄っている。
何度か水で顔を冷やしてみるが、何もさっぱりとした気分にはならない。
落ち込んだ感情はちっとも立ち上がろうとはせず、奈落の底で怠惰に横倒れになったまま動かなかった。
どうしてだ。
どうしてこうなった?
昨晩からの自問自答をここでも再び繰り返す。
これほどにも惨めな気持ちに俺がなっているのにも当然理由があり、その事を思い出すだけでいくらでも憂鬱になれるのだった。
『勘違いするなよ島田紗勒。私はあんたが嫌い。それじゃあサヨナラ。二度と私に話しかけないでね』
リフレインする台詞はあまりに鋭利で、思い返すだけで胸がずきずきと痛んだ。
法月知恵にこっぴどく振られたのはつい昨日のことで、いまだになぜあれほど彼女を激昂させてしまったのかはわからない。
途中までは恋人関係にある若人二人としては非常に順調だったはずだが、結果だけをみればそれはもう酷いものだ。
元々よく他者から好かれるタイプの人間ではなかったが、あそこまで明確に拒絶を示されることもそれほど多くはなかった。
ゆえに徹底的に俺を突き放す言葉の羅列と、そしてその言葉を口にした人物があの誰にでも分け隔てなく優しい法月であるという事実が、二重になって俺を苦しめている。
目も当てられない、考え得る限り最悪の末路だ。
しかし、これは本来ありえない。
ありえてはいけない末路でもあった。
俺は自意識過剰なナルシストではない。
だからこれほど冴えない自分が法月に惚れられていると勘違いするのにも、明確な根拠があったのだ。
それはいまもブレザーの内ポケットにしまってある一通の手紙。
俺宛てに届けられた正真正銘のラブレターだ。
この手紙の差出人は法月知恵のはずだった。
間違いなくそのはずだったのだ。
手紙が届けられた十分間。
その短い時間で俺へ手紙を届けることが可能だった女子生徒はたった三人しかいない。
有栖川アスミ、西尾響、法月知恵。
三人の内、前の二人にはすでに本人に否定されている。
よって差出人は法月で決定。
そんな小学生でもわかる簡単な引き算の問題のはずだった。
間違いなくそのはずだったのに。
しかし結果は不正解。
法月までもが手紙を俺に渡したことを否定した。
つまり俺への愛を綴った渾身の手紙は、教室にいた三人の内誰からのものではないということになる。
そんな馬鹿な。
ありえない。
差出人がいないなんて。
では実は
廊下からゆっくりと扉を開け、誰にも気づかれないようにひっそりと手紙を置き、俺が戻る前に去る。
俺の席は廊下側だったことを考えれば、できないことではないだろう。
いや、そんなことはない。不可能だ。
すぐに自分の推理を否定する。
そもそも教室の外にいたのなら、俺の席が廊下側にあることにも気づけないではないか。
さらに言えば、俺が廊下に出た時、特に人影はなかった。
ということはつまり、俺がちょうど席を外したタイミングを見計らうこともできない。
だいたい俺が急に腹痛を覚えることだって予想は困難であろう。
「……なんか食うか」
思考はやはり八方塞がり。
気づけば隣りで髪のセットをしていた男子生徒の姿もなくなっている。
今日は朝食も抜いていたので、とりあえず購買にいってもパンでも食べることに決めた。
トイレから廊下に出ると、やはり昼休みという時間帯のせいか生徒たちの姿が多い。俺は他人の通行の妨げにならないように端っこを歩く。
またメロンパンが食べたいな。
サンコーの購買部に置いてあっただろうか。
「きゃっ!」
「うぉっと!?」
するとその時、とんっと軽い衝撃がふいに俺の肩を揺らす。
その衝撃は甲高い叫声と重なり、何かが床に落ちてばらまかれる擦れた音が遅れて聞こえた。
「す、すまない。少し考え事をしていて……ってえ? 君は?」
「うわぁー! ごめーん! 私の方こそついうっかりしてて!」
誰かにぶつかってしまったのだとすぐに気づいた俺は顔を上げるが、そこにあったばつが悪そうに舌を出すポニーテールの少女に驚きを隠せない。
——法月知恵。
気まずげに笑うその少女は、昨日まさに俺をコテンパンに拒絶した人物その人だった。
彼女は床にばらまかれたプリントを拾い集めていて、それを慌てて俺も手伝う。
「法月、なんだよな?」
「ほんとごめんね! 拾うの手伝って貰っちゃって!」
「いや、それは構わないのだが……」
いつものようにハキハキとした様子で法月は喋る。
俺の良く知る方の彼女の姿だ。
実際には、彼女にはもう一つの苛烈な一面が隠されていることも今の俺は知っている。
だがどうやら、とりあえずは俺にもこちらの優しいモードで普通に接してくれるらしい。
昨日は二度と話しかけるなと言っていた気がするが、あれは言葉の綾だったのだろうか。
「あ、そうだ! じゃあついでにこれ一緒に実験室まで運んでくんない!?」
「え? 実験室?」
「そうそう! これ一人で運ぶのは大変でさー!」
昨日の夜のことなどなかったかのように法月はフレンドリーだ。
プリントを拾い集め終わると、彼女はその半分を俺の方に渡してくる。
廊下を往行する生徒からの無言の圧力もあり、俺は彼女のお願いを断ることはできない。
「わ、わかった」
「……ありがとう、島田君」
しかし感謝の言葉を述べる時の瞳が、また俺に絶望を教えた時と同様の色に染まっていることを見逃さず、やはり昨日の悪夢はまやかしなどではなかったのだと気づくことができた。
化学などの授業で利用する実験室に辿り着くと、昨日と同じように法月が先導して中に入っていく。
俺も大人しく彼女に続けば、そこには乾燥した空気に満ちた薄暗い空間が広がっていた。
当たり前だが、部屋の中には俺と法月以外誰もいない。
これもまた昨日とまったく同じだった。
「プリントはそこらへんに置いといて」
「あ、ああ」
気づけば法月の口調までもが、昨日と同じものになっている。
人懐っこさなど皆無の、どこまでもそっけない声色。
開けっ放しになっていた扉を、慎重に閉じると、彼女は先ほどまで愛くるしい表情を無に変えてこちらを睨みつけている。
どうも単純にプリントを運ぶのを手伝って欲しかっただけではないようだ。
「……昨日のこと、誰かに話したりしてないでしょうね?」
「ぐうぇっ!?」
つかつかと俺の方に、持ち前の素早さを活かし一気に近づいてきたかと思えば、法月は力強くネクタイを引っ張った。
強制的に俺の顔が彼女の方へと引き寄せられるが、昨日とは違う種類のドキドキしかもはや感じない。
「答えなさい」
「い、いってないれす」
「本当に?」
「ほほんとう!」
「本当の本当に?」
「ぼんどう!」
一切の虚偽も認めないといった、尋常ではない眼力で俺を見つめる法月。
その相貌はやはり奇跡的なパーツ配置による絶妙な完成度を誇っている。
だが笑顔の類はまるで見られず、どうしても法月とは別人にしか思えない。
おそらくは、それでもむしろこちらの彼女の方が、本来の彼女なのだろう。
普段は仮面を被っているのだ。
明るく、分け隔てなく思いやりのできる、皆の人気者の法月知恵という仮面を。
「……ならいい」
「ぷはぁっ! 死ぬかと思ったぞ!?」
「大袈裟過ぎ」
やっとネクタイから手を離した法月は、近くにあった大机にひょいと足を浮かせ座る。
ちらりと覗く張りのある太腿の感触を思い出し、少し頬がにやけそうになるが、本能的にそれはまずいと悟り顔を引き締める。
「わかってると思うけど、昨日のこと誰かに話したりしたらタダじゃおかないから」
「昨日のこと? 君に熱烈な求愛アピールをされたと思っていたのに、気づけば外に蹴り出されていたことか?」
「求愛アピール言うな!」
唐突に法月が声を張り上げるので、俺は驚いてしまう。
さっきまで能面のようだった彼女の顔にも、鼻頭がほんのり色づくという変化が生じている。
これは危険な兆候だ。
言葉は慎重に選ばなくては。
「昨日も言ったけど、アレはあんたのことが好きでやったわけじゃないから。勘違いしないでよね」
「ではなぜ? 君は俺に惚れているわけはないんだよな?」
「何回も言わせないで。私があんたに気を持つことなんて未来永劫絶対にありえない」
そこまで言い切らなくても、と思ったが、最低限の学習能力を持つ俺は口を噤んでおく。
というかこっちの法月は妹の小楠に少し似ているな。
あいつもクラスメイト達に対しては猫を被っていたりするのだろうか。
「……最近、ヒビキに彼氏ができたって噂を聞いたから、その彼氏とあんたを勘違いしたの。それだけ」
「ん? よくわからないな。俺を西尾の恋人だと勘違いすると、なぜ俺を自室に招き馬乗りすることになる?」
「馬乗りなんかしてない! 話盛るな!」
「す、すまん」
法月は最高に機嫌が悪い。
なるべく刺激しないように言葉を選択しているはずだが、どうやら俺にはその言葉選びのセンスがないようだ。
「嫉妬、させたかった。ヒビキの彼氏を私が誘惑すれば、少しは気を引けると思ったの」
「嫉妬させたかった? 俺ではなく、西尾の方を?」
「誰があんたなんかを……全部話す代わりに、教えて。あんた如きが、どうやってアイツと仲良くなったのか」
法月はこれまで以上に真剣に俺を見据える。
彼女から感じた嫉妬の感情。
それはたしかに間違いではなかった。
ただ、その感情の矛先を俺は見誤ってしまっていたのだった。
「……私とヒビキはオナチューでさ、部活も一緒だったの」
「なに? 君はたしかバスケットボール部だったよな? 西尾もそうだったのか?」
「そういうこと。まあ、高校入ってからはアイツ、バスケ止めちゃったんだけどね」
法月と西尾が同じ中学出身とは聞いていたが、まさか部活まで一緒だとは思わなかった。
ただ法月は強豪と呼ばれるサンコー女子バスケットボール部期待のエースだと聞く、そんな彼女がなぜ中学で部活をやめてしまった西尾をそこまで気にかけるのか。
「……ヒビキはさ、俗にいう天才って奴だったの。中学の時、アイツは一年生の頃からずっとスタメンで、私なんか歯が立たないくらいバスケが上手かった」
「なんだって? あの西尾が?」
「今でこそ私、サンコーのエースとか呼ばれてるけど、もしヒビキが今部活に入ってきたら、すぐにその名もアイツにとられちゃうよ。間違いなくね。そのくらい、私とヒビキには差があった」
なんと西尾は勉学の才能だけでは飽き足らず、バスケットボールの才能まで天に授けられていたらしい。
天は二物を与えずとはいったい何だったのか。
外見も才に加えるならば、二物どころではない。
俺にも一つくらい分けて欲しい。
「だからさ、高校でバスケやらないって聞いた時、私、凄い驚いて、なんでバスケ部入らないのって訊いたんだ。そしたらアイツ、なんて答えたと思う?」
法月は少し自嘲気に笑い、目を伏せる。
俺から外された視線の先に誰が映っているのか、それはわからないが、俺は彼女が泣いているように見えた。
「“バスケはもう興味なくなったからやらない。つかお前誰?”、ってね。そう言ったんだ。アイツ」
なんとも西尾らしい返答だと思った。
しかし、そのあまりに彼女らしい一言は、一人の少女を傷つけたのだきっと。
「私だってヒビキほどじゃないけど、バスケ頑張ってたんだよ? いっぱい練習してさ、中二の頃にはベンチに入れるようになって、中三の頃にはスタメンになれて、ヒビキとも一緒のコートに立った……でも、アイツには見えてなかった。私のことなんて全然、視界に入ってなかった」
ここまで話して貰えれば、いかに鈍感な俺でも理解できる。
西尾の気を引きたかった、その言葉の意味が。
「最初はふざけんな、見返してやる、ってそう思ったの。私がサンコーで活躍すれば、ヒビキも少しは私のこと見てくれるって、認めてくれるって、そう思った。……でもやっぱりアイツは私のことなんてどうでもよくて、バスケにだって本当に興味なくなったんだってわかった」
西尾の言う友人こそが法月だと思っていたが、どうやらそれは勘違いだったらしい。
思えば、数学の補講の時、西尾と法月は一切会話をしていなかったし、それはおろか完全に他人同士のような態度だった。
「必死こいてサンコー女バスでエースになったのにさ、ヒビキは全然こっち見てくれなくて、最近なんか調子も落ちてきたところで噂聞いたんだ……アイツに彼氏ができたって」
そして全ては繋がった。
嫉妬の理由。
その感情が法月を動かした結果起きた出来事。
おそらく彼女はもうわからなくなってしまったのだ。
西尾を振り向かせる方法を。
だからあんなことをした。
もし、全てが法月の勘違いではなく、本当に俺が西尾の恋人だったとしても、きっと意味なんてない。
彼女の望む結末は得られなかっただろう。
「馬鹿だよね。今思えばさ、ヒビキの彼氏寝とったって、それで私のことアイツが認めてくれるわけじゃないのに。私って本当に馬鹿。馬鹿過ぎて、嫌になる。全部全部、嫌になる」
法月はそこで言葉を切ると、疲れたのか何も言わなくなった。
暗い影で顔を覆って、俯いたまま動かない。
だが、俺はそんな彼女が嫌だった。
明るく優しい法月、刺々しく高圧的な法月、そのどちらの彼女でもいいから、とにかく彼女には前を向いていて欲しいと思った。
「君は、西尾のためにバスケを始めたのか?」
「……え?」
二つの顔を持つ法月から、そのどちらのものとも思えないほど幼い声が漏れる。
そんな弱った彼女に、俺は疑問に思ったことをありのまま正直に伝えていく。
「西尾に認めて貰うために部活を頑張ってエースと呼ばれるようになった……その努力と結果は、本当に西尾が振り向いてくれなくては意味がないのか?」
「は? あんたいきなり何言って——」
「君は西尾に見て欲しいと言うが、君はその言葉を西尾本人に一度だって伝えたことはあるのか!」
思わず俺の語尾が強くなってしまったせいか、法月は驚いたように身体をびくんと震わせる。
ただ俺はどうしても嫌だったのだ。
あんなしょうもないヤンキーモドキ乙女如きに、皆の人気者である法月が苦しめられるのが許せなかった。
「君はもう誰が何というとサンコーのエースだ! サンコー女子バスケットボール部に西尾響はいない! いない奴と自分を比べるな! そんなのはマイケル・ジョーダンと自分を比べるようなものだ! それでもなお西尾が気になるなら直接会いに行ってこい!」
俺は自分でも何を熱くなっているのかと不思議に思いながらも、真っ直ぐと法月を叱りつけた。
気づけば顔を上げている彼女は唖然とした表情で、まさに何言ってんだコイツという感じ。
しかし俺の方は実に爽快な気分だった。
あのヘタレ不良風乙女のせいで、二度も思わせぶりな体験をさせられたが、その鬱憤は無事放出できた。
ちなみにマイケル・ジョーダンというのはバスケの神様というくらい俺でも知ってるほど有名な人で、聞いた話によれば、空中を五、六歩くらいは歩けるらしい。
「……ぷっ! ぷはははっ! そのジョーダンの例えはなんか違くない!?」
「え? そうかな?」
すると何かがツボに入ったのか、法月は突然大爆笑する。
腹を抱えて笑ってはいるが、どうも雰囲気は校内で普段みせる元気っ子モードの彼女とは違う気がした。
「はー! おっかしい! なんかいきなり演説し出したと思ったら、ジョーダンって! あははっ!」
「そ、そんなに笑わなくてもいいだろう」
いつまでも法月が笑い続けるので、俺は段々恥ずかしくなってきた。
演説とまで言わなくてもいいのではないか?
「あー、笑った。……それじゃあ、そろそろここ出よっか。もう昼休み終わるし」
「お、おう。そうだな。ん? 待て法月、俺と西尾がどう知り合ったのかは聞かなくていいのか? 元々、それを知りたかったんだろう?」
「そういえばそうだったね。あー、でも、もういいや」
やっと笑い終わった法月は、若干顔を赤らめながらも大机からぴょんと降りて、実験室の出入り口の扉に手をかける。
法月の想いを聞かせて貰ったのは、俺と西尾の出会いについてを知るための交換条件のようなものだったはずだが、どこまでも晴れやかな表情をする彼女は、それをあっさりと突っぱねる。
「その話にもう興味なくなったからいいや。つか西尾って誰?」
そして法月は、悪戯っ子っぽい、これまで見てきた中で最も可憐な笑顔を俺に見せると、そのままこのじめじめと薄暗い部屋から、明るい光に満ちた外側へと抜け出していったのだった。
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