やはり彼女が俺に惚れているのだろうか②
寝不足のせいか霞みがかった目元を手で擦りながらも、俺は今か今かと昼休みの鐘の音を待っていた。
頭の中を占めるのは西尾響のことばかりで、他には何も考えられない。
会ったら何を話せばいいのかと考え込んでしまったせいで、昨晩はほとんど眠ることができなかった。
午前中の授業はろくに話が聞けていない。
もっとも普段はまともに聞いているかといえば、そんなことはないが。
時計の針は誰かが細工したのではないかと疑いたくなるほど遅緩としている。
正直に言って、いざ西尾に会いに行く時になると、それはそれで不安なものがあった。
たしかに相手は顔立ちだけで判断すれば抜群の美少女ではあるし、俺に惚れている可能性もかなり高い。
だがそれでも彼女が不良であることには変わりない。
怖いものは怖いのだ。
当然のように俺も覚悟を決めなくてはいけないこともまた事実なので、もちろん今更逃げるようなことはしない。
一度瞳を閉じ、得意のペン回しで神経を落ち着かせる。
眠気は感じるが、同時に目は冴えわたっている。
するとキーンとコーンとカーンと、聞き慣れた、そしてずっと待ち望んでいた音が頭上で響き渡った。
閉じていた瞳をゆっくりと開け、俺は結局取り出してから一度も触れることのなかった現代文の教科書を机にしまい込み、席を立つ。
深呼吸をしてみれば、少しは鼓動の鳴る速度が遅くなった。
「……行くか」
年相応の喧騒に包まれた教室の中を、俺は静かに通り抜けていく。
ふと有栖川の席の方を覗いてみたが、例の通り女子生徒の壁が構築されていて、まともに姿は見えなかった。
しかし今やその事にもさして興味はないので、気にせずそのまま俺は廊下へ出ていった。
購買部へと急ぐ生徒の群れを避けるようにして、昇降口へと急ぐ。
普段であれば中庭で食事をとる生徒もいるので、こちらの方面にやってくる人もいるのだが、今日はあいにくの天気だったため、昇降口には寂しげな雰囲気以外何もない。
霧のような雨が降り続き、過剰な湿気に身が包まれる。
人っ子一人見当たらない昇降口に到着した後、俺はひたすらに西尾が姿を現すのを待っていた。
二年F組の方に西尾が今日来ているかどうかは確認していないので、遅刻してやってくるのか、それとも早退しにやってくるのかは不明だが、どちらにせよここにはやって来るはずだ。
無断欠席や、真面目に放課後まで授業を受ける可能性もあるが、もしそうだった場合はまた来週出直すしかあるまい。
本来なら西尾のクラスまで直接押しかけるのがベストなのだろうが、残念ながらそこまでの果敢さは持ち合わせていないのだ。
「……おや?」
そうやって下駄箱の影に半身を隠すこと数分間、ついに人の気配を感じる。
扉が開けられたことを理由として吹き込んでくるのは、より一層湿度の含まれた空気。
外からやってきたその生徒はシルエットから、俺のやや悪い視力でも女性だとわかった。
心臓が喉からせせり上がってきそうだが、それをなんとか押し込み、俺やその小さな人影へと近づいていく。
雪白のうなじが覗ける黒髪は艶やかに濡れていて、よく見れば制服も同様に水気を十分過ぎる程吸い込んでいる。
華奢な体格はまるで児童のようで、傘や鞄といった最低限の荷物すら持っていないように見える。
間違いない。
俺はその昼下がりにやってきた遅刻生徒が、自分の知る人物だと断定し声をかけた。
「……なんだ。チャチャか。俺のワクワクとドキドキを返して欲しいものだ」
「……いきなり失礼な物言いをしてくる輩は誰かと思えば、これはこれはシャーロッくんじゃないか。こんなところで何をしているんだい?」
そう、こんな時間に登校してきた全身ずぶ濡れの女子生徒は西尾ではなく、我が親友の守屋茶々だった。
去年同じクラスだった頃からそうなのだが、彼女は朝に弱いらしく度々遅刻を繰り返していた。
西尾や守屋といった成績上位者の生活態度がこのようによろしくないところがまさにサンコーという感じだ。
「学年が上がっても、相変わらずその遅刻癖は治っていないようだな。そんなんじゃ卒業できないぞ? なんなら俺が毎日起こしに行ってやろうか?」
「まさか君に卒業を心配される日が来るなんてね。君の方も相変わらず自分のことは棚に上げる癖は治っていないらしい」
守屋も昨日は夜更かしをしたのか、目元にはっきりとしたクマがあり、全身にも気怠げな空気を漂わせている。
「それにしてもチャチャ、傘はどうしたんだ? 全身びしょ濡れだぞ。寒くないのか?」
「え? ああ、傘か。そういえば雨が降っていたんだっけ。気づかなかったよ」
「はあ? 雨に気づかなかった? また何か考え事でもしていたのか?」
「あー、うーん、そうだね。まあ、そんな感じかな」
顔の半分を覆う長い前髪から雫を滴らせる守屋は、なんと降雨に気づかなかったなどと意味不明なことを言う。
だがこれにも俺は今更そこまで驚くことはしない。
なぜなら守屋茶々という少し変わった友人は、何か考え事をしていて一度集中し出すと、このように周りのことがまったく意識に入らなくなることが多々あったからだ。
ただ今回はその守屋の考え事にいくらか見当がついていたので、参考までに尋ねてみる。
「もしやその考え事というのは、俺が持ちかけた例の手紙の件についてか?」
「……あー、まあ、一応、そうなるかな。手紙の件というよりは、有栖川の件と言った方が正確だけれどね」
やはりそうだったか。
歯切れ悪く守屋は呟くが、要は昨日の推理失敗を引き摺っているのだ。
俺のことを真剣に思ってくれているのか、それとも自らのプライドのためかはわからないが、とにかく彼女もまた俺に誰が惚れているのかをいまだに考え続けてくれているらしい。
残念ながらこの様子を見るに、結論は出ていなさそうだったが。
「なら聞いてくれないか、チャチャ。実を言うと、俺は犯人がわかったかもしれないんだ。当然、有栖川ではなく、真犯人がな」
「真犯人? ……それは本当かい、シャーロッくん?」
「ああ、今回は自信がある。本能的な確信だ」
「へえ。君の本能は割とあてになるからね。なら聞かせてもらおうか、名探偵の推理を」
いつまでも俺のせいで守屋を悩ませるのも申し訳ないので、俺は彼女に事の真実を伝えることにする。
俺を名探偵と呼び、己を助手と自称するだけあって、これまで半開きだった守屋の瞳にも本気の色が宿った。
こちらに向き直り、静かに、されど強く俺を見つめる守屋へ、そして俺は自らの考えをありのままに述べていく。
「おそらく俺に手紙を出したのは……西尾響だ」
「……ふむ。それで?」
まず決定的な名前を出してみたが、ここでもまだ守屋の真剣な表情に変わりはない。
お?
これは中々好感触ではないか?
あの頭脳明晰な守屋が、まだ俺の推理に興味を持ったままだ。
これは俺の考えにミスがないことの証明ではないだろうか?
「この前見せたノートにも書いていた通り、西尾はあの教室で最後尾に座っていた。つまり、教室中の全員が油断している隙を、正確につけたのは彼女一人だけなんだ。それに知っているとは思うが、西尾は本来数学が抜群に得意なはず。それにも関わらず、あの数学の補講に呼ばれていたのはおかしい。ということは論理的に考えて、補講の常連である俺に会うためにわざと補講に呼ばれたのだと推測できる」
「……ふむ」
「というわけで俺に惚れているのは西尾響で間違いない。惚れた理由はわからないが、状況的に見れば、彼女以外が俺に手紙を出せたとは思えないからな」
「……あー、そうか。うーん……」
しかし、俺が自慢の推理を騙り続けていくと、段々と守屋の顔が曇っていく。
なんとも微妙な表情で、どこか落胆したかのような唸り声を上げていた。
どうしたことだろう。
掴みは中々よかったはずなのに、どうも守屋は俺の意見に全面的に同意はしてくれていないようだ。
「なんだチャチャ? そんな不満気な顔をして? 俺の考えに納得がいっていないようだが?」
「いや、そういうわけではないんだけれどね」
「有栖川が候補から外れた今、もう西尾か法月かの二択なんだぞ? 消去法で考えても西尾だろう。法月は教室の最前列に座っていた。いかに綾辻女史が他のことに気を取られていたといえども、さすがに目の前に座っていた生徒がノコノコと歩き始めたら気づくだろう?」
「まあ、そうだろうねぇ」
「おいおいどうしたんだチャチャ? やけに今日は調子が悪いな? お前はいつも、もし俺が間違っていると思った時は、その間違っていると思っていることをそのまま口にするじゃないか?」
「……うーむ。間違っていること、か。そうだね。間違っていた。それは確かだ。でも、いつ、どこで、何を、どうして間違ったのか……」
守屋は俺の問いかけには答えようとはせず、また一人自分の世界へと深く潜っていく。
この自称ワトスンである小さな探偵は、なんだかんだでいつも正しい。
その彼女を納得させることができないということは、俺に惚れているのは西尾ではないということなのか?
となると残りの容疑者は法月だけになってしまうが、彼女を犯人だと考えるのは物理的に難しい。
よほど大胆なトリックでもあれば別だが、ただの、しかも偏差値低めの女子高生にはそんなもの思いつかないだろう。
というより思いつく必要性も感じない。
法月ほどの明るい性格ならば、むしろ手紙など使わず、真正面から想いを伝える方が、よほど自然でもある。
やはり西尾が俺に惚れているとしか思えない。
「なあ、チャチャ。実はこれから西尾に直接真相を確かめようと思っているんだが、お前も一緒に来ないか?」
「西尾に会うつもりかい?」
「ああ、そうだ。さっきから言っているが、彼女こそが俺に惚れている人物だと思っているからな」
「……いや、申し訳ないが、僕は一緒にはいけない。それに君も会わない方がいいと思うよ」
「なぜだ!? 有栖川の時はついてきてくれたじゃないか!? しかも俺も会うべきではないと!? やはりチャチャは西尾が犯人ではないと考えているのか?」
「べつに絶対に会うなというわけではないんだけれどね。ただ、意味はないと思うよ」
ぼんやりとした面持ちではあるが、守屋はきっぱりとそう言い切る。
明言こそしないが、守屋は西尾が俺に惚れていることをどうしても認めたくないらしい。
「なら改めて問うが、チャチャは誰が俺に惚れていると思うんだ?」
「そうだね……僕はやっぱり有栖川アスミが君に惚れていると思っているよ」
「はあ? おいおい、寝ぼけているのか? 昨日きれいさっぱりこれ以上ないくらいにそれは否定されただろう?」
試しに守屋の考えを訊いてみれば、あまりに予想外で斜め上の回答が戻ってくる。
あの柔軟で聡慧な守屋とは思えないほど、それは失笑ものの予想だった。
「まさか有栖川が嘘を吐いたとでも言うのか? そんなわけはないだろう。そんなことをする必要がまったくわからないし、彼女は嘘を吐くような人間じゃない」
「……まあ、僕もそれには同感だよ。彼女は嘘を吐くような人ではないし、実際、嘘を吐いている様子もなかった。……そうなんだ。だからおかしい。あれは本気の目だった。彼女は惚れているはずなのに、嘘を吐いていない。矛盾している……」
言葉の後半はきっと、俺に向けたものではないだろう。
俺としては、なぜ守屋がそこまで有栖川に拘るのかまったくわからないが、どうにも今回の問題では彼女の助けは見込めなさそうだ。
まだ有栖川を疑っているようでは、正直話にならない。
「まあいい。わかったよ、チャチャ。西尾には俺一人で会ってくる。それで全てがはっきりとするだろう。……そうだ、これを使うといい。これをお前が俺に返す頃には、おそらく俺に恋人ができているはずだ」
「うん? ……ああ、ありがとう。変なところで、しかも変なタイミングで気が利くねシャーロッくんは」
守屋の助けを諦めた俺は、ポケットに偶然入っていたハンカチを渡す。
探偵の助手として役に立たなくても、彼女は俺の大切な友人だ。雨に濡れたまま風邪でも引かれたら困る。
「じゃあ、僕はもう行くよ。色々と迷惑をかけてすまないね」
「何を言っている。これは元々俺個人の問題だ。相談に乗ってくれただけで、俺は心からお前に感謝しているさ」
「……ふふっ、そっか」
そしてまだ悩み続けている守屋は最後に可愛らしい笑みを見せると、昇降口から去って行った。
ふとした時に見せる守屋の笑顔は威力抜群で、軽く赤面してしまうが、そんな俺の醜態を見ることなく彼女は姿を消す。
まず間違いなく、俺より先に守屋に恋人ができると思っていたが、世の中わからないものだ。
まさかこんな取り立てて長所の見当たらない俺の方が先に恋人をつくれるとはな。
もっとも正確に言えばまだ出来ていないが。
そうやってニヤケ面を下駄箱に向けて遊んでいると、ふと背後に妙な気配を感じる。
俺は何事かと思い振り返ってみるが——、
「おい。お前、島田紗勒じゃねぇか」
「ヒィッ!?」
——ドンッ、という強い衝撃音が耳元で響き、気づけば俺の顔の横に手が叩きつけられていた。
あまりの咄嗟の出来事に、無力な俺は反応できない。
頭が真っ白だ。
いったい何がどうなっている?
なぜか目の前には耳にピアスを空けた金髪の美少女の顔があり、その距離は唇と唇がくっついてしまいそうなほど近い。
「あたしけっこう前からお前に興味あったんだよ、ちょっと顔貸せ。言っとくが拒否権はねぇぞ?」
獲物を狙う肉食獣のように嗤うその少女の名を俺はよく知っていて、まさにこれこそが待ち望んでいた時ではある。
彼女の名は“西尾響”。
おそらく俺に惚れている少女だ。
ただあまりに想像とはかけ離れたファーストコンタクトに、俺は彼女と会ったら話そうと一晩かけて考えた内容を全て忘れてしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます