雨に潤う心は枯れて 

藤森かつき

雨に潤う心は枯れて

 日照りが続いている。

 

「雨姫を用意しろ」

 

 遠くで現在のお館様の声がしている。それは、雨姫と呼ばれるタリシアの心へと響いてきた。タリシアには、皆の心がほどほどに聴こえている。自身が雨を降らせる道具でしかなく、人ではなく物としての扱いになっていると知っていた。

 

 もともと食は細いほうだが、それにしても粗末な食事しか与えられなくなっている。タリシアが雨を降らせたところで、感謝する心を持つ者などいなかった。

 

 

 

 歳が幾つであるのか、うに忘れている。外見上は十五歳くらいの少女のままだ。だが捕らえられたのは先々代のお館様の頃。百年以上は経つだろうか。他の者たちの心の言葉をつなぎあわせれば、タリシアは座敷わらしや、あやかしのたぐいだと認識されていた。

 

 ずっと監禁され続け、心は枯れている。

 

 作物の育ち盛りの季節に雨が必要になると、封印のための秘文字の書かれた衣装を、たくさん重ね着させられた。手首を拘束され、首輪を嵌められたまま土蔵の中の座敷牢から引き出される。

 館の四阿あずまやに似た張りだしに連れ出され、首輪に鎖をかけて柱につなぐ。

 

 

 雨乞いするように言いつけられた。

 直ぐに降れば、程良い湿りになるのを待って、また牢に戻される。

 降らねば折檻。

 

 

 タリシアは無口だったし心は枯れていたが、心の中はそれなりお喋りで、たえず独り言を呟いていた。だが、たくさんの雑念はない。心躍るような愉しみなど何もなく、心を澄ませて誰かの心の声を聴き、ひとりそれに心の中で応える。

 

「よいか、逃すでないぞ」

「畏まりました」

 

 牢からタリシアを連れ出した数人の者たちは、監視の者に場を任せると館の中へと戻って行った。

 晴れ渡り、雨の兆しなど全くなかった空には、タリシアが姿を現したことで、あっという間に雲が押し寄せてきている。

 

 首輪に鎖? ひでぇことするな!

 

 監視の者の騒ぐ心が聞こえてきた。

 新しく任に就いた青年らしい。

 逃がさないように、との言いつけに納得していない。

 

 それに、ひとり残った監視の青年は、タリシアの姿を見て動揺していた。小さな少女を鎖でつなぎ雨乞いさせることに納得できないだけでなく、次第に怒りを感じてきている。

 同情は、正直どうでもよかったが。青年の心の中は賑やかで、ちょっと楽しい。

 

 鎖になどつながず、少女を自由にさせれば良いのに。そう思う彼の心の中でタリシアは手を取られ、一緒に野原を駆けていた。首輪も手枷も外され、重苦しい衣装から、軽く可愛らしい衣装に変わっている。

 

 彼に連れられて走りながら、楽しそうに笑っている自分の顔に、タリシアはちょっと驚いた。少女らしい可愛い笑顔だ。そんな表情を浮かべたことなど、一度もなかった。

 彼は、しっかり手を握ったまま、想像の中であちこち連れ歩く。野の花が咲き乱れ良い香りが漂っていたり、タリシアは、彼の心の中に拡がる見たこともない綺麗な風景を眺めた。

 

 そんな風に、一緒に野山を走ることができたなら……!

 

 けれども、有り得ない話。

 手枷はともかく、首輪を外すのは不可能だ。誰かが、タリシアに求婚し婚約する、など期待できない。

 だからこそ、逃がさないための首輪に相応ふさわしい条件付けだ。

 

「ねぇ、姫さま。ここを抜けだそうよ?」

 

 青年――名は、ギード・テュテ。彼が名乗る前に、タリシアは知った。ギードは、タリシアの無表情を心配している。

 そして近場への散歩にでも誘っているような心の色合いだ。

 

「それは無理。何度も試した……」

 

 ギードの心の中で、笑い声を立てながら走っていた想像上のタリシア。その声とは全く違う、異質で冷たく響く声が告げた。

 

「オレが手助けするからさ」

 

 それでも、ギードはタリシアの本当の声が聞けたことを喜んでいる。声に触発されたのか、ふわあっ、と、ギードの心に再び想像の景色が拡がった。ギードの心は、なぜかタリシアを連れて逃げたい気持ちで一杯だ。タリシアを連れ出し、手をつないで陽だまりのなか走りだす。暖かな陽の光。逃避行というには、悲壮感のない楽しい風景だった。

 

 でも、一緒に逃げたら、実際はずっと雨だ。ぬかるみを、延々とふたりで駆けることになる。

 

 雨がしゃらしゃらと降り始め、どんどん雨足は早まった。

 暗い空。

 

 半日もせず、タリシアは座敷牢にもどされた。

 

 

 

 ハーラ・フェの街は、砂地が多い。雨が降りにくく、作物を育てるのは大変だが、一旦降ると大雨になりがちで。天候の管理が代々の領主に求められていた。

 

 タリシア・ラウが外に出ると雨が降る。

 

 タリシアは元々は領地の貧しい家の子として育っていたが、雨乞いの腕を買われて召し上げられ、以降、道具として扱われている。

 

 座敷牢は、窓のない土蔵を金属の格子で半分に仕切って作られていた。床は板張りで、小さな寝台と食事のための小振りな卓と椅子だけが置かれている。他には浴室につながる扉があるだけだ。

 外の光が遮断された土蔵は、灯りを持つ者たちが去ってしまえば、闇の中となる。

 タリシアは小さく魔法を使って、ほのかに灯りをともした。

 

 遠くのほうから言いつけられた仕事をこなしているギードの心の声が、かすかに聞こえてくる。薪割りでもしているのだろうか?

 

 今夜はちょっと遠出して買い物しようか、姫さまに何か贈りたいな、そんな雑音めいた声に、パッと鮮やかな晴れた日の海と山だという、タリシアが一度も見たことのない景色の断片が混じる。

 

 幽閉の美少女は歳をとらない。あれは、あやかしの子だ、と、そんな噂話を聞かされてもギードの心は少しも乱されなかった。

 

 他の者にとっては雨姫の監視は退屈な役だ。さらに気味の悪いあやかしの子だからと関わることを、皆嫌がっていた。更には逃した際の罰も恐ろしい。

 

 しかし、ギードは次に逢えることを愉しみにしてくれていた。

 どうしたら姫さまを連れ出せるかな? ギードは何気に本気でタリシアを館から連れだそうと考え続けている。

 ギードの心は、そんな思考の言葉の羅列から、不意にどこまでも続く海の景色に切り替わる。

 そして、何かに気をとられつつも、すぐに姫への思いに戻り、手を取って別の景色へと連れて行く。

 

 タリシアは、くすっ、と笑んだ。笑んでから、初めて笑ったことに驚いた。

 

 心の中で連れ回されているうちに、いつしかギードの心の豊かさに惹かれていた。瑞々しい感性、景色を眺めるときの心の表現力の素晴らしさに瞠目どうもくしてしまう。良い意味で賑やかだ。

 タリシアは、ギードの心を遠くに視ながら日々憩った。

 

 

 

 ギードの心には色々な感情があふれている。時々、全く意味不明な印象も差し込まれるが、嘘を並べることはない。とても暖かい。

 

 タリシアはしばらく悩み続けていたが、館を抜け出すことにした。タリシアが一歩を踏み出す決心ができたのは、ギードの心の動きが大きい。自由になることを諦め、監禁されることに慣れたタリシアを、空想の中で引っ張り回してくれたから、自由になる恐怖を払いのけることができた。

 

 巻き添えにしてしまうのは、少しだけ気が引けたけれど、次にギードが監視に立ったとき途方とほうもないことを持ちかけてみようと思う。

 

 長い時を生きてきた。その間にはタリシアを助けようとした者も若干いた。義務感に近い思いをいだく者、私欲による奪還者、それらとの逃亡は叶わず、皆、殺された。

 

 だが、ギードは彼らとは、ちょっと違う。タリシアの心に潤いをもたらしてくれる。本来の力が少しずつ戻ってきていると感じられた。

 

 雨が降るのは体質だ。力ではない。

 タリシアが外の光を浴びれば、祈らずとも雨は勝手に降る。

 

 枯れてしまっていたのは魔法の力――。いくらかでも発揮できれば逃亡が叶うかもしれない。

 

 

 

 雨乞いのために引き出された。

 いつものように手枷を嵌められ、秘文字による呪文が書かれた衣装が何枚も重ね着させられる。首輪は鎖で柱につながれた。

 

 タリシアを封じるために、それだけのものを施すので、見張りは手薄だ。

 監視にギードを立たせるだけで放置される。

 真上の太陽は、すぐに雲に隠れた。

 

「ギード、願いがある」

 

 タリシアは思い詰めた表情でギードを見上げて声をかける。

 

「なんだろう? オレにできることなら何でもするよ?」

 

 声を掛けられ、ギードの心は弾んだ。

 

「ほんとうに一緒に逃げてくれるのか?」

 

 ギード心の動きを、心を澄ませて感じとろうとしながらタリシアは訊く。

 

「もちろん!」

 

 姫がここを抜け出す気になったと知って、ギードは驚きと歓びとで心を満たした。

 

「ならば、わたしに求婚し婚約してくれ」

 

 タリシアは真っ赤になりながら言葉を告げる。

 首輪を消すための、ただの手段のはずだ。だけれど、ずっと座敷牢で心を聴き続けたタリシアは、ギードに心を奪われてしまっている。

 

 求婚と婚約を求めたことで、胸中に恋心があった事実に気づいて焦ってしまった。

 

「そうすれば首輪が外れて、わたしは少し魔法が使える」

 

 驚きで心の中が大騒ぎになったギードに、タリシアは慌てて言葉を足す。

 とはいえ求婚して欲しい。タリシアは本気で望んだ。恋する機会などあきらめていたから、ずっと監禁され続けるしか、今までは手がなかった。

 

 だから最大級の勇気をだして告げたのだ。一緒に逃げるには、求婚され、婚約することが必要だ。

 それに、気まぐれや、一時いっときの同情心だけでは、共に逃げきることはできない。

 

「え? オレと結婚なんていいの? ほんとに? オレでいいの?」

 

 ギードの心が舞い上がるような気配なことに安堵と歓びを感じながら、タリシアは微笑して頷く。

 ただ、ギードは身分違いを心配している。貴族の姫だと思い込んでいるからだろう。だが、貴族に囚われ、雨姫と呼ばれているだけの、あやかしのたぐいだ。人ですらないかもしれない。

 それを知られることを、タリシアは少しだけ恐れていた。

 

「そうしてくれないと、首輪が外れない」

 

 真っ赤になったまま、言葉は言い訳めくが、自分で思っていたよりもギードと結婚したいと願っている。

 ギードの心は、舞い上がり賑やかになりすぎて読み取れない。

 肝心な心がわからず、もどかしい。

 

「駆け落ちしてくれるのだろう?」

 

 少し首を傾げ、タリシアは切望のまま重ねて囁いた。顔は火照って赤くなったままだ。

 

「姫、オレと結婚して! 婚約しよう?」

 

 しばらく大騒ぎする心だったギードは、弾む声で言い切った。

 

 ギードの言葉が真実であると、タリシアの心に染みこんだ途端とたん、金の首輪から閃光がほとばしる。

 首輪はきらきらと光となって消え、カシャン、と、鎖が外れて柱を打つ音を立てた。光と化した金の首輪は、ふたりの左手の薬指に集約して金の綺麗な指輪の形となる。

 

「遠い昔の風習らしいが、揃いの指輪は婚約のあかしらしい」

 

 お揃いの指輪に驚くギードへと言葉をかけた。

 首輪が消えたことで、自然に手枷が外れて落ちる。

 求婚と婚約が、タリシアに掛かった封印を一部解いていた。心が少しずつ潤うのがわかる。

 

「ほんとうにオレと婚姻してくれるんだね」

 

 指輪を眺めるギードは驚きの表情のままだ。心は、読み取りきれないほど賑やかに騒いでいる。

 

「呪文の書かれた衣装を脱がしてくれ。苦しい。自分では脱げないのだ」

 

 この衣装を着けたままでは重すぎて身体が動かせないし、せっかくの魔法がほとんど使えない。

 

「わかった」

 

 ギードは苦労しながら重い衣装を一枚ずつ剥がして行く。何枚も、呪文の書かれた衣装は重ねられていた。

 封印する文字の描かれた上等な絹が脱がされ積み重なって行く。

 

 最後の一枚だけは、呪文のない下着だ。

 すべての封印が解けたので、簡単な魔法だが使えるようになった。

 

「ありがとう。これで動ける」

 

 タリシアは魔法で旅装束を身につけ、靴を履く。ギードはタリシアの身体をふわりと抱き上げて、張りだしの柵を乗り越えた。驚きに、どきどきして、心はまた少し潤った。

 ギードの思いに触れ、心がもっと潤えば、枯れて閉ざされた魔法がどんどん使用可能となる。

 

「いこう」

 

 ギードはタリシアの身体を地面に下ろすと、心のなかでいつもしていたように手をつなぐ。

 

「急ごう。雨は、わたしが弾く」

 

 自分の足を走りやすくすると同時、ギードの足取りも軽くなるように魔法をかけた。

 

「姫さまと一緒だと、足取りが軽いや」

 

 ギードの言葉に、ふふっ、と、小さく笑む。こそばゆい気持ちよさ。役に立ててることが嬉しい。

 

 ぬかるみも、泥跳ねしないくらいにはできそうだ。ただ、道が悪いのは直せないから、少し苦労しながら雨の中を走らねばならないだろう。

 歩くことすら慣れてはいないが、心は軽い。タリシアはギードに連れられ走りはじめた。

 

 

 

 降りしきる雨は、ふたりを濡らさない。

 ぬかるむ道はしかたないが、雨は弾け、泥もよけた。

 

「わたしはタリシア・ラウ。タリシアと呼んでくれ」

 

 名乗っていなかったことに気づいて、告げた。

 

「姫さまじゃだめ?」

 

 ギードの中では、すっかり姫さまと呼ぶのが定着している。

 

「構わないが。姫ではないぞ?」

 

 貴族の生まれでもなく、自分の正体すらタリシアは知らない。

 

「オレには、大事な姫さまだから。タリシア姫……う~ん、やっぱり、姫さまがいいな」

 

 照れたような表情と心でギードは呟いた。

 雨の中を走っての逃避行なのに、ギードの心はずっと晴れてうきうきとタリシアを連れている。

 そんな景色を視るたびに、タリシアの心は初めて味わう幸せな思いで潤う。

 

 タリシアはずっとギードの心を視てきた。心の動きを。他の者とは違うその心を。

 他の者は雨のことばかり。それは仕方ない。雨姫の利用価値はそこにしかなく、その効果は計り知れない。

豊かさを保つため、雨を操作することは必須なのだ。

 

 でも、タリシアは、自由でないのは構わないから、このわたしの性質を望み活かし喜んでくれる方々に尽くしたいと、そう願っていた。

 要は相手を選びたい。

 半ば監禁され、心のこもらない言葉のみ掛けられ、利用され続けるのは、もうウンザリだった。

 

 

 捕まれば、わたしは生かされてもギードは間違いなく殺される。

 

 誘いだしてくれた、逃亡を決意させてくれた、そんなギードをむざむざと殺させはしない。

 無計画なままの逃亡だったが、タリシアの心は疲れとは裏腹にどんどん潤って行く。

 ギードはタリシアへと揺るぎない思いを抱いてくれていた。

 

 走りながら時々、館でのタリシアとの出逢いを回想している。彼の心情。身分差のある恋で、一目惚れで、監禁状態が許せなくて、思いがけない告白に舞い上がった。タリシアを自由にするために、命を賭ける。これからも、なんでもするつもりのようだ。

 心に触れ、タリシアは次々に幸せな気分を味わった。

 

 あんな場所に戻させちゃダメだ。

 ギードはその一心で進んでいる。それでも時折、休むように歩調をゆるめてくれた。

 

「こっちだ」

 

 抜け道をたくさん知っているようで、ギードは巧みに複雑な道を進んだ。

 歩くことすらなかった身だが、タリシアは魔法の補助で走れている。ギードのお陰で使える魔法が増えて行った。

 

 雨が、逃亡を覆い隠す。徒歩での逃亡だが、気づいて追跡するのは少しだけ苦労だろう。ただ、逃げたと気づけば騎馬が追ってくる。

 

「ドルトゥの街に行くよ。」

 

 ギードの心から察するにハーラ・フェの街に接する街のひとつらしい。

 

「馴染みの街なのか?」

「姫さまの館に行く前に、世話になってた」

 

 追っ手は雨で動きにくい。だが、逃亡に気づいてハーラ・フェ家は、軍隊を放った。騎兵だ。

 遠くから、雨姫を捜す者たちの心の声が響いてきている。

 タリシアはひっそりと、騎兵へと土砂降りの雨をけしかけた。徒歩での逃亡だから、行き先に気づかれてしまえばすぐに追いつかれる。

 

『手に入らぬなら殺してしまえ』

 

 命じられた声が、騎兵の者たちの心にこだましている。ギードだけでなく、タリシアの命も奪うつもりのようだ。大量の矢が用意されている。

 だが、まだ、どこの街にふたりが向かっているのか、手がかりは得ていない。

 

 

 

 ドルトゥの街に入ると、ギードはまっすぐ領主の館を目指す。裏口というか隠し扉から、ひょっこり入って進むと、豪華な庭に出た。

 

「ギード? 久しぶりだね。おや、もしや雨姫さまか?」

 

 雨が降りしきるなか、タリシアに声が掛けられた。ギードに恩を感じるらしきは領主のようだ。ギードは、この館で働いていたときに、何やら領主を助けたらしい。

 

「そうです」

 

 タリシアは慎重に応えた。雨の少ないこの季節、ずっと降りしきる雨は特異なことだ。領主は少女が雨姫であることに、確信を持っていた。

 ギードが手をつなぐ少女は雨を弾いている。その辺りで、判断したようだ。そして、ギードならば、いずれ囚われの姫君を助け出すに違いないと、そんな風に考えていたらしい。

 

「雨姫さま。いよいよ逃げなさるか」

 

 感慨深そうに領主は呟いた。

 

「姫さまが安全に暮らせる土地に連れて行きたい」

 

 ギードは、領主へと希望を述べた。知り合いの領主を頼って寄ったが、かくまってもらうにはハーラ・フェの街に近すぎると分かっていたようだ。

 

「わかった。逃してあげよう。この街も雨姫さまの恩恵にあずかっていた。ずっと申し訳なく思っていた。馬車を用意するからサゾルドの街まで行くがいい。そこの領主ならなんとかしてくれる」

 

 馬車は乗り捨てれば、ここに戻るから、と、神獣の引く馬車を出す算段を整えてくれた。サゾルドの街は遠いが大きな領地と兵力の充実が安心材料らしい。

 ギードは神獣の存在を知っていたのだろうか?

 

「お館さま! 恩にきます!」

 

 領主としても危険な賭だろう。逃亡を助けたとなれば、ただでは済むまい。ハーラ・フェの兵力とぶつかれば、この街は滅ぼされてしまう。

 

 雨姫さまには世話になってばかりだった。だが、ハーラ・フェ家からは、雨を降らせる見返りを要求され続けていた……。そんな風に、ドルトゥの領主の心が響いてきていた。

 一矢報いたいらしき領主の心の動きに、タリシアは微笑んだ。

 

「ありがたい。面倒ごとに巻き込んでしまって済まない。雨で困ったことがあればこれをかざして」

 

 タリシアは、領主へと魔法の札を渡す。無事に逃亡が叶ったあかつきには、その札を持った領地にのみ、雨を恵むことが可能となるだろう。

 

「かたじけない。サゾルドの領主には知らせを送っておこう」

 

 領主からは、サゾルドの街ならば匿うことも可能だろうこと、ドルトゥとは同盟関係にあるらしいことが伝わってきた。

 手早くしたためた紹介状をギードに渡し、サゾルドへも連絡のため魔法の鳥を使いに飛ばしている。

 

 ギードに手を引かれて、共に馬車に乗った。四人乗りの馬車にギードと並び進行方向に向かって座る。

 馬の形の神獣は、馬車を引いて飛ぶような速度で走り出した。

 御者も不要。目的地は分かっているようだ。

 

 

 

 お陰で走らなくてよくなった。馬車は凄まじい速度だが、あまり揺れずに快適だ。

 馬車とはいえ長旅になる。ギードは、緊張した表情になっていた。

 

「疲れたろう? これを食べて」

 

 タリシアは、懐から巾着袋を取りだし、中から手にした干し柿を差しだす。

 粗末な食事しか出されなかったが、それでも時折、気にいったものがあると巾着袋へと食材を隠した。巾着袋の中は時の止められた空間だ。いざというときのために、臨時の食料を溜めこんでいた。

 

「姫さまも食べるなら」

 

 受けとりながらもギードは、タリシアのことを心配してくれている。

 

「わたしも食べる」

 

 同じように干し柿を取りだしてみせるとギードはようやく安心して干し柿を口にした。美味しい、と、感じたらしくギードの心がふわっと明るくなる。

 タリシアは隣のギードに、そっと肩を寄せた。

 

 いつも手をつなぐくせに、肩が触れるとギードの心の中が吃驚びっくりして騒がしくなった。互いの体温にどきどきしているようだ。タリシアは赤くなりながらも、ギードの緊張が少しとけたようでホッとする。

 

 タリシアは、神獣ごと馬車に雨が掛からないように魔法をかけていた。道はぬかるんでいるが、神獣はものともせずに進んでいる。

 

 ふと呼ばれた気になり、タリシアは馬車の窓の引き戸をあけ流れて行く景色を眺めた。

 雨にけぶる遠くの山裾まで下りてきている雲間を、龍がゆっくりとついてきている。なぜか逃避行を見守ってくれているようだ。

 

 タリシアは懐かしい思いを感じながら、しばし龍を眺めた。

 

 隣の、ギードの心。サゾルドの街でタリシアと暮らすことを心待ちにしてくれている。心地好い感覚にタリシアは微笑する。

 

「雨が望まれている土地に行って、普段は屋敷の奥に暮らし、雨が望まれたら祈りに外に出る、そんな生活がしたい……」

 

 タリシアは、囁くようにギードに告げた。

 

「雨の中、一緒にでかけよう?」

 

 ギードは雨降りもかまわず、タリシアと出かけたりしたいようだ。確かに隣街まで一緒に走ったのだから、どこに出かけるのもきっと可能だ。一緒なら楽しい。雨宿りで、食事して、互いの衣服を買ったりして。ギードの心が流れこんでくる。

 

 心はすっかり潤って、どんなことでも可能な気持ちになっていた。

 

 

 

 夜を徹して神獣は駆け、長い距離を進んだ。サゾルドの街に、だいぶ近くなっている。ギードとふたり、うとうとと少し眠っていたタリシアは、危険な気配に目覚めた。

 

「あ……!」

 

 タリシアは思わず声を上げる。

 

「どうした?」

 

 緊迫したタリシアの気配に、ギードは一瞬で飛び起き気持ちを引き締める。

 

「追っ手……後ろからと、サゾルドの近くに回りこんだのもいる」

 

 タリシアの心は雪崩込む騎馬軍の者たちの思考をとらえていた。もの凄い数の騎馬だ。

 いつの間にか騎馬軍が、二手に分かれて追ってきていた。神獣は早いが、馬車を引いている分、速度は少し落ちる。騎馬は、もう少し身軽だ。

 

 珍しく、ギードの心は極限まで緊張していった。

 

 神獣を直接操ろうか? いや、目的地は分かってる。それより神獣に姫さまを乗せて、オレが馬車内に残っておとりになろうか?

 

 ギードが、色々と心の中で画策していることに、タリシアは心で悲鳴をあげた。

 ギードは命を賭け、姫さまだけでも助けねば、と、思ってる。

 

「わたしをひとりにしては嫌!」

 

 ギードにしがみつきながらタリシアは叫んだ。ふたりで生き延びられなければ、何の意味もない。

 

「わたしが魔法で攻撃する。サゾルドまで持たせる。力を貸して!」

 

「力? どうすれば、オレの力を貸せる?」

 

 タリシアが魔法で攻撃できることは微塵も疑っていない。どうすればタリシアを助けられるのか、ギードの心はそこに集中していた。

 

「一緒にいると約束して。サゾルドに行って一緒に暮らすの! 幸せな暮らしを心に思い描いて! 結婚して幸せに暮らす、その未来を心で見せて! それが魔法の力になるの!」

 

 一緒の逃避行で充分に心は潤ってきたが、騎馬軍をすべて追い払うには、もっともっと、ギードからの潤いが必要だ。

 

「約束する。一緒にいる」

 

 そんなことでタリシアに力を与えることができるのだと知り、ギードは吃驚しながらも頷き誓ってくれた。微塵も疑う心の動きはない。すっかり動揺していた心を必死に鎮めながら、ギードは心の中にサゾルドで暮らすふたりの幸せな未来を描き始める。

 

 ささやかながら涙がでるほど幸せな、ふたりの暮らしがギードの心の中に展開する。

 

 雨の中、降りしきるように矢も降ってきた。

 タリシアは防御の魔法を放った。魔方陣のように光が神獣ごと馬車を取り巻く。雨の水をタップリ含んで球状になった。矢は水に刺さると勢いをなくして溶け消えて行く。

 

 しばらくの間、防御は続いた。神獣の行く手の視界を遮りはしないから、馬車はもの凄い速度で進む。

 

 何度も矢を射かけられ続けるので、タリシアのほうからも攻撃の魔法を放った。

 騎馬軍の上空からの雨が質量を増して土砂降りとなる。雨に混じって、水の矢が降り注いだ。水の矢は威力は弱いが、馬が暴れ、振り落とされる者は続出しているようだ。

 

 その隙に、神獣は駆ける。

 

 ギードの心は、タリシアの魔法が感じとれたようだ。すごい! と、心に称賛の言葉をあふれさせたが、同時に幸せな暮らしの想像を止めないように頑張っている。

 

 ふたりで食事を作って、ふたりで食べて。一緒に片づけて。

 タリシアが外に出ると雨だけれど、どこにだって一緒に出かける。

 

 タリシアは、ギードの心から力を得て、背後の追っ手へと水の矢を射続けた。

 迫る軍からの攻撃は弱まり、街は近い。だが、凌ぐ防御の力が尽きそうだ。

 それでもぎりぎり攻撃をかわして街まで、もう少し。

 

 

 

 領地境で、待ち伏せされていた。タリシアは、騎兵軍の者たちの心の動きで、だいたいの動きを察している。防御を強め、騎馬の場所へと攻撃の力を振り絞って魔法を放つ。

 しかし、馬車の存在に気づかれた――。

 魔法の力も尽きそうだ。

 

 

 と、大量の矢が射かけられそうな瞬間、街の側から武装した騎馬や兵士があふれだし騎兵軍を取り囲むように進軍した。

 

わたしの領地で何をしておる。ハーラ・フェの者たちよ、戦を仕掛けに来たと判断してよろしいか?」

 

 雨の中、朗々と響くサゾルド領主の声。

 騎馬軍は恐慌をきたしたように隊列を乱し、多数の軍勢に囲まれきる前に、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去った。

 馬車はその隙に、無事にサゾルドの街へと駆け込んだ。

 

 

 

 サゾルドの街の広場で、タリシアとギードは馬車を降りた。雨は大きく弾くので濡れない。

 神獣は空の馬車を引き、すぐに引き返して行った。

 

 雨の中、駆けつけてくれたサゾルド領主は、馬を下りてタリシアとギードの元へと歩み寄ってくる。タリシアはその身からも雨を弾いた。

 

「間に合って良かった。ご無事で何より、雨姫さま」

 

 サゾルド領主は丁寧な礼をとる。タリシアは領主にそのような礼をとらせるような身分ではないと思うのだが、洩れ聞こえる心の言葉によれば、雨を降らせる力を尊重してくれているらしい。

 

「助けていただき感謝する。だが、そなたも、わたしを閉じこめるのか?」

 

 信頼できる者だと分かってはいたが、タリシアは言葉で確認した。

 

「サゾルドの民として歓迎いたします。まずは住まいを用意しましょう。各地に雨を運ぶ仕事はどうです?」

 

 サゾルド領主は笑みを深め、そんな風に告げた。監禁するつもりはなさそうだ。

 

「では、窓のない土蔵のある家を用意してくれないか? このまま雨が降り続くのは困るだろう」

 

 ギードと一緒なら、どんな住まいでも構わない。土蔵の中に住むのでも、きっと楽しい。

 

「すぐに用意させましょう」

 

 そんなやりとりの最中に、山際をずっと着いて来ていた長い龍が、真上の雲から顔を覗かせ下りてきた。

 

『姫を守ってくれたことを感謝する』

 

 龍の声らしきが響き渡った。ギードへと向けている言葉のようだ。

 

『そなたと契約し、乗り物としての役割を受け持とう』

 

 大きな龍の頭が、極間近に在る。龍は、笑むような表情をしていた。

 

「え? オレ? オレと契約してくれるのか?」

 

 ギードは、声が自分へと掛けられていることに、しばらく気づかずにいたが、不意に察した様子で、龍を見上げて訊いている。

 

『姫を連れ各地に雨を降らして回るのだろう?』

 

 そうなることを予期していたのか、龍の望みでもあるのか、微笑ほほえましそうに龍は言う。

 

「わたしを姫と呼ぶ、そなたは何者なのだ?」

 

 タリシアは龍に訊いた。

 

『そなたの母に恩を受けた者。いずれ姫の元へと訪ねくることもありましょう』

 

 街で育ててくれた家族とは別に、生みの親がいるらしい。百年以上も昔の話のはずだが、母は生きているようだ。そしてタリシアは、自分が姫と呼ばれる身であるようだと知った。

 

「この街に住み、必要に応じて雨を降らせに各地を巡りたい」

 

 タリシアはギードに告げる。サゾルド領主も、この龍も、タリシアの望みを分かっているようだった。

 

「龍さん、じゃあオレと契約しておくれ。姫さまを連れて国を巡るよ」

 

 

 

 タリシアは大事にされ、サゾルドの街は一気に栄えた。

 普段は隠遁生活ではあるが、ギードとふたり龍に乗って雨を降らす旅に出かけるのは楽しい。雨を求める声を追い、全国を巡った。

 

 雨姫を失ったハーラ・フェの街は、干魃続きで一気にすたれていったようだ。

 隣のドルトゥの街に雨が降っても、ハーラ・フェには降らない。気の毒に思ってタリシアが雨を恵もうと思っても、それは叶わなかった。

 

 

 そして冬。

 ある日、サゾルドの街は気温が激下がりした。

 

「雪は降らせられない」

 

 タリシアが小さく呟く。

 

「それなら、外に出ようよ!」

 

 暖かな服装で、ギードに手を引かれて扉の外へと歩み出た。雲は集まって来ない。冬の弱い太陽の光がまぶしい――。

 

「なんてキレイ! ずっと空が青い!」

 

 晴れた日も、タリシアが外にでた途端とたんに掻き曇ってしまうから、ずっと青空を見上げるなどできなかった。冬の空は淡い色調で晴れ渡っている。

 

「寒いけど、たくさん遊びに行こう! 雪遊びもきっと楽しいよ」

 

 ギードの心の中で、早くも楽しく雪遊びするふたりの姿が展開している。積もった雪を照らす、眩しい太陽の光と、森や山の幻想的な雪景色。

 その景色は、すぐに現実になるはずだ。

 タリシアはうきうきと、雪の降る日を心待ちにしていた。

 

 

                                          

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雨に潤う心は枯れて  藤森かつき @KatsukiFujimori

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