頼義、子四天王に出会うの事(その七)

頼義は立ち上がった。まともに顔から地面に叩きつけられた鼻は骨折こそしていなかったものの、鼻血を吹いて口元を赤く染めていた。


粘っこい血が鼻腔をふさぎ、頼義の意識を朦朧もうろうとさせる。かつて味わった事のないほどの激痛と、その痛みに対する恐怖の中、それでも頼義は震える足を叱咤しったしつつ、辛うじて立ち上がった。



「……」



金平も、まさか彼女が再び立ち向かって来ようとは思いもよらなかった。大抵の相手は金平に投げ飛ばされればどんな喧嘩自慢でも戦意を失い、心をくじかれる。身体にだけでなく、心そのものに「敗北」を刻み付けるのが金平の相撲であり、戦い方だ。今まで数え切れないほどの喧嘩や実戦を重ねてきた金平の前に、負けてなお再び立ち向かってくる者など皆無だった。


なのに、今目の前にいる可憐な少女はその美貌を血と泥にまみれさせながらも今一度金平に戦いを挑んで来ようとしている。


決して手加減をしたつもりはない、それは最低限の、勝負を挑んできた彼女へのせめてもの礼儀のつもりだった。涙をためた目は虚ろである。鼻で息ができないためか呼吸は荒く、酔ったように千鳥足でふらつく頼義は、それでもすがりつくように金平の身体を捉えた。そして



「おねが、い…し…ます。しょ、しょう…ぶ……」



もはや意識などあるまい。それでも頼義は離さない。力なくぽこぽこと金平の胸板を叩き続ける。



「どうか、どう、か……」



ここまでくればもはや狂気の沙汰である。この娘はただの恐れ知らずの愚かな蛮勇か。あるいは……。不覚にも金平は、血泥に醜く汚された少女の顔に、ある種の眩しさを感じてしまった。だから……


金平はその首をつかみ、もう一度身体ごと地面に叩きつけた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



夢を、見ていた。一面に桜の花が咲き乱れていた。ああ、憶えている。小さい頃に訪れた邸宅の近くに流れていた小川だ。その堤に沿って植えられた桜の樹が、満開に咲き誇っているのだ。


すゞ子は桜が大好きだった。その薄く淡い色どりも、わずか数日で散ってしまうそのはかなさも、すゞ子は心から愛していた。


その美しさを、ぜひ手元に残しておきたい。そうすゞ子は願った。


しかし幼い少女の背丈では、一番根元に近い枝にも届かない。すゞ子はどうしてもあの桜の枝が欲しかった。振り返って河原を見ると、男の子たちが鞠を蹴ったり川魚を追い立てたりして遊んでいた。あれは近所の子たちだったか、それとも親戚の子だったか。


すゞ子は男の子たちを呼び止め、桜の枝を取ってはくれないかとねだった。初めのうちはすゞ子のことなど目にもくれずに好き勝手に遊んでいた男の子たちだったが、もう一度すゞ子がその目を輝かせながら桜の枝を願うと、少年たちは一瞬岩のように身を固くし、虚ろに目を泳がせると、争うように我先にと桜の樹に殺到した。最初に桜の枝をすゞ子に捧げる栄冠に浴しようと、男の子たちは互いに袖をひっ掴み、振り落とし、殴り合いの喧嘩まで始まった。


その惨状の果てに、ようやく決着がついたのか、その内の一人の少年が、足を引きずるようにしてすゞ子の前へやってきて桜の枝を恭しく献上した。


歯は折れ、目は青く腫れ上がらせ、頭から血を流しながら、少年は満足げに桜の枝を差し出した。


それを見てすゞ子は、いや「私」は、「私」は……



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



目を覚ました頼義は、ぼんやりと見慣れぬ天井を見上げていた。今のは夢であったか、それとも、かつてあった事の記憶だったのか……?頼義にはそのどちらのようにも思えて判断がつきかねた。


そもそも、自分はなぜこんなところで寝ているのだろうか。見知らぬ部屋は灯りもなく暗い、すでに日は沈み夜のとばりが降りている。早く帰らないとや女房連中が心配しちゃう、そんな場違いなことを呆と考えているうちに、ようやく頭の中の霧が晴れてきて色々のことを思い出した。


陰陽寮を訪ね入ったこと、「紅蓮隊」と称する、頼光四天王の息子たち、その一人である坂田金平との真剣勝負、そして敗北。頼義はそっと自分の鼻先に手を当てた。


顔には傷薬が塗られ、丁寧に包帯が施されている。布団も頭の側に敷布をうず高く積み上げて上半身が少し起き上がるように敷かれている。鼻血が逆流して息を詰まらせないようにという配慮だろう。土にまみれた身体も、湯で綺麗に拭き上げられていた。誰がその処置をしたのかと想像して、頼義は顔が紅潮して行くのを感じた。


情けない、自分から力勝負を申し入れて無様に負け、その上裸身を晒した程度でこのように狼狽えるなど。これではあの男に「これだから女は」などと嘲られても致し方ない。


頼義は自分の醜態に歯ぎしりした。ひとまず、迷惑をかけた陰陽寮の方々と「紅蓮隊」の面々に一言謝罪をして、今日は一旦退去しよう、頼義は起き上がって床支度を片付け始めた。すると、奥の方でばたばたと騒がしい音が響いた。


そっとそちらの方を覗いて見ると、金平や貞景たち「紅蓮隊」の連中が慌ただしく何かの準備をしていた。急いで厚手の狩衣かりぎぬを羽織り、手甲を着け、脛当すねあてをき、頭に鉢金を巻く。鞘袋から太刀を取り出し、腰元の平緒に掛ける。松明、矢筒、荷車……次々と装備が整えられていく。


戦支度であった。

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