送らずの手記

笠井 野里

送らずの手記

 芥川龍之介の顔写真を見ていると毎回思い出す人がいる。中学時代の同級生、山科氏やましなしである。芥川龍之介のあの顔貌がんぼうに多少似るところがあり、さらに言うなら、中々の高身長であった。やはり芥川のように痩せていて、そうしてインテリゲンチャだった。彼とはよく帰り道に会話をした。彼を弁論で打ち負かそうと必死になっていた私は、彼の知識と機知きちによって逆に打ち負かされるのが常だった。


 彼は、ある私立高校の特進科とくしんかに入学した。私も彼も工場ばかり目立つ無骨な田舎で育った。このような所は、都会とは世界が異なり、高校は公立の進学校が絶対的な正義という風潮がある。しかし彼は私立に行った。様々要因があるのだが、その一つに当時の私が意気揚々と吹聴ふいちょうした、T高(彼の進んだ高校)の方がいいという進言、そして地元イチの進学校へのネガティブキャンペーンの影響も、多少はあるはずだ。


 進学してからは、私の多くの友人たちと同じく、彼とも疎遠になった。私は人に対して自分から連絡を取ることがない癖に、他人ウケする性格ではないためである。ひどい悪癖であるし、私自身は多くの旧友たちを懐かしく良いものだと思っていながらも、照れているのか恐れているのか、連絡を取れないでいるのだ。そういう内に、本当に彼らとの接点がプツリと切れてしまっている。


 ともかく、このとき私は時が経つにすれ、彼の進路をゆがめたことにぼんやりと不安と罪の意識を感じ始めていた。T高を推す私の論理が、恐ろしい詭弁であったような気がした。悪いことをしたと思った。人の運命を変える重みのような、そんな地獄の石を背負った。


 疎遠とはいえ、年に数回は彼と偶然会うことがあった。彼の言葉からは学校生活の愚痴がいくつか聞こえ、その度に私は、針のむしろに立つ気がした。彼がT高に行かなければ…… と思うと胸が苦しくなった。謝ってしまったら、彼の現在を失敗と指弾しだんするみたいで、それさえ出来なかった。ただ罪がそこにあった。


 高校三年の秋ごろの、帰宅途中には真っ暗になるような帰りに、私は彼と偶然出会った。

 この時期の高校生というのは、大抵進路について話すものだ。とはいえ私はもうすでに、あまり頭の良いとはいえない大学に入学するのが決まっていたため、良くも悪くも、やたら呑気でいた。


「俺はもう受験終わったんだよね、K大。K大ねえ。中学時代の俺が聞いたら泣くね。天才笠井も落ちぶれたもんだよ」

「天才じゃなくて馬鹿の間違いだろ」

「違いない、ただ、馬鹿と天才は紙一重ともいうものだから、やっぱり天才笠井なんだなあ」

 このような冗談を二人でやっていると、中学時代のようで、懐かしい。

「そういえば、そっちは受験どうするのさ」

 山科氏も中々呑気だった。

「本当はAOか推薦でパッパッと決めてたかったけど、担任教師の方がお前は一般で行けとうるさくてねえ。まだ終わってないんだ」


 彼は、T高屈指の天才であった。彼に推薦の枠を使われては学校側も生徒の側もたまったもんじゃない、教師の言うことはもっともだった。

「S大でいいかなと思ってる」

 彼は、進路なんてどうでもいいという風に事もなげに言った。


 私はこのとき、私の愚かな進言を一層深く後悔した。S大とは、地元の公立大学。私の行った高校(これまたお世辞にも頭がいいとは言えない)のトップだった「秀才」が挑み、全滅したのはその当時記憶に新しかった。決して難易度の低い大学ではないが、しかし、天才山科氏にとっては簡単も簡単である。彼なら東大京大は現役で行ける。私はこのとき彼の人生に対して少なからず与えた損失を思った。例の公立高校なら、彼を打ち負かさんとするライバルがいたことは想像に難くない。そうして切磋琢磨せっさたくまし、受験戦争に勇ましく突撃し華々しい勝利を上げてゆく彼の姿も、浮かばないわけではなかった。

「最近は絵を描いててね、受験よりそっちの勉強をしてる」

 笑いながらそう語る彼の言葉は、多趣味で多才な彼を思い出させるものだが、そのときの私には、学問を放棄したように思えた。不良だと思った。絵なんかをやめて受験勉強しろと言おうか迷った。すんでのところで、T高進言の再来を思って辞めた。彼と別れた私は、十字架をしょった気分で帰った。


 思いがけず彼と会ったのは、センター試験の帰り道だった。私はAO組のため勉強も一切せず、頭がさえるというチョコをボリボリ頬張って自分の学力を試すぐらいのお気楽さで過ごしていた。テストを楽しめる心意気とは、この程度のゆるさでないと生まれないのかもしれない。この年の国語の問題には芥川の要素があった。『歯車』のドッペルゲンガーについて論じたもの。私はドッペルゲンガーというものに漠然と会いたくなった。


 試験が終わり、高校の面々は皆私より先に帰っているため、一人帰路を歩んだ。試験会場はS大キャンパス内。ウロチョロしている受験生からはそれなりのドラマが感じられた。床にへなへなと座り込んで泣いている人、なにやら十人ぐらいで集まって、頑張ったなと労う姿…… そして物見遊山ものみゆうざんぎみの私。それどころかセンターを受けることさえないで今日を過ごした同級生。センターの気迫は、凄まじいものがある。同じ中学だった人々と久々の再会をすることもあった。よい映画を見たかのような満足感が渦巻く私は、広いキャンパス内に溢れる制服姿から、ある二人組を見つけた。


 背の高い男と、背の低い女が、手をつないで、赤いレンガを模した壁にもたれている。二人は微笑を浮かべながら会話をしているが、遠くにいるため聞き取れない。二人ともT高の制服で男の顔は、芥川龍之介に少し似ている。私はその顔に見覚えがあった。あれは山科氏だ。

 その瞬間に、私は背中の十字架が消えたような気がした。彼の笑顔は、小さい女に向いていた。女も小さい体で彼の顔を見上げて微笑している。傍目からはカップルのようだった。私はこの瞬間に救われたのだ。彼らは今、幸せなのだ。私はそれでいいのだと気が付いた。T高が堕落だったか? 否。彼は高校生活を楽しんだのだ。絵を描いて、彼女を作って、いいじゃないか。なにも、学問だけが人生というわけでもない。見てみろ、今の彼ら二人の顔には後悔の色なぞ一色も見えない。


 私は山科氏に気づかれないうちに受験会場を背景にして、普段は猫背の背を伸ばし歩いていった。


 結局、山科氏を最後に見たのがその入試のときだった。その後彼がどうなっているのかもわからない。もし会えたなら、彼の描く絵を見てみたい。なぜだか私は、彼が良い絵を描くことを確信している。

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