第四夜

第22話 器

 夢と現の区別はつかない。

 あたりが光に包まれた瞬間、耐えきれず強く目を瞑った。瞼の外側から感じる光量が消えたとおもって目を開けると、周囲の様相は静謐な空気に包まれた山中に変わっていた。先ほど、目くじらを立ててこちらに向かっていた村人たちの姿はない。

 おまけにたった今まで長襟巻を介して一心同体であった三橋も消えている。代わりに残るは横たわる並木剛──。

 とはいえここで焦る一花ではない。

 山中、耳を澄ましてみる。

 葉の擦る音。枝が割れる音。自然の音色のなかに混じる、作られた音が聞こえた。


 トンテントトトン、ドンシャララ。


 嗚呼──お祭りだ。

 一花は疑いもせずそうおもった。

 剛の肩を揺らしてみる。しばらく待つと、やがてちいさなうめき声とともに身を起こした。

「う──ん」

「おはよう」

「!」

 彼は機敏にこちらを見る。

 わずかに青ざめた顔が、一花を視認するにつれて徐々に落ち着いてきた。

「古賀──さん」

「うん。大丈夫?」

「え? なにが──」

「ウゥン。あんまし大丈夫じゃなさそーね」

「────」

 戸惑う剛に肩を寄せて、一花は自身の肩に巻かれた長襟巻を半分手にとると彼の首に巻いた。とつぜん詰められた距離におどろいたか、彼はビクリと身をふるわせる。

「アッハ。そんな怯えないでよ、あたし別に取って食おうってんじゃない」

「これ、なに?」

「御守り。ぜったい身体から外しちゃだめよ、黙ってあたしについて来て」

「────」

 彼は逡巡し、ちいさくうなずいた。

 前を向く。

 サク、と足元の雑草を踏みしめて音の鳴る方へ歩みをすすめた。剛も覚束ない足取りでついてくる。頭の芯がぼうっとする。この感覚は知っている。自分ではない何かが自分を支配しているときの感覚。草を踏む足元に目を落とすと、おろしたての朱いスニーカーにかぶってちいさな足が見えた。白足袋に漆づくりの高下駄──。その小ささを見るかぎり、自身の中に棲むなにかは子どもらしい。

 視覚から入るおぼろげな情報とは裏腹に、内から伝わる心情はたいそうなものだった。

 ──栄誉ある神楽巫女。

 ──彼方と此方を結ぶお役目。

 ──きっと成功させねばならない。

 ──来迎祭をお迎えして、

 ──願わくばまた──。

 胸奥がツキンと痛んだ。

 これまで一花が経験したことのない胸の痛みに、おもわず胸元を手で押さえる。

「ねがわくば」

 言葉が漏れ出た。

「え?」

 剛がこちらを見る。一花は気にしない。

 なんのことだろう──と思いながらも歩む足は止まらない。自分の意思で進んでいたつもりが、いつの間にか身体は一花の意図と関係なく歩いているらしい。しかしそうなっても一花は焦らない。こういうときは抗うよりも流れに身を任せた方が事態は好転するということを知っている。


 ヒュー、ヒョロロロロ

 ドン、ドン、シャラララ


 ぽつりと見えた灯りに目を細めた。

 柔く揺れるかがり火が、神社につづく石畳をいざなうように両端に立ち並ぶ。この石畳を行った先にある舞台の上では今宵神楽巫女として舞うのである。

「嗚呼」

 のぼせたような声で、一花が息を吐いた。


 ──お祭りがはじまる。


 瞬きをした直後、世界から光が消えた。

 まるで瞼を閉じたかのようになんの色も見えない。自分の目が開いているのかもわからない。隣りにいるはずの剛の気配もない。それでも一花は動かなかった。

 一分、十分、いや、この闇のなかでは永遠ともとれる時の流れを越えた先、ゆっくりと自身のからだからすうと抜け出るものを見た。

 カラン、コロン。

 小気味よい下駄の音を鳴らしながら現れた白い影。

 それはやがて人の形と成って、一花と対峙する。

 形を成したそれは、巫女姿の少女──だろうか、お面をしているため顔はわからない──であった。

 一花は知っている。

 山中を駆ける一花をいざなうかのごとく、前を先導しつづけたあの少女。おそらくは並木剛や三橋綾乃をもうつつから夢の世界へと導いた張本人であろう。

「こんにちは」

 一花が言った。

「あのオッサンが言ってた子って、アナタのこと?」

 ────。

 少女は動かない。

「あたし一花ってゆーの。イッカって呼んでね。──アナタの名前、……」

 聞こうとして、一花は閉口した。

 少女が一花の両手を握ったからだ。


 ──キョウちゃん。


 少女は言った。

「恭ちゃん?」

 ──キョウちゃんに会ったよ。

 ──あなたとあの人なら、きっと、きっとつなげてくれる。

「…………」

 少女は面から覗く口元に柔い笑みを浮かべた。


 ──来迎祭をむかえるの。

 ──イッカちゃんお願い。

 ──私の器になって。


 一花の答えは決まっている。

 もとより、悩む頭はない。

「いいよ。オッサンにお願いされちゃったし、あの子も──ずうっとお祭りしたがっているみたいだったしね」

 ──イッカちゃん。

「ずっと呼んでたもの。ずっと──助けてって言っていたものあの子。でもほんとうにそのふたりには、ちょっと荷が重くて……だからこうして、やめておけばいいのにあたしたちまで一緒くたにして呼んだのだわ。やんなっちゃうったら」

 ──ぜんぶ分かってるの? あの子のことも、私のことも──。

「分かりっこないよ。でも──ここに来てほんの少しわかったこともあるよ。あの子はほんとうに彼のことが大切で、彼もどうしょうもなくあの子のことが大事だったのネ。……」

 うふふ、と笑ってつづけた。

「でもあたし、タダで動く女じゃないよ。その代わりに教えてほしいことがあるの。ネ、教えてくれる?」

 可愛らしく小首をかしげた一花。

 少女はつられて小首をかしげる。

「あなたは何者? それと──」

 ここでようやく、一花の顔から笑みが消えた。


「あなたのお願い、なあに?」


 *

 現実にもどったのだ、とおもった。

 まばゆい光から逃げるように閉じた瞼をゆっくりと持ち上げて、真っ先に目に飛び込んだのはうつくしいビスクドールであった。いや、正しくはビスクドールのように眉目の整った藤宮恭太郎──であるが。

「あやさん。起きろオ」

「────なんなのいったい」

「夢から覚めた?」

「ゆ、め?」

 覚めたのだろう。

 先ほどまで感じていた不自然なくらいの神韻縹緲さは消え、草木に覆われて薄暗い陰鬱な空気が肌にのしかかっている気がする。ゆっくり身を起こすと周囲には恭太郎だけでなく、将臣や景一、泰全のすがたまであった。

「あれ──あの人は」

「それで三橋さん、イッカは⁉」

 と、景一がこちらの肩をガッとつかんできた。

 イッカ?

 イッカって、一花のことだ。

 彼女なら自分といっしょに長襟巻に巻かれていたはずだが──。

「あれ。あ、え? イッカちゃん──」

「あんたといっしょにいたんだろう? イッカはどこに?」

「そんなのわたしが聞きた……って、あれ?」

 イッカだけではない。

 あのとき山中には翁面の男のほかに意識がない並木剛もいた。彼もいないのだろうか。あたりを見回す。しかしここにいるのは間違いなく、これまでどこを探しても見つからなかったこのメンバーのみ。

 景一のうしろから、泰全がぐいと顔を覗かせた。

「あのっ。つ、つよしは──一緒じゃなかったんですか。それとも古賀さんとおなじくはぐれた?」

「あ、いや。並木くんとは、ついさっき合流したんだけど。でもすぐに周りが光って、それで。……」

 言いながらうんざりする。

 現役刑事の身でありながら、こんなときド真面目に夢の話をしているのだから。

 しかしその言葉に対して恭太郎が示した反応は、至極さっぱりしたものだった。

「そうか。なら、ふたりはまだ向こうにいるんだな」

「そ、そうか──って」

「祭がはじまるのだ。あっちからイッカたちの声がする!」

「え。は?」

「聞こえるぞオ!」

 といって恭太郎が走り出す。つられて泰全も駆け出した。

 景一が将臣と顔を見合わせ肩をすくめる。


「あいつがいるともはや、夢か現実かわからねえな。──」


 その通りだ、と三橋はおもった。

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