第二夜

第8話 女刑事の休日

 奈良県に土地勘はない。

 とはいえ、縁がないことも──ない。

 その証拠に三橋綾乃は先日の事件の書類業務がひと段落ついたところで、わざわざ上司に許可をもらってまで、奈良県のとある場所までやってきたのである。

 ──縁、なのだろう。

 三橋綾乃はぐっと腰を反らせて空を見上げた。

 ふだんは警視庁刑事部捜査第一課に所属し、仲間とともに数々の凶悪犯と対峙するタフな日々を送る三橋であるが、プライベートではおよそ二年前に結婚、出産をした。旦那は三橋より二歳年下の料理人で、地元はここ奈良県にある。むかしは相当なやんちゃ者だったそうだが、料理人見習いとして上京してからはすっかりナリをひそめている。

 ファーストコンタクトは遡ること八年前、三橋が旅行のためおとずれた奈良県の某公園でのことだった。出会ったといっても会話は二言三言。旅行先での一期一会としてその後会うこともない認識だったが、数年後、当時交番勤務員だった三橋の前に上京した彼が現れたのである。

 三橋は知らなかったが、ファーストコンタクト時に一目ぼれされたらしく、三橋を追って遠路はるばる東京までやってきたのだとか。そこから足掛け数年の猛アプローチ。その熱量に根負けするかたちで、三橋は旦那の求婚を受け入れたわけだが──。

 ──なさけないったら。

 結婚からわずか二年。現在、三橋は旦那と別居している。

 理由は単純、すれ違いである。刑事という仕事上不規則な生活になるのは仕方ないとして、向こうはむこうで料理人という立場からか、夜の会合が多く、子どもの世話もろくに任せられない。おかげで現在二歳になる息子は保育園以外は三橋の実家で過ごす時間が多く、さびしい思いをさせている。そもそも息子が父親になつかないというのも大きかった。

 どちらがわるいというわけではない。が、息子を育てるにあたって互いがいる必要がなくなってきているのが実情であった。そんなこんなで昨日は息子とふたりで義実家へ赴き、義両親に孫を見せるついでに今後のことについて話し合う時間を設けたのである。

 ──冬士郎ちゃんよう来たねえ。

 ──かわいいなあ。

 ──ほんまおおきにね、綾ちゃん。

 義両親はやさしい。

 ふだん遠方によりなかなか会えないため、初孫の冬士郎をかわいがるときはめいっぱいの愛を見せてくれる。温かい人たちだとおもう。日々凶悪犯とばかり接するだけに、三橋は彼らと会うだけでホッと安堵できるのだ。

 ゆえに昨日、離婚協議について引き留められたときは大きく揺らいだ。


「あんだけ泣かれちゃあ、なァ──」


 おもわず漏れたひとり言。

 相手が悪人ならばいくらでも強くなれる三橋も、身内のこととなると途端に弱くなる。むかしの偉い人も言っていた。人間の覇気を減らすのに一番有力なものは内輪の世話やら心配だ──と。大切なものが増えるにつれ、三橋はその意味を深く噛みしめる日々である。

 今日は一日、初孫と過ごしたいということで冬士郎を義両親に預けてきた。仕事もない久しぶりの一人の時間、三橋はレンタカーを借りてドライブでもしようかと、こうして奈良駅近くのレンタカー屋までとぼとぼと歩いてきたのである。

 ──山の方でも行こうかな。

 自然に癒やされたい。

 そんな一心でレンタカー屋の看板を見たとき、三橋は自身の目を疑った。それからおもわずそぞろに駐められた車の影に身をひそめた。その動きはさながら、内偵中の被疑者を前にしたときのような身のこなしである。が、それも無理はない。なぜなら東京から遠く離れたこの西の地に、なぜかなぜやら休暇中には極力会いたくない顔ぶれが揃っていたから──。


「おやおやおやァ」


 ひょっこりと。

 こちらを覗き込むひとつの影。三橋が観念したように目を閉じ、やがて奥歯を噛み締めながらおそるおそる見上げると、満面の笑みを浮かべた藤宮恭太郎が──そこにいた。


 ────。

「なんというグウゼン! 恐ろしきガイゼン! いやはや奇遇だねエ、綾さん!」

 本当かよ。

 と、聞きたくなるのをこらえて三橋は顔をひきつらせながら、こちらの肩を抱く恭太郎にむかって微笑んだ。

「ねえ、ホント。なんて偶然。こちとら完全プライベートで来てるってのにまさかアンタたちに会えるなんて。──こんなトコでなにしてんの?」

 最悪だ。

 なにがって、せっかく仕事という日常から解き放たれようと遠い地にやってきたのに、そこでも仕事で深く関わった者たちと顔を合わせるなんて。これじゃあ東京にいるのとなんら変わりないではないか。

 この藤宮恭太郎という男、三橋が担当した刑事事件でこれまで二度関わった。と言っても一度は三橋が巻き込んだようなものなので、あまりわるくも言えないが。とはいえ、彼とその友人──浅利将臣と古賀一花が関わると、途端に事件の様相がおかしくなる。それは彼らの特殊な個性を通すことによって見える幻覚か、はたまた彼らに寄り来る事件が特殊なのか──。

 兎角彼らと関わるとろくなことではない──という、彼らをよく知る先輩刑事の言い分の意味を、三橋はここ数ヶ月で実感するところであった。

 こちらの気持ちを知ってか知らずか──ぜったいだろうに──、恭太郎は声高に言った。

「僕たちも完全プライベートだぞ。なにせ友人と旅行に来ているのだからね! さあほらふたりとも挨拶したまえ。こちら、綾さんだ!」

「え──?」

「こんにちは──」

 恭太郎のうしろからひょっこり顔を出したのは、見慣れぬふたりの男子学生だった。藤宮恭太郎が連れるにしてはずいぶん地味である。まあ浅利将臣と古賀一花だって派手かと言われれば否だけれど。

 彼の説明があまりに杜撰なので、代わりに将臣がふたりの男子学生に説明をはじめた。

「東京での知り合いなんだ。三橋さんといって、おれたちもよく世話になってた。白泉文化史学科の大先輩でもあるよ」

 刑事ということは隠してくれたようだ。よく気のつく子である。

「ああ、そうなんだ。初めまして──同級生の槙田泰全です」

「並木剛です」

 あどけなさを残すふたりの男子を前に、三橋はホッとしてにっこりと笑みを浮かべた。そう。男子大学生とはこういうのでいいのだ。やはり恭太郎と将臣がおかしいのである。

「どうも三橋です。なんだ、恭太郎くんったら一応ふたりの他にも友だちいたんだ」

「当たり前だ。とくに彼らとはあと数年、仲良くしなくちゃいけないのだからね。アイちゃんからのお達し」

「アイちゃんって?」

「四十崎センセっての。あたしたちのゼミの先生なンよォ」

「ああ──じゃあなに。ゼミ旅行で来てるわけ? その先生も同伴で」

「いいや。同伴は同伴でいるけれど、アイちゃんじゃない」

 と、言うなり恭太郎はぐるりとレンタカー屋の母屋を見た。そういえばここはレンタカー屋だった。となると車を借りに来たのだろうが、三橋が知るかぎりでも、ド近眼の恭太郎と方向音痴の将臣が運転できるとは思えない。一花にいたっては標識の意味すら知らないだろう。

 となるとこのふたりのどちらかか──と察するが、全てにおいて受け身な様子を見るに、いまいちしっくり来ない。だったらその同伴者ということになるのだろうが。

 以上のことを瞬時に考えた三橋が、恭太郎につられて母屋を見る。ちょうどレンタカー屋の店員とともにこちらへ歩いてくる男がいた。

 スッと通った鼻筋と薄い唇、柔和に細まる目元に、わずかにかかった前髪を揺らして颯爽と歩く様は一瞥限りでもハンサムの一言に尽きる。が。

 その顔を見た瞬間、三橋はズサッと大きく後ずさった。

「!?」

「おうい。車種なんだけど、荷物があるからちょっと大きめのがいいかなって──え?」

 男も足を止め、目を丸くした。

 知っている。この男のことは知っている。三橋のこめかみに汗がじわりと浮かんだ。

 あれっ、と男はハンサムな顔をほころばせて腕を広げた。

「お姉さん。どっかで会いましたね? あ、そうかあのときのとりしら──」

「こんにちは!!!!」

 三橋は爆音であいさつをした。

 とたん、学生たちは肩をびくつかせておどろき、恭太郎だけがキャッと叫んでうずくまる。しかしさすがの男はたじろぎもせず、こちらの意図を察したか、にっこりとわざとらしい微笑みを返してきた。

「あっと──失礼。いやおどろいたな、こんなところで東京の知り合いと会うなんて。ねえ。俺のこと覚えてます?」

「もちろんですよ。私、生憎と人の顔と名前を覚えるのが得意なんです。まあアナタからは最後の最後まで名前教えてもらえなかったけど」

「あーハハハ。あの時はいろいろ切羽詰まってて。いやほんと、ご迷惑おかけしました──」

 男──黒須景一は気まずそうに頭を掻いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る