ゆたかなせかい

ゆたかなせかい

 ベッドから起き上がった私の目に飛び込んできた世界は、桃色と青色の草が、一面縞模様に生えていた。


地平線に行くにつれて色が薄くなり、この世界も広いんだなぁと呑気に思った。


これより一個前の世界は、ベッドの下一帯が大海原で、上を見上げたら、全体が濃い黄色で塗りつぶされていた。


この前は小麦色の草が背を優に超えるぐらい生え尽くしたところで、上はどこまでも水色の星空が浮かび上がっていた。


その前は群青色の氷が下を覆い、灰色の太い綱状のものが、上で隙間なくみっちりと敷き詰められていた。


このように、ベッドから起き上がるといつも違う世界にいるのだ。


今日は、ちょっと景色が賑やかな世界なのかな。


私は上を見上げた。薄紫の綿状のものが、ふよふよと気弱そうに漂っていた。


甘ったるい匂いが鼻腔をねめつけるところからして、おそらく綿菓子だろう。


薄紫色の綿菓子は、ところどころ千切れそうになっており、そこから向こう側が透けていた。


一つの穢れもない、白色が見える。


私は顔を顰めた。

 

白は、嫌いだ。


私はできるだけ白が見えているところから目を逸らし、薄紫色の方に視線を向けた。


ああ、嫌だ。


萎えた心を早急に回復させなくては。


すると、綿菓子が上からだらしなく垂れ下がり、草原の表面にぼてりと乗っかっているのが目に入った。


なんだか美味しそうだから、食べてみたい。


活発そうな印象だけど、不思議と落ち着く萌黄色のベッドから離れ、少し歩いた。


すると、足の方に痺れるような痛みが走り、思わず身構える。


あれ、ちゃんと動ける。


この痛みがある時は動けないのに、今は普通に歩けている。


酷い時はベッドから起き上がれないくらい体調がわるくなるのに、なんでだろう……。


まあ、いいや。


私は今、あの綿菓子を食べたいんだ。


何にも身につけてない、剥き出しの足を草原にしっかりと埋もらせながら歩く。


草が足首をさわさわと優しく撫でてきて、くすぐったかった。


垂れ下がっている綿菓子に近づくと、千切って口に放り込んだ。


甘さが口内を掻き回して、喧しくなった。


それが楽しくてありったけ綿菓子をかき集めて口の中に入れたら、甘さが一気に引いて、ただの綿になって舌の上で反発し始めた。


吐き出そうかと思ったけれど、もう口の奥の方に入れてしまったので、仕方ないから噛み砕くようにして飲み込んだ。


口に入れた瞬間の喧しさも、口に馴染まない感触も、どっちも味わえて贅沢だった。


垂れ下がっている綿菓子の上の方をよく見ると、僅かだが白色が透けている。


きっと元の色は白色なんだろうな。


白は嫌いだから全部隠してよ。


綿菓子に呼びかけても、何の返事もない。


まあ、いいや。


それよりも、私は好奇心の赴くまま、この世界を探検したいんだ。


しばらくその場でジッと立つ。


この世界の空気が私の肌と絡み合い、馴染んでいく様を感じた。


私という存在がこの世界に溶け込んだ後、やっと本格的に探検を開始する。


とりあえず、あの地平線の彼方に歩いていこう。

私は足を前へ前へと動かした。


しばらく黙々と歩いていたが、だんだんつまらなくなって来たので、青色を踏んだら死ぬというルールを作り、ゲーム感覚で歩いた。


私の歩幅はそんなに広くないから大丈夫かな、と思っていたが、杞憂だった。


桃色と青色の幅は私の足の大きさにぴったり合っており、幅もそんなに広くないから、懸命に跨がなくても容易に一個飛ばしができる。


まさに私向けに作られた縞々だった。


そうやって、下を向きながら集中して青色の草を踏まないようにしていたら、首の後ろの筋肉が固くなり始めた。


コルセットをはめたように動けなくなるのは嫌だったので、上に向かって首をぐーんと伸ばした。


薄紫色の綿菓子が、白を余すことなく覆っている。


ここらへんは、白がないんだ。


そう思うと、笑いが込み上げてきた。


くつくつとお腹の奥底で動いていた笑いの種は、次第に芽吹いていき、やがて大輪の花が咲いたように大きな声で笑った。


笑いすぎてよろけたけれど、気にしない。


もう、さっきのルールは私がなくしたから。


私はお腹を抱えて笑ったまま覚束ない足取りで、あっちにふらふら、こっちにふらふらとほとんど無意識に歩いた。


さらに笑いの追い波が来て、いよいよ歩くことも危うくなってきたから、ジャンプをして誤魔化した。


そのまま段々と足が草原につかなくなり、身体が浮いてきた。


薄紫色の綿菓子を食べたからだろうか。


きっとそうだ。


そうでなきゃ、こんなに身体が綿菓子みたいに軽くなってない。


綿菓子を食べてしまったから、身体が浮いてしまったんだ。


私はますますおかしくなって、身をよじって笑う。


笑って、笑って……そろそろ過呼吸になるという寸前で、ふいに冷静になった。


両足に、ひんやりと冷たい水蒸気のようなものが絡みついたからだ。


私は驚いて、足元を見た。


そして、息をのんだ。


真っ白のモヤモヤが、私の足を掴んでいたのだ。


人と同じような形で模られており、私の足はそいつの無駄に大きい手で包まれていた。


二つの真っ黒い穴が顔を模したモヤの上あたりにぼっかりと空いていて、まるで目のようだった。


私を戒めるように、非難するように見つめるその穴は、身の毛がよだつ程のおぞましい深淵だった。


マッサラだ。


全身が白いから、マッサラと呼んでいる。


名前を尋ねたってアイツは口が聞けないから、こっちが勝手に決めていいんだ。


いつからか私の世界にひょっこりと姿を現わし、無言で襲い掛かってくる嫌なヤツだ。


ここは、お前の世界じゃないと言わんばかりに。


他にも仲間がいるが、今はいないらしい。


だけど、恐怖に引き摺り込まれるのは、マッサラだけでも充分だった。


ああ、油断していた。


つい有頂天になってはしゃぎすぎた。


私はまとわりつく白いモヤを解こうと、足を振り回した。


だが、存外それは力強く、逃げることは許さない、という強い意志めいたものを感じた。


マッサラは力が強く、背が高い。


現に私は宙に二メートルほど浮いてるのに、易々と届いてしまう。


圧倒的な能力の差に、抵抗している途中で心が折れかけるが、諦めなかった。


まだ、この世界を遊び尽くしてないのだから。


やめて、マッサラ!


そう必死に叫んで暴れても、あっという間にマッサラの腕の中へと捕まった。


肌を刺すような冷気に包まれ、身体が大きく打ち震えた。


少し動くだけで、体力が吸い取られそうだった。


だけど、まだ私は抵抗をやめなかった。


マッサラの腕の中で、手を無茶苦茶に突き出してもがき、まだ冷えて気持ち悪い感触の残る足を大きくばたつかせた。


マッサラは腕の中から出ようとする私に動揺はしているのか、少しまごついている。


だが、すぐに腕の力が強められ、私の身体に白く、太いモヤが巻き付いていった。


叫び声を出すことも難しくなり、白いモヤの低温に徐々に動きが鈍くなっていった。


意識が段々と遠のいていく。


まだこの世界を探検したばかりなのに……。


もの悲しい気持ちが目元に溜まっていった。


すると、腕にチクリと鋭い痛みが走った。


あっ、と声を上げそうになったけど、すぐに生暖かい液体が体内に入り込んできたため、声は喉奥で消え去ってしまった。


刺された皮膚下にじんわりと広がり、不快感を煽る。


前の世界で足にされたことと、同じだ……。


次は、動けなくなるんだろうか……。


頭が急速に呆けていき、瞼がゆったりと眼球を覆い隠していった。


こんな微睡みに身を任せるような感覚は、心地良い。


先程の恐怖やら絶望やらといった冷たい感情は忘れ、穏やかに波打つ眠りの波へと呑まれていった。





目を覚ましたら、節目が沢山入った茶色い板が目前に広がっていた。


私は驚いて起き上がった拍子に、額を強かに打ちつけた。


ピリついた痛みが走り、両手で額を押さえたままベッドの上で右に左に転がっていると、そのまま下へと落ちた。


高さはあまりなかったから重傷には至らなかったものの、固い感触が肩越しに直撃し、小さな痛みがプチリと弾けた。


私は呻き声を奥歯で噛んで耐えると、ゆっくりと板から体を離した。


これだけ動き回っても、普通に起き上がれる。


しかし、マッサラに襲われた時に感じた痛みは、紛れもなく体調に支障をきたす前触れだ。


今のところ、全然そんなことないな。この肩以外は。


私は肩を摩りながらベッドを見ると、横たわったら板と鼻先が掠めるぐらいの狭さだった。


なるほど、と一人静かに納得して、世界を把握するために辺りを見渡した。


上や下にはもちろん左右にもあり、さらにはベッドを挟んだ前にも、茶色い板状のものが少し離れたところで壁のように立ちはだかっていた。


しかし、ベッドに背を向けて後ろを振り返ってみたところ、壁はなく、代わりに長い通路があった。


先はどこまで続いているのか暗くて分かりにくいが、茶色い板には囲まれていることには変わりないのだろう。


この先に何があるんだろう……。


気になって奥に進もうと立ち上がった。


その瞬間頭がカキンと鳴り、目の中に火花が散った。


頭を天井に打ち付けてしまったみたいだ。痛い。


私は再度うずくまった。


普通に立ち上がることもままならないのか、この世界は。


何だか息苦しいな。


これまでの世界は、こんな四方八方に壁に囲まれるなんてことなかった。


天井なんていう概念がなく、手を上に向かって伸ばしたら世界全部を掌握できるような無限の可能性が急に狭まったような気がした。


けれど、今はどうだろう。


手を伸ばしたら普通に終わりがあって、簡単に手がついてしまう。


おまけに背も曲げなくてはならない。


何だか世界が急にちっぽけになって、つまらなくなった。


前のような探究心も、胸の中に湧き上がってこない。


目の前に、いかにもその塊をそそられるような通路があるというのに、私はあまり動きたくはなかった……が、それはすぐに覆された。


暗い通路から、ひょっこりと大きな赤い花が顔を出したのだ。何の花なのか分からない。


だけど、血濡れたような真っ赤な花弁が咲き誇っている姿を見て、これは大嫌いな花だとすぐに分かった。


私は、赤も嫌いなのだ。


それに、嫌に細っちい茎で大きい花を支えて、太い根っこの足が数本生えて懸命に支えている姿に腹が立つ。


こちらの様子をまごまごと伺っているのにも殴りつけたくなる。


私の中の堪忍袋の緒が、急に切れた。


気付くと私はベッドから離れ、真っ赤な花を見下ろしていた。


手は、花を殴った生々しい感触が残っている。


罪悪感はない。


やみつきになる達成感なら、ある。


中毒になりそうな、危険な快感が身体を伝った。


花は身の危険を察知したのか、根っこを忙しなく動かしながら通路の奥へと逃げた。


私は夢中になって花を追いかけた。


身体は屈まずに走ったが、頭は天井とぶつからなかった。


だから、余計に我を忘れて欲望に陶酔した。


花を殴った時のあの感覚が忘れられなくて、もう一度味わいたくて、必死に追いかけた。

  

潰す。消し去る。むしり取る……。


どんな方法でもいいから、私の手であの忌々しい花を葬り去りたかった。


腹の底に溜まった笑いを吐き出しながら、逃げ回る花の跡をただひたすらに追う。


通路の先は闇に包まれ、何があるのかはっきりと分からない状態であるにも関わらず、花の後ろ姿と通ったところは普通に見ることができる。


おかげで、壁に浮き出ている節目が通り過ぎる度、何事かとこちらの様子を見つめているような感じがして、気が散りそうだった。 

 

けど、花が見ているだけで手を上げたくなるほどの苛立つ容姿をしているせいで、次第に節目のことなんか何処かへ行き、ただ目の前の花を散らせるためだけに走った。


そんなこんなで走っている内に、花との距離は縮まり、手を伸ばせば掴めそうなぐらいになった。


けれども、右に手を出すと花は左によじり、左に手を出すと花は右によじる。


全く往生際が悪い花だと、さらに苛立った。しばらく粘っていたが、あまりにもいたちごっこがすぎるので、飛び蹴りを食らわせた。


花弁が数枚散って、宙を舞った。


そして、花はゆっくりと倒れた。


その姿を見て、全身が打ち震えた。心臓が高鳴り、小刻みに息を吐く。


私は何とも言えない悦に、身も心も浸ってしまった。


私は花の上に馬乗りになり、拳を固めて振り下ろした。


反抗する家来を、無理矢理従わせる暴君の王様のような心持ちで。


すると、花弁は爪で黒板を引っ掻くような、不快感満載の叫び声を上げ始めた。


私の鼓膜に叫び声がつんざいて、殴る手を一旦やめて、耳を塞いだ。


その間に花は私の下から出ようともがいた。


貴方に、逃げる資格はない。


私の頭がスッと冷静になり、耳から手を離すと拳を花弁に真っ直ぐ殴りつけた。


さっきまでの興奮は、ない。


花の事が嫌いだから殴るという感覚は変わらないが、拳を花弁に落とす度にズブズブと快楽の沼にハマっていく感じはない。


かわりに、何としてでもこいつを散らさなければならないという使命感に駆られた。


さっきまで悦に入っていたのが嘘のように引いていく。


そして、花に対する憎悪が前に出てきて、嫌悪と混ざり合い、ドス黒い澱みが胸に溜まっていく。


それを花にぶつけるように、殴っていった。


いくら殴っても手が痛くならないから、好都合だ。


この花を早急に潰せる。


花は叫び声を上げ続けていたが、徐々にか細くなり、ついには黙り込み、ただ拳を受け入れていた。


花弁はひしゃげ、色褪せていき、茎もあと少しで折れる寸前だ。


このまま、殴り続ければ確実に……。


私は一層拳を強く固め直した。花弁の上に渾身の一発を放つ、はずだった。


後ろから手の形をした白いモヤが出てきて、私の手首に巻き付いた。


反射的に後ろを見ると、窪んだ二つの穴と目が合った。


 マッ、サラ……?


 いや、これは、マッサラではない。


確かに人型の白いモヤで顔の所に目であろう穴が二つほどついているが、違う。


マッシロだ。


マッサラの仲間であり、背が小さくて、私を怖がる臆病者だ。


現に、マッシロは私の背後に回り、私の腕を押さえつけているが、私の腕からマッシロの手が震えているのが伝わってきた。


相手が怯えていると分かると、不思議と強気で出られる。


私はマッシロの手を振り解き、突き飛ばした。


マッシロはいとも簡単に転がり、私から身を守るように、頭を抱えて丸くなった。


弱いなぁ、マッシロ。


私はグッタリとした花を引きずって去ろうとしたが、それは出来なかった。


前にまた白い人型のモヤが立ちはだかったのだ。


マッシロより高く、マッサラより低い背丈で、豚みたいにたくましく肥えている。


マッハクだ。


こいつも、私の敵だ。


まずい、マッサラの次に強いから私の力ではどうにも……。


そう考えていると、突然視界が暗転した。


と、思ったら、顔面に強い衝撃が走った。


続いて胴体が圧迫され、喉から小汚い音が鳴る。


下の茶色い板に、押さえつけられたのだろう。


いつの間にか花は、私の手から離れていた。


離せ、マッハク! 私が、私が散らせるんだ!


叫ぶことしかできないのが、歯がゆい。


動かそうにも、マッハクの腕の形をした太いモヤは案外力強い。


あいつらは叫びが……私の訴えが聞こえているのだろうか……。


多分、聞いていないんだろうな。


私は力なく笑った。


腕辺りに、チクリと鋭い痛みが走る。


そして、生温かい液体が皮膚の中に流れ込み、重くなった瞼は素直に眼球を覆い始めた。




萌黄色のベッドから起き上がったら、ちょっと離れたところにドアがあった。


明るいベージュ色で着色され、ドアノブには遠目からでも分かるような大きさの、所々錆びついた南京錠がぶら下がっている。


何か物があるのはそれぐらいだ。


後は世界の全体が黒く塗りつぶされていて、上も下も右も左も終わりがない。


ただ虚空が広がっている世界。


またつまらなさそうな世界に来たなあ。


天井やら壁がない分のびのびとできるが、こう何もないとすることがなさそう……あ、いや、あった。


私は一旦ベッドから離れ、ドアに向かった。

南京錠がわずかに空いているのが気になったからだ。


ベッドに降りて下に足をつけても、何の感触も体温もない。


空中で歩いているみたいだ。


ただ歩いても見渡す限り黒一色で、全然楽しくない。


ドアにはすぐに辿り着いた。


体感的には遠いと思っていたが、ほんの一メートルぐらいだった。


私は南京錠を手に取り、かけた。


錆びついている割には随分すんなりとかかった。


南京錠がちゃんとかかったのか引っ張って確認すると、またベッドへと戻った。


そして、ベッドの上に乗ると、足を腕に抱き込んで体育座りをした。


この何にもない世界を探検しようとは微塵も思わなかった。


それなら、お気に入りの萌黄色のベッドでゴロゴロしていよう。


一通り堪能したら、次の世界に期待を馳せながら、ベッドに身を任せよう。


だけど、それは叶わなかった。


玄関からけたたましいチャイム音が鳴り響いたのだ。


驚きのあまり、身体が跳ね上がった。


チャイムは、一回だけでなく、二回三回と立て続けに鳴った。


早くこのドアを開けろ、と言わんばかりに。


私は耳を塞いだ。


こんな一瞬で恐怖を駆り立てる音なんて、世界にいらない。


 

止まってよ。




その願いとは裏腹に、チャイムは鳴り続ける。


私はベッドの上にある毛布に潜り込むと、丸くなった。


枕も引き込んで、うつ伏せになった頭を沈めるようにグリグリと押しつけた。


外界の音が少しだけ収まって、心が落ち着いてきた。


何気に毛布を被るのは初めてかもしれない。


常備されてはいたものの、毛布に包まれて寝ようとも、中に入ろうとも考えたことなかった。 


今まではさっさとベッドから離れてしまうから、毛布なんていらなかった。


もしかけていたら、いちいち毛布から出なくてはいけないという手間が増えるだけだ。


でも、今はここにあって、とてもありがたかった。


気休め程度だけど、身を守る術が手元にあるのとないのとでは安心感が段違いだ。


しかも、大好きな萌黄色で囲まれていて癒される。


今日はこのまま眠ろう。


幸い、南京錠でドアは守られているから、大丈夫だ。


大丈夫……何にも入ってこない。


恐怖を逃すように息を吐き、身体の力を抜いて、目を閉じた。




ドンドンドン!



 

チャイム音から守っていた毛布を突き抜けて、今度はドアを叩く音が入り込んできた。


急な出来事に驚いて、身体がまた跳ね上がった。


跳ね上がった勢いで毛布が身体から落ち、外の空気に晒された。


冷たい空気が私の身体をなめつけるように撫でてきたので、思わず身震いした。


毛布をもう一度被り直そうとしたが、毛布がベッドから落ちてしまった。


枕も、毛布に続いて下に落ちていった。


ぼとりと重たそうにベッドから離れ、真っ黒い世界に溶け込んで、跡形もなくなった。


もう、身を包んで癒してくれるものは、ない。



泣き叫びたい。この絶望に嘆きたい。


けれども、ドアを叩く音が、そうはさせないと急き立てていき、焦る気持ちが逸って、感情が思うように出せない。


ただベッドに呆然と座り込み、ドアから背を向

けることしかできない。


いや、違う。方法はある。


多分、ドアを開けて、相手を招き入れたら音はしなくなる。


だけど、同時に、開けたら何もかも終わるのかもしれない……。


私という存在はいなくなってしまうかもしれない……。


漠然とした、不安に駆られる。

 



ドンドンドンドンッ!




ドアを叩く音が大きくなった。


耳をふさいでも、音はくぐもって聞こえなくなるばかりか、より鮮明に聞こえた。


耳がもぎ取るぐらいに爪を立て、手の平を穴にはめ込むようにして塞いでもダメだった。


それどころか、音が増えたような気がする。




ドンドンドンドンッ!

コン……コン……

ダンダンダンダンダン!




全く協調性のないドアの叩き方が、ますます怪しさを増長させる。開けたくない……。


でも、開かなきゃ終わらないかもしれない……。


私は追い詰められていった。


外にいるやつはなかなかドアが開かないから、痺れを切らしたんだろうか。


明らかにノックの音とは違う音も混じってきた。




バキッ! メリメリメリ……。




私は、振り返った。


ドアが屈折し、真一文字にささくれ立った木片が前に突き出していた。


南京錠は弾けとんでしまっていた。


引っ掛ける部分が見るも無惨な形でひしゃぎ、ベッドの下まで転がってきた。


あ、もうダメだ。


あれだけ目を背けて物事は、いざ目の当たりにすると、案外すんなりと受け取めてしまった。


ドアが真っ二つに割れ、マッサラとマッシロとマッハクが立っていた。


あいつらは走ってきて、ベッドの上で私を羽交締めにした。   


どうせ、いつもみたいに暴れると思ったんだろう。それは外れだ。


悪いけれど、今はもう、動く力は残ってない。


私が守ろうとするものを無理矢理にでもこじ開ける姿に、なんだか抵抗する気が失せてしまったから。


それに、ここで無理矢理世界を中断して、別の世界に行くのも悪くないとも考えた。


呆れている自分と淡々と次の計画を立てる自分が混在していることがなんだか可笑しくって、笑みが漏れた。


羽交締めにされている腕にちょっと負荷がかかる。


直接冷たいモヤが背中に集中して当てられているから寒いが、別の世界に行けるぐらいならこれぐらい大丈夫だ。


無理矢理思考を前向きの方向に切り替えようと、躍起になっていた。


だから私は、忘れていた。


こいつらの、ボスがいることを。


それを思い出したのは早かった。


いつの間にか、私の目の前に現れていたからだ。


ビャク……。


ビャクは常時屈むような姿勢を取っていて、全体的に痩せて弱々しそうに見えるが、有無を言わせない貫禄がある。


私と会ったのは一度だけだが、ビャクの恐怖は身に染みて実感している。


弱そうだと思って飛びかかったら、痛みを感じながら気絶し、別の世界を探検する前に自然と気絶したことがあった。


最近では、気絶前に痛みを感じても動けることは多いが、それはマッサラたちの場合であって、ビャクはどう出るか分からない。


私は今更ながら暴れ出したが、もう後の祭りだ。既に白いモヤたちに取り押さえられている。


必死に喉を振り絞って金切り声を上げて威嚇するも、ビャクはそんな私を無視して手の形をしたモヤを前に突き出した。


何か細長い針状のものを指先でつまんでいた。


喉がひゅっと締め付けられたような緊張感が走り、身体が硬直した。


小さな尖りがゆっくりと近づいてくる。


せめてもの抵抗として嫌々と首を振るうが、そんなのお構いなしに近づいてくる。


切っ先の禍々しい光が、ビャクの三日月形になった二つの落ち窪んだ穴を照らす。


ああ、もうダメだ。


抵抗を諦めた瞬間、肩にチクリと鋭い痛みが走った。液体が皮膚の下を蝕み、強い眠気が襲ってくる。


次の世界では、探検できるかな……。



ぼやけた視界の先には、赤黒くなったカーテンが見える。


元の色は、私の大好きな萌黄色だったのに、汚されてしまった……。


縛り付けられ、猿轡をかまされた挙句、我が家の大きなガラス窓の傍に転がされるなんて、ドラマや映画の中だけなんて思っていたのに……。


現実でも起こるんだなぁ。


いや、現実で起こっているからこそ、ドラマや映画で出てくるのかな? 


ははは、分かんないや。


現実逃避だ。


そうまでしないと、精神が崩壊する。


チャイムが鳴って、宅配便を受け取ろうと玄関を開けた時、この手口で民家の住民を殺害するという事件が多発していることを早く思い出していたら、父親と母親は生きていたかもしれないのに……。


取り返しのつかないことだと分かっていても、後悔は止まらない。


父親と母親の叫び声を聞いた時は激しく狼狽し、泣き叫んだ。


犯人の血色が悪くなった白い頬に、赤い液体が飛び散るのも直視した。 


ついさっきまで団欒していたリビングが殺人犯の手によって汚れていく様子も見た。


明日の十七歳の誕生日はどんなプレゼントがいい?って、聞かれてたんだけどなぁ……。


私は、きちんと見ていた。


殺人犯が薄ら笑いを浮かべ、動かなくなった両親をつつき回してますます赤く染まっていく姿も。


その時に感じたことは、ただ自分は無力だということだ。


どうして、私も一緒に殺してくれなかったのだろうか。


なんで両親を笑いながら殺すんだろうか。


面白いことでもないのに。


あいつにとっては面白いことなのか。何


でそうなるのか知りたいよ、なんて。


だけど……私も結局はここで朽ち果てる。


そこまで考えて、じゃあ後は考えるだけ無駄なんじゃないか、という結論に至った。


……否、何も考えたくない、と言った方がしっくり来る。


この異様な光景から目を背けたくてあれこれ考えていたけれど、結局何にもならない、何にもできない。


だったら……だったら、狂った現実から逃げたい。


ここに、いたくない。


どこに行こうか。


そうだなぁ、広いところがいい。


狭いところはやだ。


鉄錆の匂いが忘れられそうにないから。


それを言うと、カーテンも嫌かなぁ。


近いからだろうけど一番臭うし、視覚的にもかなり悪い。


後は、赤と白がないところがいいな。


白いところに赤が混じると酷く目立つし、たった今嫌いになったから。


後は、私以外話せない世界がいいなぁ……。


猿轡をかまされているから思う存分口を動かしたいけど、殺人犯のせいで人と関わることがトラウマになっちゃいそうだから。


あ、後、何かがある世界がいい。


何もないと、退屈だから。


現実では出来ないことや、禁止されていることを平気で行えたらいいね。


現実だと、誰かが悲しむから。


笑って浮かんだり、殺人犯みたいな奴を殴ったりしてみたい。


嫌いなものを消していき、やりたいことで溢れさせていくと、楽しくなってきた。


そして、頭の中で世界をソウゾウしていくうちに、私もそこに入りたくなってきた。


現実を忘れて、自分の世界に行きたい。


瞼をゆっくりと閉じた。


殺人犯が両親を解体していく音が怖くて、涙が溜まった目を強く瞑ったことはあったが、それとは違う。


自分の世界に意識を誘うために、安らかに、目を瞑った。


どうか、現実にはもう戻りませんように……。





ふっと目を覚ますと、白色のタイルが上にあった。


角が丸い四角形のレールから白いカーテンが垂れ下がり、私の周りを囲んでいる。  


なんだか嫌な事を思い出して、とても疲れてしまった。  


気休め程度に深呼吸しようと大きく息を吸うと、アルコール臭の独特の匂いが目と鼻を刺激して咳き込んだ。


生理的な涙が、目尻に溜まった。


あとなんで私の嫌いなカーテンがあるんだ。


こんなにハッキリと嫌いなものが出るなんて、最近の私の世界どうかしている。


不満が胸の中に募っていって、苛々する。


すると、白いモヤが私の顔を覗き込んで来た。


おどおどした自信なさげな態度からして、マッシロだろう。


その態度にさらに苛ついて、叫んで威嚇したら、あっという間に怖気づいた。


その隙に疲れた体を叩き起こすようにベットから勢いよく離れ、カーテンの外側に出た。


白いコンクリートの壁が四方を取り囲み、一つには引き戸があった。


なんだ、ここ。


私は戸惑った。


嫌いなものから逃げたのに、また嫌いなものと出会ってしまった。


すると、引き戸が横にスライドして開いた。


……マッサラとマッハクが、立っていた。


私は後ずさったが、意味なかった。


いとも簡単に下に押さえつけられ、ツルツルした白い平面と鼻先がぶつかる。


鈍い痛みが走り、思わず叫び声を上げた。


身体を捩って逃げようとするが、当然不可能だ。


まだこの状況を飲み込めてないのに、押さえつけるなんて失礼な奴らだ。


私はもがきにもがいた。その時、



「+2€3+:÷6:1€5〆!」

「÷3+〆4・26〆!」



マッサラとマッハクが、話し始めた。


その瞬間、私は直感した。


身を守ってきた全てのものが、崩れ去る、と。


こいつらは今まで話したことがなかった。


声すらも出さなかった奴らが今こうして何か叫んでいる……。


ここは私の作った世界じゃない……。


私が作った世界ではこいつらは話さない。


思えば、最近の世界は本当に私の世界だったのだろうか……?


白色はあったし、赤色もあった。


ドア以外何にもない世界もあった。


全部、私の嫌いなものだ。


嫌いなものは、徹底的に排除したはずなのに……。




「&_4→2・÷69y.・26ゃん、だぃ○¥3÷だかd/,」&@」

「かれ○255→ん2+44・4÷55p。だa;¥@@&」




 やめろ! これ以上聞いていたら頭が変になる! 


そう叫んでもこいつらは話すことをやめてくれない。


耐えろ、耐えるんだ。


これが終われば、自分の世界に行けるんだ。


私は頭だけを必死に動かし、ベッドへと目を向けた。

 

……ベッドは、白色だった。


一抹の希望が完全に崩れ去った。


私の世界が現実に侵食されたということを突きつけられて、もう冷静ではいられない。


私は泣き叫んだ。


「かれん○8÷+・36ちゃん、a6389¥;どj-&したー?」


「:¥&?だいg1d;!丈夫だよー。大丈夫だからね〜」


「大丈夫じゃない! マッサラとマッハクはどっか行けよ!」


 拘束された力が、フッと緩んだ。


私は何が何だか訳が分からなくなりながら、とにかく走った。


逃げたい。


幸せに、なりたい。


私は引き戸から飛び出した。


すると、白いモヤが私の肩を掴み、引き寄せられ、足が止まる。


小さな鋭い痛みが、肩に走った。


視界の端に、ビャクが二つの穴を三日月のような弧を描いて、笑っていた。





「白夜(びゃくや)院長、ありがとうございます」


 看護服を着た屈強な大柄な男が、そう言って頭を下げた。


白夜院長と呼ばれた白衣を着た初老の男は、薬が空になった注射器を片手に持ちながら、慈愛に満ち溢れた笑顔を向けた。


「浅(あさ)良(ら)くんも、抑えてくれてありがとうございます。……カレンちゃんをベッドに運ぶの、お願いできますか」


「ええ、もちろん」


 浅良は病院の床に転がっているカレンを、軽々と持ち上げ、個室のベッドへと足を運んだ。


白夜は注射器をケースに入れ、胸ポケットにしまう。


そして、浅良の隣にいた、丸みを帯びた身体の上から白衣を着こんだ女性に、先程の笑顔を向けた。


「博(はく)利(り)先生も、ありがとうございます」


「白夜院長ナイスです。さすが院内一の注射捌き」


 博利は笑顔でサムズアップし、白夜は呆れたように肩を落とした。


「その名前はちょっと……。それに、僕より白田(しろた)さんの方を褒めてあげて下さい」


 白夜はベッドの傍に目を向けた。


そこには、看護服に身を包んだ女性が、ナースコールのボタンを握り締めながらへたりこんでいた。


「そうだった。シロちゃんがナースコール押してくれたから、めちゃくちゃ早く来れたんだった、ありがとう」


「いえ、そんな……」


 顔面蒼白な白田を、博利は慰めるように抱きしめた。


「僕としても嬉しいですよ、後輩が成長してくれて」


浅良はカレンをベッドに戻しながら、白田に向かって微笑んだ。


二人に励ましの言葉を受けた白田は、やっと笑顔を見せた。


「本当に、良かったです……。前はただ丸まって終わりでしたけど、今日は皆さんのお役に立てて、良かったです……」


「健気で一生懸命ね。男だったら、嫁にもらってたわ」


「博利さん……」


「どうしたの? 浅良くん。あ、もしかして、羨ましいのかしら?」


「そ、そんなことないです!」


浅良は躍起になって博利に声を荒げた。


だが、博利は何のダメージもないのか、嫌らしい笑みを浮かべている。


浅良は顔を真っ赤にしていると、白夜が軽く咳払いをした。


「仲良きことは何とかといいますが、他の方の回診を始めた方が良いんじゃないですかね? 今日の分、まだでしょう」


「あ、は、はい!」


「ふふ、すみません」


浅良は慌てて頭を下げ、博利は冷静に返す。二人はそのまま、個室から出て行った。


個室には、白夜と白田の二人だけが残った。賑やかだった病室が、一気に凪のような静けさが訪れた。


白田はおもむろにカレンの傍に立つと、暴れて乱れた病衣を直した。


「早く治るといいですね、カレンちゃん」


白田は、ふいに呟いた。


「大丈夫ですよ。新薬の認可が国からおりましたから」


「確か、白夜院長が主導となって、開発を進めていたんですよね」


「ええ。外界からの耐えきれないトラウマから自己を守るために、幻覚の中で生きる病のね。そのせいで暴れ回った際、副作用の強い鎮痛剤を使わなくても患者を落ち着かせる、かつ治せる薬だよ」


「すごいです、白夜院長。これで、カレンちゃんは救われますね」


「ええ……ですが」


 白夜は表情を曇らせた。


「この子は病気が治っても、世間を騒がせたあの忌まわしい事件の記憶は消えません。さらにご両親が他界しているのに、犯人はあの事件後に重い精神病を患いながらも、同じ病棟でのうのうと生きている」


白夜はカレンの傍に歩み寄った。白田は白夜の後ろ姿を、不思議そうに見つめる。


白夜はカレンの頬にそっと触れた。


瞼の下に黒い隈ができ、乾燥してひび割れた肌からは、若々しい十七歳の少女の姿とは言い難い。


「この子は自分を守る為に、幻覚の中で生きていた。僕らの事を妙な名前で呼んでいたことも、病院の個室で鍵をかけたのも、他の患者さんに怪我を負わせたのも、決してわざとじゃない……もちろん、君に手をあげたこともね」


「存じ上げております」


 白田は深く頷いた。白夜はその言葉を背中で受け、しばらく黙った後、また口を開いた。


「君は、この子の悪魔になれるかい?」


「悪魔……ですか……?」


白田は白夜の発言にきょとんとしたが、白夜はさらに続ける。


「幸せな世界から、冷たい現実の世界に向き合わせるからね。患者にとっては、幸せを奪う立場にいる。現に、あの子の世界では僕たちは敵として認識されているようだ……。それでも、あの子を救ける覚悟はある?」


「……もちろんです。患者さんを救う為に看護師になったんですから」


 白田は、迷いなく真剣に答えた。


白夜は白田の答えを噛み締めるように何度か頷くと、笑いながら振り返った。


「強くなったね。それでこそ、辺境の地にある精神病棟の看護師で、この子の担当看護だよ」


「まだ新米が付きますけどね」


白田は苦笑した。


白夜はそんな彼女に微笑み、小さく呟いた。


「大変になるかもしれないけれど、君ならできるよ」


 白田はその呟きに気づくことはなく、カレンを優しい眼差しで見つめていた。


白夜はその姿にまた微笑みを向けると、白田に声を掛けた。


「さて、僕たちも回診に行きましょうか」


「はい」


のっそりとした足取りで引き戸へと向かった。


白田はその後ろを一歩下がって白夜の後についていった。




カレンは、病院の個室でただ一人、深く眠りについている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆたかなせかい @anything

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ