二話【味のしない寿司】

 夕食は出前の寿司だった。ウニにイクラに中トロ――これほど豪勢な寿司を食べるなんて久しぶりのことだった。そのうえケーキまで買ってきてあるんだから、兄さんが帰ってきて、父さんと母さんがいかに喜んでいるかうかがい知れる。

 俺はマグロの赤身の寿司を口に入れながら三人の顔を盗み見ていた。父さんと母さんは絶えず笑顔で「大学生活はどうだ?」「友達はできたか?」「勉強は問題ないか?」とひっきりなしに質問を投げかける。それに対し、兄さんは二人の欲求を満たすように事細かに東京生活を語り続けている。

 口を挟む気分にもなれず、黙々と安めの寿司を頬張っていた。


「それで、お前はどうなんだ?」

「――えっ?」


 兄さんから自分への問いかけだと気付かず、咀嚼していたイカを慌てて飲み込む。


「どうって?」

「高校生活は順調かって訊いてるんだ。東京に行ってから父さんや母さんと電話で話すことはあっても、お前とは口を利いてなかったからな」

「それは……何年も離れて暮らしてたってわけじゃないし、兄さんなら東大だろうがどこだろうが上手くやってるだろうって思ってたからさ」

「そうか。まあ、お前が言うとおり何も困っていないが。それで、結局どうなんだ?」

「別に。俺も高校生活を楽しんでるよ」

「本当か? 母さんから聞いたけれど、川に飛び込んで入学式に出られなかったらしいじゃないか」


 母さんを睨みつけるが、どこ吹く風とポリポリとガリを噛んでいる。


「翔。お前が入学式をすっぽかすのは勝手かもしれないが、それで親に恥をかかせるのはどうなんだ? 母さんだって楽しみにしてたはずだぞ」


 そんなこと、俺だって言われなくてもわかってる。

 でも、そもそもの原因は兄さんじゃないか。兄さんが優秀過ぎるせいで、俺は兄さんから逃げるために〈善活〉を始めることになったし、そのせいで溺れる猫を助けに行ったんだ。

 三人の視線が痛い。中でも兄さんは正論のナイフで俺を遠慮なく突き刺してくる。反論することもできず、俺は甘んじてその刃を受け続けるしかなかった。


「それに、最近はよくゲーセンにも通っているらしいじゃないか。勉強も忙しいだろうに、ゲームなんて無駄なことをしている時間はないだろう? そもそも高校一年生が行く場所としては不適切だし、お金もかかるじゃないか。それにああいう場所には良くない輩も集まってくるし――」

「うるさいっ!」


 叫びながらテーブルを叩き、勢い良く立ち上がった拍子に椅子が倒れて激しい音を立てた。


「翔?」

「翔! 進になんてことを言うんだ!」

「全部俺が悪いっていうのかよ!」


 親の言葉に怒りで返し、俺は駆けるように自分の部屋へ逃げ込んだ。



 三十分ほど経っただろうか。

 気を紛らわそうと音楽を聴いたり、宿題を片付けたりする気力も湧かず、ベッドに寝そべって漫画を読んでいた。何度も繰り返し読んだ漫画だが全く頭に入ってこない。少し眠ろうかと目を閉じると、先ほどのやり取りが思い出されて眠気なんてやってこなかった。

 ベッドの上で仰向けになると、空色に塗った天井が目に入る。小学四年生の頃、この部屋が自分の部屋になったときに「自分の部屋が兄さんの部屋より狭いから広く見せたい」という理由で塗ったんだっけ。

 思えば、あの頃から親は俺のことなんて二の次で、いつも兄さんを優先してかわいがっていた。俺がもっと馬鹿ならそんなこと気に留めなかっただろうし、頭が良ければ〈善活〉なんてせずにもっと建設的なストレスのはけ口を見つけ出していたかもしれない。

 人としてある種振り切っている兄さんには、中途半端な俺の生き方なんて理解できないだろうし、しようとも思わないだろう。俺たち兄弟は愛知と東京で別れて暮らすずっと前から、今後交わらないであろう別々の道を歩んでいたんだ。

 コンコン。

 鬱屈した気分で天井を眺めていると、扉を叩く音が聞こえた。父さんや母さんのノック音とは違うから、部屋の前に誰がいるかは明白だった。


「翔、起きてるか?」


 やっぱり兄さんだ。「起きてるよ」とぶっきらぼうに返事する。


「父さんと母さんが呼んでいるぞ。下りてこないか?」


 行きたくない。二人は怒っていて「進が帰ってきた日に、あの態度はどういうことだ」と俺を叱りつけるだけだろう。そういう人たちだ。

 俺がそのことを告げると、兄さんは「わがままな奴だな」と前置きして、再び言葉のナイフを繰り出した。


「わかった。父さんと母さんには僕から説明しておく。だけどな、翔。お前ももう高校生なんだから、少しは空気を読めるようになるべきだ。お前が席を立って水を差せば、二人が怒ることくらいわかるだろ?」


 それくらいわかる。じゃあ、おとなしく寿司を食いながら自分の未熟さをあげつらわれるのが正解だったのか? 平凡な子供は、自分を産んだ両親と優秀な兄には従順じゃなければいけないのか? 俺には逆らう権利はなくて、せめて家族を失望させないように振る舞う義務しかないのか?


「まだ一か月とはいえ、お前は高校生になっても変わっていないんだな。せめて僕が家にいる間はこれ以上家の中の空気を悪くしないでくれよ」


 その言葉で堰が切れた。兄さんにだって責任があるのに、どうしてこうも一方的な悪者扱いをされなければいけないんだ。

 バンッ!

 家全体を揺らす勢いで扉を開け放ち、眼鏡の奥で目を見張っている兄さんに顔を近づけた。


「兄さん。さっき、俺がゲーセン行ってること随分馬鹿にしてたよな」

「馬鹿にしたつもりはない。ただ、高校一年生の遊び場としては不適切で、今はそんなことよりも勉強を優先すべきだと言っただけだ」


 それが馬鹿にしているのだと、どうして気付いてくれないのか。


「じゃあさ、兄さん。ゲームで勝負しようよ」

「勝負?」

「ゲームがくだらないって言うなら、証明してくれよ。馬鹿みたいに遊んでた俺が、東大で一生懸命勉強していた兄さんにゲームで負けたら、くだらない遊びだったと認めるよ。でも兄さんが負けたら、俺の趣味にまで口を挟むのはやめてくれないかな。『証明』とか、兄さんの得意分野だろ?」


 こんなのはただのこじつけだ。ゲームの存在意義と、対戦の勝敗なんて本来無関係だ。それに、ゲームで遊んだことがほとんどない兄さんにとってあまりにも不利な条件になっている。

 だけど兄さんは――おそらく俺の苦しい言い分を察してのことだろうが――その提案に乗ってくれた。


「わかった。それでお前の気が済むなら」


 兄さんは俺の提案に賛同すると、すぐに踵を返して一階に戻っていった。

 俺の望む展開になったにもかかわらず、胸のおりは一片も消えはしなかった。

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