四話【ハンバーガーがマズくなるから】
翌朝を迎えた。入学式はまだワクワク感もあったが、今日からさっそく本格的な授業が始まるかと思うとやはり億劫だ。
セットしていた携帯電話のアラームを黙らせると、重い足取りで一階のダイニングに向かう。朝の光景は昨日と同じだが、昨日の今日なので気まずい。
「……おはよう」
「おはよう」
「ああ、おはよう」
声に刺々しさはないが、今頃父さんと母さんは「やはり翔には期待できないな」とでも思っているんだろうか。
やっぱり善活なんてこれを機にやめてしまおう。もう少し他人に冷たく、自分に優しく生きていこう。そう思いながらぬるくなったコーヒーに口をつけた。
昨日と同じルートで堤防の上をのんびり走っていると、シャアッと後ろから猛スピードで追いかけてくる音が聞こえた。予想通り、その正体は璃恩だった。
「おはよう、翔ちゃん!」
「おはよう、璃恩。さっそく今日から自転車通学か」
「そりゃあね。ママの負担にはなりたくないから」
二人並んで春の柔らかな日差しを浴びながらペダルを踏んでいると気分も晴れてきた。堤防の上は車がほとんど走らないサイクリングロードなので、俺たちのような学生はもちろん、朝のジョギングに汗を流す人や、ゆったりと犬との散歩を楽しんでいる老人の姿も多い。朝のニュースには
だというのに――
「翔ちゃん。目が泳いでるよ」
「えっ?」
俺の目は昨日と同じように、無意識に助けを求める姿を探していた。
「また
「……ああ。やっぱり癖になっちゃってるな」
ばつが悪くなって頭を掻きむしる。
そんな俺に、璃恩は緩いウェーブのかかった黒髪を風に揺らしながら、朝の陽ざしに負けない笑顔で優しく語りかけた。
「恥ずかしいことじゃないよ。翔ちゃんが優しいのは、僕が誰よりも知ってる。きっかけはお兄さんへのコンプレックスかもしれないけれど、その優しさを育んできたのは翔ちゃん自身だ。
翔ちゃんの広い視野は、そんな優しさの表れだよ。実際僕は小学生の頃、そんな翔ちゃんに助けられたんだから。それでいつか、自分自身も助けてあげればいいんだ。大事なのは助けないことじゃなくて、自分も含めたみんなを助けることじゃないかな」
言い終えると、璃恩は白い歯を見せて笑った。
「璃恩」
「ん?」
「すごくカッコいいこと言ってるけど、難易度高いって」
「あ、やっぱり?」
俺たちは顔を見合わせながら笑い合った。自転車が蛇行して危うくぶつかりそうになる。
幸い、今日は猫も何も溺れていなかった。
高校生になって最初の授業は思っていたより楽なものだった。というのも最初の授業は各科目の教師の自己紹介であったり、今後の授業の説明が半分ほどで、実際に教科書を開いた時間は半分ほどしかなかったからだ。少々物足りなく感じたが、来週からはきっと「勉強したくない……」なんて毒づいている自分の姿が想像できる。現金なものだ。
六時限目の授業と帰りのホームルームを終え、時刻は午後四時。残念ながらまだ新しい友達はできていないので璃恩と一緒に帰ろうと思ったが、彼の姿はとっくに教室から消えていた。
「そういえば、高校生になったらアルバイトを始めるって言ってたな」
「仕方ない。駅前でハンバーガーでも食べて帰るか」
久々の授業で随分お腹が空いてしまった。それに小遣いの少ない璃恩と一緒にファストフード店に入るのは気が引ける。
よし行くかとかばんを背負って振り返ると、肩が誰かにぶつかった。
「きゃっ!」
「あぶないっ!」
艶のある黒のロングヘアがふわりと舞う。後ろに倒れそうになる女子の背中に手を回して支える。もう少し遅かったら机に後頭部をぶつけていたかもしれない。
「ごめん、大丈夫?」
「あっ……だい……じょうぶ」
聞こえないぐらいの小さな声で返事すると、眼鏡の下の頬をリンゴのように赤く染めていく。
それを見て慌てて手を離すと、彼女はかばんをつかんで脱兎のごとく逃げ出してしまった。呆気にとられ、しばらくそのまま彼女を見送っていた。
「たしか、隣の席の
まあ、人のことは言えないか。濡れ男だし。
学校から駅に向かう生徒たちを横目に、昨日の道をなぞるように自転車を走らせる。頭の中には昨夜CMで見た新発売の味噌エビカツバーガーが浮かんでいた。うまいかどうかは分からないけれど、一度は食べておきたいと思わせる絶妙な新商品だ。期間限定ハンバーガーを見逃すのは俺の矜持に反する。
そんなことを考えながら走っていると、いつの間にか昨日とは違う道を選んでしまったことに気付いた。しまった、やはり一度走っただけでは道を覚えられないな。
それが思わぬ事態を招いた。
「ん?」
ライスボックスの前を通り過ぎる時、良からぬ光景が見えた気がした。体の大きな男が子供に詰め寄っている姿だ。
「助けないと!」そう思ったのは一瞬で、俺はそのまま自転車を走らせていた。
「またなんの得にもならない人助けをするのか?」「相手は強そうだ。無理して助けに行ったところで怪我をするだけだぞ」冷静で冷酷な自分の声が聞こえる。
そうだよな。いくら俺が他人に尽くしたところで、兄さんが見ているわけじゃないし、損することばかりじゃないか。俺ももう高校生なんだから、こんな子供じみた正義のヒーローごっこは辞めるべきだ。
すぐに目的のファストフード店に着いた。入り口のすぐ右側が駐輪場になっているので、そこに自転車を停める。ガラス張りの店構えは解放感があり、外向きに設置されたカウンターには同年代の若者や家族が座り、美味しそうにハンバーガーやポテトを頬張っている。
しかしその中に一人、真正面に座る男はゴムでも噛んでいるかのようにまずそうな顔で顎を動かしていた。
「あ……」
それは俺だった。あんなに楽しみにしていた味噌エビカツバーガーを伏し目がちに咀嚼している。
いや、そんなはずはない。俺はここにいるんだから。目をこすると、目の前には不審者を見るような少年の姿があるだけだった。
「…………ああ、もう! 分かったよ!」
このままじゃ満足に間食もできやしない。
自転車のスタンドを蹴り上げると、ペダルを踏みつけてライスボックスに戻った。
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