第一章【空色の始まり】
一話【今日の空の色は】
十人十色という言葉がある。「人の性質は人それぞれ」という感じの意味だったか。人間性を色で表すというのは、なかなかロマンチックに思う。
じゃあ、俺の人間性――ひいては人生を色で表したら何色になるだろう?
答えはきっと『鉛色』だと思う。思春期を迎えたあたりから、俺の心には徐々に薄い雲が広がり、今では落ちてきそうなほどの鉛色の雲が頭上を覆い尽くしているのだから――なんて、入学式の朝に考えるのはさすがに根暗過ぎるだろうか。
自嘲気味に笑いながら部屋のカーテンを開けると、空の半分が雲に覆われている。これからすっきり晴れるだろうか、どんより曇るだろうか、このままだろうか。こんな小さな窓からじゃわからない。
二〇三〇年四月八日月曜日。今日、俺は県立の
とはいえ、心が浮き立っているのを実感する。二階の自室から一階に下りる足取りも、なんだかふわふわして危なっかしい。
ダイニングには食器を洗う母さんと、ちょうど朝食を終えた父さんの姿があった。
「おはよう」冷蔵庫から牛乳を取り出しながら挨拶する。
「あら、おはよう」母さんが笑顔を向ける。「今日は早いのね」
「そりゃあ、今日は寝坊なんてできないから。本当はもっと早く起きてたんだけど」
「緊張?」
「そんなところ」
牛乳を一杯飲み干し、食パンを一枚トースターに入れたところで、タイミングを見計らっていたかのように今度は父さんが話しかけてきた。
「
「身長だけなら父さんより大きいけどね」
「そうか? まだ同じぐらいだろう」
そう言って、自分と俺の頭に手をかざす姿は我が父ながら微笑ましく見えた。
「じゃあ、父さんは仕事に行ってくるから、お前の晴れ姿を母さんにしっかり見せてやれよ。しっかり勉強して
「……うん。わかってるよ」
「それじゃ母さん、あとは頼んだぞ」
「はいはい」
父さんは家を出て、食器を洗い終えた母さんは身だしなみを整えに洗面所に向かう。そんな二人の姿を見送りながら、俺は無表情でトーストをかじっていた。
「兄さんのように立派になれ――か」
テレビのリモコンを手に取り、適当にザッピングして音量を上げた。ちょうど朝の情報番組では、変な名前の占い師が監修する占いを放送していた。
父さんも、母さんも、この占い師も、俺の心の内なんて知らないんだろうな。それを悲観しない程度には、もう慣れてしまった。
さっさと歯磨きやら洗顔やらトイレやらを済ませ、新しい制服に袖を通す。中学までは重苦しい学ランだったから、軽やかなブレザーを身に纏うだけでテンションが上がってしまう。ただネクタイを締める練習をしておくべきだったなと若干後悔する。
自室の姿見で、晴れて高校生になった自分の姿を確認する。ネクタイの結び目が歪んでいるのを見逃せば、濃紺のブレザーに控えめなチェック模様のスラックスが眩しく見える。高校デビューと言われると恥ずかしいが、三日前に美容院で整えてもらい、ついでに控えめの茶色に染めた髪も惚れ惚れするほど決まっている。眉毛も鼻毛も処理済みだし、春休み中は毎日たっぷり八時間も寝たので肌の調子もいい感じだ。
「やっぱり第一印象って大事だし。女友達の一人ぐらい今日のうちにできたらいいんだけどな」
そんなことをぶつぶつ呟きながら指先で毛束をいじっていると、時計の針は八時を指していた。式が始まるのは九時からだが、通学やホームルームの時間を考えるともう家を出るべきだ。
「母さん、先に行ってるよ」
「はーい」
母さんは後から車で学校に向かうので、俺は先に自転車で家を出る。
自転車通学になるからと新調したママチャリは軽快に前へと進む。しばらく平坦な道を走り、急勾配の坂を立ち漕ぎで登りきると、開放的な景色が広がる堤防の上に出る。ふわりと春の香りを運んでくる風に吹かれながらペダルを漕いでいると、まるで青春ドラマの主人公になった錯覚を味わえる。
空を仰げば、目覚めた時より晴れ間が広がっている。軽やかな気持ちに明るい高校生活の未来を思い描かずにはいられない。ペダルを踏む足には自然に力が入り、ビュウビュウと風を切る音が心地いい。
――ァ――ャァ――
風切り音に混じって赤ちゃんの泣き声のような音が聞こえてくることに気付いた。
音の方向、つまり川に視線を向けると、茶色く濁った水に揉まれるように一匹の猫が溺れていた。昨日の雨で勢いを増している川の流れは、猫の必死の抵抗をあざ笑うように荒れている。まだ小さい猫の未来は明らかだった。
「なんでこのタイミングで川に入っちゃったんだか」
運が悪い。この場を通り過ぎたのが、入学式当日で全身ばっちり決めた高校生じゃなければ良かったのに。そう思いながら、俺はペダルを踏んだ。
彩華高校に到着し、駐輪場に自転車を停めて昇降口に向かう。クラス分けの表が張り出されているので自分の名前を探す。苗字が
「1年A組の教室は……北棟の三階の端か。地味に遠いな」
上履き等は後でまとめて購入するので、来客用のスリッパに履き替えて三階に上がる。足取りは重いが、かといって教室に入らないわけにもいかない。誰もいない廊下をペタペタ歩けば、それぞれの教室の中から担任らしき声が聞こえる。
そして『1年A組』のプレートが掲げられた教室の前に着いた。憂鬱な気分を押し殺しながら深呼吸を何度か繰り返し、意を決して扉を開けた。
「さて、それでは最初に自己紹介を――」
その瞬間、教室内の空気が凍り付いたのを感じ取った。
それも仕方ないだろう。入学式を放り出した生徒が、髪先やスラックスの裾から水を滴らせながら教室に入ってきたのだから。
川で溺れる猫を見つけた俺は河川敷まで自転車で突っ込み、ブレザーと靴を脱いで川に飛び込んだ。自身も川に流されそうになりながらも猫を捕まえ、抱きかかえながら向こう岸まで泳いだ。首輪が見えた時点で察していたが、猫には飼い主がいて、その飼い主が対岸で猫を探していたのだ。
飼い主は俺に感謝した。それ自体は気分が良かったものの、俺はもう一度川を渡ってシャツの水を絞り、ずぶ濡れになった体に脱いだブレザーを着直して自転車を走らせることになった。
寒さとビチャビチャの不快感、それに「入学式に間に合わない!」という焦りで体を震わせながら全速力で飛ばしたけれど、結果はご覧のとおり最悪……という有様だった。
本当に、俺はなんと運の悪い奴なんだ……。
俺は怪訝そうにしている担任の女教師に事情を説明し、教室の窓際の一番前の席――唯一の空席である俺の席に向かった。
ちょうど今から出席番号順に自己紹介が始まるということで、トップバッターである俺は教室の中央に体を向けた。珍獣を見るような視線に体を射抜かれながら、精いっぱいの笑顔を浮かべて声を張った。
「彩華中学出身の
自分の今の状況も笑いに利用する自己紹介を考え、胸を張って堂々と言い放った。その結果、返ってきたのは能面のような無表情から送られる「パチ……パチ……」というささやかな拍手だった。
第一印象は大事だ。それを決める自己紹介も。ただ、分かっていても上手くいくとは限らないと悟った。
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