8月35日

のと

8月35日


という一文字とともにスカイツリーの写真が並ぶ。絡んだことはないSNSのフォロワーの呟きだった。偶然浅草にいた僕は、気がつくと東武スカイツリーラインに乗っていた。


顔も名前も年齢も知らないのに、すれ違ったところでわからないのに、その人に会ってどうしたいとかもないのに。僕は何をしているんだろう。耳にイヤホンを付けることもせずに脳内一方通行会議をしながら早歩きで日本一高いランドマークを目指す。緊張か運動不足か、情けなくも途中で息があがり、マスクをずらして深呼吸しては足を進める。


「あ」


夏休み明けの日曜日の昼下がり、人がややまばらな観光地の中に一人ですっとツリーを見上げている女性。肩のあたりで切りそろえられた黒髪のボブに紺色のワンピース。僕が今まで呟きを見てきたのはその人だと、直感で思った。


どうしよう、どうしよう。声を掛けたら不審者?全然違う人だったら通報されるかな。


僕の視線に気づいたのか、彼女がこちらを向いた。


「あの、もしかして、リンさん、ですか」


少し裏返った声が出た。


彼女は驚いた表情をして、

「そうです。もしかして、フォロワーさんですか」


僕はうなずき、今度は声が裏返らないよう意識した。

「あ、ヨダカです。あ、あの僕もたまたま近くにいて、リンさんのツイートすごい好きで、雰囲気がリンさんみたいな方がいるって思って、それで、あ、気持ち悪いですよねすみません」

21歳になって接客のバイトも2年している自分はまあまあ大人だと思っていたが、なんだこれ。好きな子に話しかける思春期の男子高校生か。なんでうまく話せないんだ。


「ヨダカさん」


リンさんは柔らかい声で、マスクをしていてもわかる優しい笑みを僕に向けた。

「いつもリアクションありがとうございます。よく短歌あげてる方ですよね」


認識されていたことのうれしさと恥ずかしさで、急に自分が危ない事をしている自覚がわきあがってきた。これってネットストーカーじゃない?


「ヨダカさん」


僕の狼狽を見透かしたように、リンさんは落ち着いた表情で名を呼ぶ。本名じゃないのに、この安心感はなんなのだろう。呟きの感じからなんとなく予想していたが、やはり年上な気がする。


「甘いものは平気ですか」

「好きです」

「今から、クリームソーダ、飲みに行きませんか」


「いいんですか」


彼女は黙ってうなずくと、スカイツリータウンを出て路地裏の方へ向かって歩き出した。


歩きながら、無音でも、喧騒でもない、つかず離れずの距離感で声をかけてくれる。


「ヨダカさんは、よだかの星からとったお名前ですか」


「えっと、昔のあだ名からつけてます。リンさんの名前の由来も、聞いていいですか」


「名字が鈴木なんです。そういえば、私、ヨダカさんのこと女性だと思ってました」


「僕がですか」


「はい。言葉がきれいだったから」


「…姉が2人いるので、その影響かもしれません」


いや、反面教師に近いのかもしれないけれど。


「お姉さんがいるんですね。私には妹がいます。たぶん、ヨダカさんと同じくらいかな」


何と返そうか考えていると、リンさんが立ち止まった。


「ここ、来た事ありますか」


年季の入った看板には、『純喫茶 禁煙室』と書かれている。


「初めてです」


「良かった。私のおすすめです。実はここ、もともと石川県の金沢っていう所にあったんですが、閉店の話を聞いたご夫婦が、東京でお店を引き継いだんです」


「へえ、そうなんですか、詳しいですね」


「昔、金沢に住んでいたんです」


不思議な人だった。知らなかった情報がどんどん出てくるのに、解像度はふわふわしたままで、でも、全部ひっくるめてリンさんという感じだった。


ドアを開けると心地よいクラシックのBGMが耳に響いた。リンさんはお店の夫婦と親しいらしく、軽く挨拶して自ら空いている席へ向かうと僕を手招きした。


彼女は僕の方にメニューのドリンク欄をを広げ、


「どうします?軽食もありますけど」


と尋ねた。独特の空間で他の選択肢を考える余裕のない僕は、小声で


「クリームソーダにします」


と言った。


リンさんはお冷を運んで来た女性に、「お久しぶりです。お友達が一緒なの、珍しいですね」と言われ、「人生の後輩です。クリームソーダ2つお願いします」と穏やかに返していた。


さらっとそんな会話ができる語彙や経験がある人を見たことがなかった僕は、自分がそんな人の向かいに座っていていいのだろうかという劣等感のような気まずさを感じずにはいられなかった。


「ごめんなさい。急に連れまわされてびっくりしますよね。コロナで、人と食事とかするの久しぶりで楽しくなっちゃって。好きなタイミングで帰って大丈夫ですよ」


そんな僕を見透かしたように空気を優しくしてくれるこの人は、どんな人生を歩んできたんだろう。


「むしろ、僕がごめんなさいです。突然話しかけたのに、すてきなお店連れて来ていただいて、嬉しいです。リンさんこそ、時間とか大丈夫ですか」


「大丈夫です。今日はこれしか予定なかったので」


カバンから取り出して僕に見せてくれたのは、『頑張らなくてもできちゃう!基本の料理50選』というレシピ本だった。


「料理されるんですか」


「しないです」


「え?」


「売りに行くんです」


深く聞いていいのだろうか、と思っていたらリンさんが続けて言った。


「頑張らなくてもできちゃうレシピすら、作れなくなっちゃって」


以前彼女が発していた言葉が頭をよぎった。おかしいのだろうか。うつ気味だった後輩を守るために矢面に立ち、ハラスメントに耐えながら戦って潰れてしまった彼女が、おかしいのだろうか。それでも堕落のレッテルは世間や理不尽に対してではなく、強くて優しい彼女に貼られるのだろうか。


「ヨダカさん、大丈夫ですか」


僕は何も言えずに泣いていた。うなずくことしかできなかった。


「あの、ごめんなさい。本当にすみません」


絞り出すように声を出すと、リンさんは静かに「十分です。伝わってます」と言った。


運ばれてきたクリームソーダのバニラアイスには、もともとかサービスか分からないが、サクランボの横にコアラのマーチがささっていた。


「かわいい」


僕が子供のように鼻をすすりながらつぶやくと、リンさんは「写真とりますか」と言って自分が写らないよう端に身体を寄せてくれた。


「やさしいヨダカさんに、サクランボをあげましょう」


写真を撮り終えると、彼女は自分のクリームソーダにのっていたサクランボを僕のグラスの方へのせようとした。


「あ…すみません。苦手なんですよね。サクランボ」


その言葉に手をピッと止めて、


「そういうのは先に言ってください」と笑うと、反対の手で僕のグラスのサクランボをとり、自分のクリームソーダのバニラアイスの上に2つ赤い実をのせた。


そんなやりとりが、空間が、とても愛おしくて、思わず


「またデートしてくれますか」


と声に出してしまった。


リンさんは僕の質問には答えず、


「こんな大人になったらダメですよ」


と悲しそうに笑った。

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8月35日 のと @wo_ai_chocolate

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