君と僕しかいない海の中で

のと

君と僕しかいない海の中で

令和5年7月23日(日)。


夏と公園の組み合わせはこんなにも絵になるものだっただろうかと、視界に切り取られた景色をみて思った。いますぐ数百メートル手前のコンビニに駆け込みたいと思うくらい暑いのだが、白い雲が映える青い空の下、凛とした姿勢で僕を待っていた彼女の姿は、そこでずっと見ていたいと感じるほどに美しかった。



「ジンさん、ですか?」



彼女の言葉で我に返り、アブラゼミの鳴き声が鮮明に鼓膜に響く。



「ミナトさん、ですか。はじめまして。ジンです。暑い中お待たせしてすみません。いや、本当に暑いですね。さっそくお店行きましょうか」



相手の歩く調子を伺いながら、お互い無言のまま公園近くの喫茶店に入る。僕たちの表情とは正反対のにこやかな店員に角のテーブル席まで案内され、二人ともアイスコーヒーを注文した。



「こういうこと、よくされるんですか」


店員がテーブルを離れると、目を合わせようか合わせまいか迷っているように視線を動かして、ミナトさんは言った。


「え?」


「ネットで知り合った人と、実際に会うの」


「あー、そうですね、僕は何度かあります。初めてですか」


彼女は声を発さずに頷いた。




僕とミナトさんはSNSで1年半ちかくフォローし合っている関係だった。




2年ほど前に、同じ趣味の人と何かしら交流できればいいな、という気持ちで、周りの友人には言わずにジンという名前でSNSを始めた。もともとはあるアーティストのことだけを呟いていたが、徐々に仕事の愚痴や将来への不安を吐露するようになり、さらにポエムになりそこなったような言葉たちが加わって、もはや何のアカウントかわからなくなりつつあった頃に彼女からフォローされた。ミナトさんは、嘘か本当か定かではないが、睡眠時間が3時間程度らしく、深夜もSNSのタイムラインにいた。



不眠症の僕が午前三時頃にネットの海へ呟きを吐くと、彼女はいつも反応してくれた。


彼女の呟いた言葉もまた、共感という意味合いでしばしば僕の胸に響いた。



ときに交互に、ときに一方的に、静寂へ放たれる心の声。



深夜のタイムラインはいつも、君と僕しかいない海の中のようだった。


他人も自分も救えない正義感を小さく振りかざし続けながら、誰の一番にもなれない現実からの逃避行を叫び続けながら、息も絶え絶え生きている。たぶん僕らは、似た者同士だったのだろう。




「そうだ、忘れそうなので、もう渡しておきますね」



ミナトさんは封筒を僕の前に置いた。


中身は見なくてもわかる。入っているのは、彼女のSNSアカウントのIDとパスワードが書かれた紙。彼女は、この世からいなくなったことを自分のアカウントで伝えてほしいと、IDとパスワードを僕に託しに来たのだ。



「花を」



「はい?」



「好きな花を教えてください。その花を携えてお墓参りに行きます」



僕に言えることは、それで精一杯だった。


嫌われるかもしれないリスクを負いながら会いませんかと誘ったことも、自殺を肯定するように捉えられかねないこの言葉も、すべて、生きていてほしいという懇願に等しかった。



「うん。…ヒマワリ。ヒマワリが、好きです」



君が笑った。



そのきれいな笑顔に誘引されるように、僕の涙腺がゆるむ。


慌ててスマホを見るふりをして下を向いた。



「いいですね、ヒマワリ。僕も好きです。あ、もうこんな時間ですね。カラオケ行きましょうか」


「はい!」




喫茶店からカラオケ店に移動し、指示された番号の部屋に入る。


最初よりも緊張がほぐれたのか、ミナトさんの表情が少し明るくなった気がする。

慣れた手つきで端末を操作する彼女の横顔を見ながら、きっと傍から見たら平穏で平凡なデートに見えるのだろうと思った。生前の引き継ぎのために会っているなんて誰も思わない。その温度差に自分を保てなくなりそうだった。奈落の底へ堕ちていく思考回路を振り払うように、彼女に話を振る。



「これ、前ミナトさんが歌詞呟いてた歌ですよね」



「そうそう、そうです。よく覚えてますね」



「確か、アニメのエンディングの…あ、そういえば、今日あれ持ってきました。この間言ってた曲、聴いてほしくて」



カバンからポータブルオーディオプレーヤーを取り出すと、イヤホンがくちゃくちゃになったまま出てきた。恥ずかしくてやや乱暴にイヤホンのひもを戻そうとすると、彼女がそっと僕の手からプレーヤーを引き取った。




もし絡まったイヤホンを何も言わずにほどいてくれる人が隣にいることを幸せだと形容できるなら、僕はそのとき確かにこの地球上で誰よりも幸せだったといえると思う。社会で遍く認識されているような理想的人生の中を生きていなかったとしても。




抱いている気持ちが恋愛感情であるかは、正直自分でもわからなかった。やりとりをしていて楽しかったし、実際に会ってみて居心地が良いと感じる。好きであることに異論はないが、恋人になりたいかと聞かれれば少し違うような気もする。ただ、ミナトさんには生きていてほしい、できる限り、笑顔で。彼女を追い詰める存在があるとすれば、僕は自分の未来と引き換えに復讐するだろう。世間ではこういう気持ちを愛と呼ぶのだろうか。



僕は差し出されたイヤホンを受け取らずにそのまま彼女の手を握りしめた。



「逝かないでください」



気がついていたら泣いていた。


君がいなくなったら、僕はあの海を、ひとりで漂うことになる。それはきっと、君に出会う前以上に、ただひたすら虚無の世界に近いだろう。



「ジンさん、泣かないで」



彼女はゆっくりと僕の手をほどくと、カバンから名前ペンを取り出した。黙って僕の左手のひらに、にこちゃんマークを描き、そこにキスをした。



「おまじない。あなたが、今日の終わりに、明日の始まりに、悲しくならずに済むように」



彼女は笑いながら泣いていた。


やっぱり生きることにします、とは結局最後まで言わなかった。その日を境に、ミナトさんのSNSは更新されなくなった。




あれから、まだ、彼女のアカウントにはログインできていない。


自殺せずに夏を乗り越えた君が今もどこかで生きているかもしれないと、ずっと想っている僕は、よわい人間でしょうか。


呪いでも救いでもあるというものは往々にして存在していて、僕が信じ続ける限り君は生きているという事象もまた、僕自身が生み出した自傷的な自己防衛といえるだろう。






毎年この季節になると思い出す。最初で最後に見た彼女の笑顔と、あの夏の日に置いてきた幸せを。

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