第六話 町田改革(1)国土開発

 町田内閣は、衆議院議員である町田忠治まちだちゅうじが首相であるものの、他の国務大臣には官僚出身者や元軍人などを任命することが多く、数少ない政党出身者も能力主義的に選ばれていた。


 その為、大正・昭和期の政党政治の問題点である過度な政争や汚職とは無縁と言っていいほど健全であり、満州・朝鮮特需に伴う経済成長と世論に後押しされる形で政府主導の国内改革が実行された。


 1934年4月11日、国内改革の第一歩としてが発表された。 満州事変以降続く好景気を拡大・継続させ、大日本帝国をさらに発展させる為という理由に基づき、大きく3つの目標が掲げられた。


 その目標というのは、の3つである。


 まず、東京一極集中脱却という目標は文字通りのものであり、目標達成のために東京府・大阪府当時などの大都市及びその周辺に経済や産業が集中している現状を打開し、大日本帝国が全土等しく経済成長することが必要であった。

 

 この目標達成のためには、以下の政策が行われた。


 1934年6月、日本政府は二輪自転車・バイク四輪車自動車など開発に対する支援と、軍民協力による、北海道・本州・四国・九州におけるを発表した。


 7月には、が制定され採算を度外視した、国家主導の国土開発が可能となった。


 また10月からは、高速道路の建設を推し進めていたアメリカ・ドイツの二カ国に技術使節団を派遣し、本土での高速道路建設を目指して研究が開始された。


 12月には、が発足し東京・大阪間を接続する国道の整備が開始され、地方自治体や予算の都合に混乱しながらも、各地域で自動車用舗装道路の建設が推し進められて行った。


 1935年4月になると、陸海軍用の軍用飛行場と海軍造船所の新規建設が開始され、北海道や東北などの比較的軍事施設の整備が遅れていた地域を中心に大規模な開発が始まった。


 また、民間飛行場の整備・拡張も国営企業である日本航空の元で国家事業として行われることになり、羽田飛行場は将来的な国際空港化を目標に滑走路の増設・拡張が行われることになり、首都圏第二・第三飛行場として調布、東京飛行場の建設が開始された。


 5月になると、が制定されたことで地方分権が行われ、各地域の状況に合わせた適切な国土開発が始まった。また、東京・大阪を「都」として関東州・近畿州から独立させたことで地方との格差解消の第一歩にもつながっていた。


 6月からは、政府機関の移転先と副首都の選出の為、地方自治体に対し受け入れの募集が行われた。


 1936年10月になると、が制定された。


 まず、国家機関分散設置法によって、山形県米沢市・長野県松代市・広島県三次市が副首都と指定された。


 また、多くの省庁が分散移転することとなり、司法省・鉄道省後の交通運輸省・内務省が松代市、拓務省後の国土開発省農林省後の農林水産省が宮城県仙台市、文部省・逓信省が京都府京都市、保安省旧内務省警保局が神奈川県鎌倉市、国防省が岡山県岡山市、厚労省が米沢市、商工省が大阪都大阪市に移転した。


 これに伴い、東京都再開発計画と省庁移転先の大規模開発が行われ、各省庁を結ぶ高速交通網整備の促進にも繋がった。


 そして、国土交通開発推進法によって都市間を接続する交通網の整備が進められることとなった。


 国鉄は、戦時下でも物資運搬を迅速に行う為の内陸部を中心とした貨物路線の展開と津波対策と一体化した沿岸部での旅客路線の展開に加え、段階的な軌間のを行うこととなった。


 特に、軌間の標準軌への改軌は鉄道省や政府内でも大論争を巻き起こし、新たに標準軌路線を引けばいいとの意見も大きかったが、内閣は大規模な公共事業となることでかなりの雇用を生み出すことができるとして全線改軌へと踏み切った。


 その一方で、東方イスラエル国や満州王国との同盟関係が強固なものになりつつあったことや、対ソ戦に備え南樺太から九州までを縦断する高速鉄道の建設が必要な状況となっていたこともあり、新たに高速鉄道専用の標準軌路線が建設されることとなった。


 これに伴い、橋や海底トンネルを利用した列島間の接続が図られ、宗谷トンネル・青函トンネル・瀬戸トンネル・関門トンネル・本州四国連絡橋などの建設に繋がることとなる。


 また、日本道路機構はいよいよ高速道路の建設に踏み切ることとなり、先行して東京—大阪間・大阪—神戸間・東京—鎌倉間での高速道路建設が行われることとなった。


 次に、全ての企業の共栄・成長という目標は、財閥に利益が集中し過ぎることを避け、新興中小企業の発展・成長を促進する為に設定されたものであり、財閥・政党・軍部の癒着を防ぐという意味合いも含んでいた。


 この目標達成のために、以下の政策が行われた。


 1934年5月5日、日本政府はを制定した。この法律によって、最低賃金の設定と補填なども含めた資金面での支援と公共事業や兵器開発への参入凱旋などの仕事面での支援などが中小企業に対して行われることとなった。


 また、6月1日にはが制定され、1921年から制定されてきたJES《日本標準規格》に変わり、JIS日本工業規格が制定され、さらなる産業標準化の促進と国際標準の製品製造を可能とし製品の品質向上や生産能率の向上を図ることとなった。


 1935年5月22日には、が制定され多くの企業が法律遵守のための出費と労働者の追加雇用に迫られることとなったが、企業支援法の資金支援を受けられない財閥などの大企業が改革を迫られることとなった。

 

 また、企業支援法によって資金援助を受けることができた、成長段階であった新興財閥や、自動車開発支援も受けていたトヨタ自動車・日産コンツェルンなどとの競争が激しくなったことにより、商品の低価格化や品質の改良などが進み、日本製品の価値が大幅に上昇することとなった。


 1936年4月14日になると、が制定され、不公正な経済競争・市場独占・経済活動への不当な制限排除がの管理下で行われることとなり、企業間の自由競争がさらに進むこととなった。


 最後に、国家主導の地方開発と安定的な社会資本の供給という目標は、国土の十分な活用と地方における雇用の創出及び国民生活の基盤たる社会資本を整備・供給するために設定されたものだった。


 この目標達成のためには、以下の政策が行われた。


 1934年7月14日にが制定されたことで、国営企業としてが設立された。この企業は、国内で五大電力会社と呼ばれていた東京電燈・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力を国家が統合させる形で設立され、安定的な電力供給を行うこととなった。


 それに伴い、開発が進む都市の近郊を中心に水力発電用の大規模なダムの開発が行われることとなった。黒部ダムを初めとする多くのダム建設が計画され、自然環境の保護を要請する昭和天皇の意思や幾度かの戦争突入によって建設遅延・中止になるダムがでたものの、1950年代までには計画が続行されたすべてのダムが建造し終わることとなった。


 また、火力発電の効率化や新たな発電方式の研究も行われることとなり、その研究は戦中・戦後に風力発電・原子力発電という形で成功を収めることとなる。


 1933年に合同していた日本製鐵は、鉄鉱石の輸入先である満州王国や東方イスラエル国との協力のもとで鉄鋼一貫製鐵所の更なる建設を進めることとなり、仙台・鹿島・名古屋・神戸・唐津・桃園の6ヶ所に建設することとなった。


 1936年5月26日には、が制定された。これにより、大都市圏の工業地帯では工場の建設に一定の制限がかかるようになり、一方で地方ごとにが設定され、設定都市及び地域内での工業開発には五年間の減税措置が取られることとなった。


 列島改造五カ年計画は、日本政府の強力な意思の元に断行され、日本は欧米諸国に劣らない強靭な国家として歩みを始めたのだった。

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