魔性

 熱が、頬に走った。

 同時に、石の床へ赤い点がいくつも飛ぶ。



「……っは!」



 ヴィランの声が、牢獄のような部屋にひびいた。

 その太い腕に、真っ赤な血が滲んでいる。



「俺に嚙みつく度胸があるとはなあ!」


「きゃっ、あっ!!」



 血に濡れたヴィランの腕が、ティファナの胴を打つ。

 ティファナは殴り飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられた。同時に鈍い音が胸の奥に走る。肋骨が折れたらしい。



「う、ぐ、う……」


「っと、強く殴りすぎちまったな」


「ぐ、ごほっ……けほ……」


「さっさと自分に治癒術を使え、ティファナ。まあったく、このウスノロが」



 苦しむティファナを見下ろし、ヴィランが嘲笑う。

 言われずともと、ティファナは必死に治癒術を使おうとしていた。しかし集中できず、なかなか治癒術が発動しない。焦れば焦るほど、胸の痛みが増し、集中力が無くなっていく。



「……う、ぐく……」



 何度目かの呻き声がこぼれでた時、胸の奥に奇妙な温もりが宿った。

 内出血か、痛みが強すぎて麻痺しだしたのか。

 妙だと思っているうちに、胸の奥の温もりが拡がっていく。


 襲いかかってきていた激痛が、じわじわと消えていった。

 呼吸も楽になっていく。



――これって、あの時の……?



 ティファナは首を傾げつつ、胸を触った。

 やはり痛みはない。


 もしかしてテイザットと訓練をしていたときと同じことが起こったのか。

 あの時も、治癒術を使っていないのに身体の傷が勝手に治っていた。

 今回も同じで、身体が治っていく感覚も似ている。



「っへえ! ちったあ早く治せるようになったじゃねえか!?」



 見下ろしていたヴィランが嘲笑いながら言った。ティファナが治癒術を使って治したと思っているらしい。ティファナはその声を頭上に受けつつ、テイザットの言葉を思い出した。『このことはみんなに黙っておくほうがいい』と言った、テイザットの表情。こういう時のことを想って、教えてくれたのかもしれない。これが治癒術ではないとヴィランに知られたら、さらに面倒なことになるに違いないからだ。



「治ったらさっさと立て」


「……嫌です」


「……ああん??」


「もう、あなたの言うことなんて……聞きたくない……!」


「……っはー! 聞きたくないだと!?」



 ヴィランの顔が、ティファナへ近付く。

 ティファナは自らの奥歯が、ぎゅっと引き締まっていくのを感じた。強い恐怖が、全身いたるところを締め付けたり、震わせたりしている。



「おい、ティファナ!? 魅了なんていう妙な力を手に入れて、調子に乗ったのかあ!?」



 ヴィランが喚いた。

 やはり魅了のことをしっかりと把握して、対策していたのだ。


 トラグルックはともかく、ヴィランは用意周到な男であった。大声で騒ぎはするが、馬鹿ではない。今回もこうやって強引に迫ってこれたのは、万全の対策を取れたと確信できたからだろう。そしてきっと、ティファナが抗おうとすることも計算に入れているに違いない。


 どれほど足掻いても、抜け出せはしない。

 一生、このまま。

 幾重にも張られているヴィランの罠が見え隠れし、ティファナの心は折れていく。



「脳なしティファナ。お前に拒否権はねえんだ」



 下品な笑い声をこぼし、ヴィランが自らの頬を揺らした。

 大人しくしなければ、熊猫団の皆をどうにかするぞとも言いたいのだろう。



「……ここで大人しくするわ。どこにも行かない……だから」


「足りねえなあ。大人しく俺のモノになれって、そう言ってるんだ」


「……そんなの……おかしい」


「っは。オカシクさせたのはお前さあ。ティファナ」



 そう静かに言ったヴィランの腕が、再び振りあげられた。

 ティファナの頬が強く打たれる。

 勢い余って床に突っ伏したティファナは、口内を切り、血を吐きだした。



「くっ、っつ……!」


「俺を見ろ、ティファナ」


「な、なにを……」


「オカシクさせたのはお前だ。俺だけじゃない。扉の向こうのやつらも、街のやつらも、お前に毒された奴ばかりだ。それだけじゃねえぞ」


「ほ、他にも……?」


「さっきまでお前といたパンダ野郎どもだって、同じだ。あいつらもお前がオカシクさせてんだ。気付いていないのか? お前のせいさ。全部、お前のせいだ」


「……ち、違う……!」


「っはー! 違うって? 違うって言えるのか!? お前が!?」



 ヴィランが叫んだ。

 狂ったような叫び声に、笑い声が混ざっている。狂気に似たそれは、扉の向こうに控えている見張りの者たちにも伝染したようであった。扉に付いている小窓から、ティファナとヴィランの様子を何度もうかがってくる。その目。歪んだ欲情に塗れている。



「なにもかもを狂わせる魔性の女になったんだ、お前は。もう、魔物みたいなもんさあ」


「わ、私、魔物なんかじゃ……」


「っは。そうだな? 俺の傍にいたら、魔物のようには扱わないでいてやる」


「あなたの、傍に……?」


「そうだ。俺だけさ。魔物のお前を、大事にしてやるのはなあ?」


「魔物の……私を……」



 ヴィランの言葉に、ティファナは揺らいだ。

 人間ではないのだと突き付けられた痛み。それと同時に、これ以上痛むことを恐れなくてもいいという安心感。ふたつを天秤にかけると、奇妙な期待がティファナの脳裏によぎる。


 熊猫団が。


 アレンが。


 人間ではなくなったかもしれないティファナを受け入れてくれる保証があるだろうか。

 魔物と化していくティファナを、これまで通り優しく接してくれるだろうか。


 温かい気持ちになれた分、わずかでも疎ましい視線をぶつけられたら、耐えられないのではないか。


 その恐怖を未来に抱えるぐらいならば。

 最初から魔物と決めつけてくるヴィランたちと一緒に居るべきではないか?



「……私は――」



 こぼれた声が、石の床に落ちる。

 砕けるように反響し、どこかへ消えていく。

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