やがて来る夜

 街に広がる波に、言葉が乗っていく。

 いずれも不確かなものばかりではあるが、決め事のようにひとつ、名が連ねられている。



『……ティファナ……』



 傾城傾国の美女ティファナが、街のどこかに潜んでいる。

 見つけた者には、幸福が訪れる。と。


 熊猫団でその噂を最初に聞いたのは、アレンであった。

 食材の調達や消耗品購入のために街を歩いていたとき、耳にしたのである。噂の内容はいびつなものも多かったが、真実に近いものもあった。「ティファナは以前から、偽りの姿で街に潜んでいた」とか「ティファナの治癒術を受けると、心を奪われる」などである。



「……これでは街にいられなくなるな」



 噂しあう者に目を背けるアレン。

 もはや噂の出どころを調べる意味もない。たとえ発信源が分かっても、これほど広まってしまっては手遅れだろう。


 熊猫団の家では、街中よりも空気が重くなっていた。

 すでにシルフィがティファナの噂を耳にしていたからである。



「今日も訓練していないのか?」



 アレンが尋ねると、テイザットが首を横に振った。



「屋内で出来そうなことはちょっとやってたよ?」


「そうか」


「だけどこのまま魔力操作の訓練をしても、魔力の暴発を起こすかもしれないしねえ」


「そうだな。前に部屋がひとつ吹っ飛んだからな」


「でしょ? だから休憩さあ! ま、これまで結構頑張りすぎてたからね。いいんじゃない?」


「シルフィがそう思ってくれたらいいが」


「だねえ」



 テイザットが部屋の奥に目を移す。

 部屋の隅で、シルフィはじっと座っていた。窓に近付けば外から見えるかもしれないからだ。


 出来るだけ静かに潜みつづける他ない。

 この街からティファナの噂が消えるまでは。



「だが、この噂は当分消えないぞ」



 アレンが頬を引き攣らせる。

 暗い表情を床に向けているシルフィが不憫でならない。


 噂の発信源は大体見当がついていた。ティファナが以前所属していた冒険者のパーティである。証拠こそないが、これほど大規模に噂をまき散らせるのだ。あの大規模な冒険者の団体以外に有りえない。



「美人になったシルフィちゃんを取り戻したいのかねえ?」


「……クズどもが」


「まあ、ボクたちも正当な形でシルフィちゃんを迎え入れたわけじゃないしね」



 テイザットの言葉に、アレンが苦い顔をして息を吐く。

 実のところアレンたちは、冒険者の規約違反をしていた。それはシルフィを、以前のパーティの同意を得ないまま熊猫団に所属させたことであった。冒険者が別のパーティへ移籍する場合は、基本的に双方のパーティの同意が必要なのである。現状シルフィは、ティファナの名で以前のパーティに所属したままとなっていた。



「奴らがシルフィちゃんを除名してくれていれば良かったんだけど、当てが外れたねえ」


「どうする?」


「身を潜める以外ないよね。ぶっちゃけ、奴らが殴り込みに来たとしても非があるのはボクらだ」



 事情を知らない者からすれば、熊猫団は人攫い同然。

 加えてシルフィの魅了能力が公になれば、熊猫団はいくらでも難癖をつけられてしまうだろう。



「まあ、街を脱出する準備は必要かなあ?」


「冒険者も辞めると?」


「それは後から考えるってとこ。今はシルフィちゃんのほうが大事でしょ?」


「そうだな」



 アレンが頷く。その表情に迷いはない。

 テイザットの片眉がくいっと上がった。「さあ早速旅立ちだ」と賑やかに笑う。


 少し離れた壁際で、シルフィは二人の話をじっと聞いていた。

 小さく細い肩が、弱々しく震える。



――晴れある明日が、やっと見えかけていたのに。



 暗い表情を浮かべていた顔から、涙が落ちた。

 じわりじわりと、薄暗い床が濡れていく。


 濡れて黒くなった床面に、かつてのパーティメンバーの姿が浮かび上がった。 

 ティファナを虐げつづけていたヴィランらの顔。未だにシルフィの心を縛り、離してくれない。少しは逃れられたかと思っていたが、やはりそれらは幻想なのだと思い知った。すべて勘違いで、なにひとつ変わることはないのだと。


 どれほど願っても、定められた道から逸れることは出来ない。

 いや、逸れようとすればするほど、より強い力で元に戻されるのではないか。



「シルフィ」



 アレンの声が聞こえた。

 いつの間にかすぐ傍に来ていて、心配そうな表情を向けている。



「今夜、ここを出る」


「……ガビンと、レンカは?」


「暗号メモを置いていく。そのうちに合流できるだろう」


「……ねえ、アレン」


「なんだ」


「もう、私を置いていったほうがいいよ」


「そんなこと言うな」


「結局私は――」


「シルフィ」



 アレンの声が、シルフィの声を遮る。

 それでもシルフィは言葉をつづけようとした。しかしすぐにアレンが身体を寄せ、シルフィの身体を包むように抱いた。いつものシルフィならそれで赤面していただろう。しかし今回ばかりはそうなれなかった。どうしたって、ただ慰められているとしか思えなかったからである。



「元に戻っても、きっとヴィランたちは私を虐めたりしないわ」



 シルフィはアレンの身体を押し返し、口の端を持ちあげてみせた。

 もう、慰められるだけではいられない。このまま甘えつづければ、アレンたち熊猫団がどうなるか分からないのだ。



「本気でそう思っているのか?」


「本気よ。私、見た目だけは美人になったの。だから」


「……ダメだ、シルフィ」


「どうして」


「こんなに身体を震わせているんだぞ」



 アレンの手がシルフィの肩を押さえる。

 言われて、シルフィは自身の身体がひどく震えていることに気付いた。奥歯もカチカチと鳴っている。身体の奥底が冷え切っていて、すべての血が凍りついているような気がした。



「大丈夫だ、シルフィ」


「……でも」


「大丈夫だ」



 アレンの声が、シルフィの細い肩を抱く。

 身体の震えは、収まらなかった。涙も、息苦しさも、収まってくれる気がしない。


 窓の外から差し込む光が、じわりと弱まっていった。

 街に夜が下りていく。

 ゆっくりと、確実に。

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