入浴

「お風呂が沸きんしたよ〜……」

「あぁ……ありがとう……」


 居間でスマホに映る求人票と顔を突き合わせていた俺に声が掛けられた。

 風呂場から帰ってきたお姉ちゃんは興味津々な様子で俺の傍へ近寄ってくる。


「それは……という物でありんすか……?」

「あ、うん……」

「ハイカラでありんすねぇ……」

「持ってないの……?」

「わっちはここから出たこともありんせんから……」

「じゃあさ……今度一緒に行こうよ……スマホ買いにさ……」

「えぇ……是非……」


 ニッコリと微笑むお姉ちゃん。俺はその表情に自身が口走った言葉の危険性に気付いて慌てて顔を伏せた。

 

 これではまるでデートの誘いの口実ではないか。少し冷静になったほうがいい。早く風呂に入って落ち着かせよう。

 

「あ、風呂入ってくるよ……」

「熱いから気を付けておくんなんし……」

「うん……ありがとう……」

「夕飯も出来んすから……」

「分かった……」


 着替えを片手にボロボロの脱衣所へ足を踏み入れる。脱衣所は相変わらず壁紙が剥がれていて、電気はとても薄暗い。


「ふぅ……」


 桶で沸いた湯を掬い、体を洗い流す。

 今日は色々なことがあった。

 自身の体に湯を浴びせながら、そんなことを思い浮かべる。


「結婚……かぁ……」


 初恋の人が俺を婿にしようとしてくれている。

 それは普通に嬉しいし、是非ともお願いしたい。

 だが、職もない今の俺では彼女に負担を掛けてしまう。


「早く仕事見つけないと……」


 そんなことを呟いた俺は湯船に腰を落とす。

 溜まっていた1日分の疲れが溢れる湯と共に浄化されていく。


「主さん……」

「は、はい〜……?」

「湯加減はいかがでありんすか……?」

「ちょうど良いよ……ありがとう……」

「いえ……」


 磨りガラスに映る人影は何かを言いたげにそこへ留まっている。


「ど、どうしたの……?」

「一緒に……どうでありんすか……?」

「えっ……!?」

「入りんすね……」


 人影が纏っていた厚い布が徐々に取り払われていく。

 非常に整った体のラインがガラス越しに露わになった瞬間、俺は視線を壁の方へ向けた。


 やばい。本当にやばい。再会して初日でこんなことになるとは思わなかった。


「主さん……」


 外からの冷たい空気と共に濡れた足音が室内へ入ってくる。

 

 来た。本当に来た。

 思わず体を強張らせる。

 

 そんな俺の背後では湯船から水を掬い出す音と、それを何かに掛ける音が常に鳴り響いている。


「お、お姉ちゃん……どうして……」

「お見合いの件……聞いてやすよね……」

「聞いてる……けど……」

「そういうことでありんす……」

「で、でも……本当に俺でいいの……? まだ仕事も見つけてないのに……」

「主さんが……いいんでありんす……」


 その言葉と共に湯船の中へゆっくりと浸かってくるお姉ちゃん。

 すぐ傍にお姉ちゃんが居ることが背中に当たる柔らかい感触で分かる。


「この温もり……とても落ち着きんす……」

「そう……かな……俺は油断したら死にそうなんだけど……」

「ふふっ……そうなったら看取ってあげんすよ……」

「あの……いつまでこの状況は続くんでしょうか……?」

「主さんがこっちを振り向くまででありんす……」

「あはは……それは厳しいな……」

「くふふっ……」


 分かる。俺には分かる。お姉ちゃんが意地悪そうに微笑んでいることを。


「それじゃあ……わっちは先に出んすね……」

「あぁ……うん……」

「期待してやしたか……?」

「しっ……してないよ……?」

「そうでありんすかぁ……」


 満足したらしいお姉ちゃんは小さな笑みを漏らしながら風呂場を後にするのだった。

 彼女が居ないことを確認した俺は深い溜息も漏らしながら天井をゆっくりと仰ぐ。


「やばいなこれ……」


 お姉ちゃんからの告白と未知の状況に俺の理性はもうボロボロだ。果たして最後まで保てるだろうか。

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