名もなく甲斐もなく

森川めだか

名もなく甲斐もなく

名もなく甲斐もなく

         森川 めだか



 薄青色の枠を赤で囲った。銅倉新どうくらしんはなぜか笑っていた。第二の人生は人が言うほど寂しくはない。

新は引退した刑事だ。アルバイトを選ぶ事の何と楽しい事か。勤続云十年、刑事一筋でやってきた。

携帯電話が鳴った。発信元は「職場」だった。

「はい、もしもし、銅倉」

「銅倉さん出社してくれませんか」

「今日何日だと思ってるんだ? 俺はもう・・」

「話だけでも・・」

もう出すことはないと思っていたえび茶のスーツを着て警視庁に出向いた。

「もう出すことは・・」

「すいません。銅倉さん」若手の刑事は銅倉を案内した。

「バイトの面接はポロシャツで行こうと思ってたからよう」

応接室にしている物置きに入ると手を前に置いて若手は話し出した。

「銅倉さんもご存知でしょう。先の誘拐事件」

「夫が捕まったやつだろう。詳しくは知らん」

「妻を誘拐されたと見せかけて男を殺した奴です」

「ああ、そんなこともあったっけ」

「それで・・」痰がからまったのか若手は咳をした。

「お前、煙草は現役だけにしとけよ。体壊したらなあ」

「それで、銅倉さん。協力してくれませんか」

「捜査一の仕事だろ。それに、もう解決だろう」

「それが・・」若手はまた咳をした。

黒原くろはらは殺されたんですが、その妻と共犯だった説がありまして」

「そんなんねじふせとけよ」と新は言ったが、とりあえず夫の石彼いしかれに会いに行くと現役時代の手帳に書き付けた。

「嘱託か。履歴書に書いとかなきゃな」


刑務所にいる石彼という男は妻のために「自己防衛で」誘拐犯人を殺した夫と初めはちやほやされたものだった。すぐに疑惑の人になったが。

「面会すぐに来ますから」新は看守とも顔なじみだ。

出てきた石彼はやつれていた。人殺し特有のもうどうにでもなっちまえ系の空気が感じられない。

「んで」新はボールペンの先に唾をつけ脚を組んだ。

「あんたが黒原を殺したのは事実なんだよね?」

石彼は力なく肯いた。

「何度も言っただろ」

「何度も聞くのが仕事なんだよ」

石彼はふてくされたように黙った。新は新聞を読み出した。

「恨みねえ・・。随分、手の込んだ仕事をしたもんだな」

「あんた本当に刑事さん?」

「いや。昔ね」

新は新聞を畳んで脇に置いて、めんどくさそうに手帳を開いた。

「犯人はあんただけなのかね。奥さんは?」

「マイカはそんなことしない。俺が頼んで付き合ってもらった。いわば俺と黒原の被害者だ」

「愛妻家なんだねえ」

「黒原は何度殺したって地獄に落ちるよ。まだ飽き足らない」

「まあ、そのことは奥さんに聞くよ」

「何でマイカに聞くんだ」石彼はその時だけむきになった。

「あんたの愚痴聞いてたら、俺があんたを殺したくなるよ」

手帳を閉じ、新は立ち上がった。

「これ、欲しかったらやるよ」と畳んだ新聞をプラ板の石彼の前に置いた。

「いらないか。じゃあ、お疲れさん」新は看守に言って、石彼は力なく連れて行かれた。

まず間違いなくマイカが黒原と組んで石彼をハメたんだろう。

新は携帯電話を開いて、やめておいた。



「・・そんで、あくまで俺の見立てだがマイカははなから夫をハメるつもりだった、黒原が死んだのは予想外・・。ま、そんなとこだ」

「銅倉さん、もしかしてそれで終わらせようとしてませんよね」

「俺は元刑事だ。勘も鈍ったし・・」ボールペンで頭を掻いた。

「人手不足なんですよ。ひとまず終わったと思われる事件にサいてる人なんか・・」

「それは分かってるよ。んー」

「マイカに会ってくれませんか」

「決め付け捜査ってのはなあ」

「それでもいいです」

新はまた立ち上がった。

まず黒原あしたというのはどういう男だったのか。

まず現場に立ち寄った。どこにでもありそうな道路だ。ここに張ってた刑事によると身代金の一部を持っている石彼が黒原を刺したらしい。「血」という白チョークがまだ残っている。

一部というのはさっき若手に聞いたのは要求された身代金は天文学的な金額だったらしい。とても身代金目的とは思えない。

黒原にも石彼に恨みがあったのか?

周りを見回して一人で立ち尽くし、刺したり、倒れたりする寸劇をしている新は街の中で浮いていた。もう少しで警察を呼ばれそうだ。

遠隔マイクには二人の会話は何もなかったようだ。

マイカのことでモメた?

「んー」やはりマイカと会うしかないか。

この事件と関わってしまいそうでそれを避けていた。アルバイトが遠ざかっていく。



石彼の家の前でマイカが出てくるのを待っていた。インターフォンに出たマイカの声は若々しかった。

すぐに鍵を開ける音がして、瓜実顔が新を見た。笑っている。

「奥さん、また警察なんですがねえ」新は警察手帳を持っていないから見せない。

雰囲気を感じ取ったのかマイカは黙って肯いた。

「中に・・?」

「いえ、すぐ済みますから」

マイカは所在なげに家の中を振り返ったりして見ている。

「あんたは夫から金をふんだくるつもりだったんだろ。そのためなら男は誰でもよかった」

びっくりしたのは新の方だった。今更、ドアノブを掴むマイカの手に気付いた。それは異様にデカい。

「手、手を使うスポーツでもなさってたんですか」

マイカは顔の倍くらいもある手を開いて他人の物のように見ていた。

「いえ。今のお話ですが・・」

「あ、ああ、今でもそういう説が警察に根強く・・」ひるんだのは新の方だった。

「私は誰も殺してません」

「殺人だけが罪ではないですから。夫が捕まって寂しいとか、黒原が死んで寂しいとか、ありませんか」

「んー、あんまり・・。夫にあの話を持ち出されたのは・・」

「やっぱり、中に入れてもらおうかな」

「そのスーツ、素敵ですわね」新を椅子に座らせて、マイカは言った。夫の椅子だったのだろうか。

「いやあ、」新はネクタイをゆるめた。「実は私はもう刑事じゃないんですよ。今はアルバイトっていう何と言ったらいいか」

マイカは微笑するだけで、二人のコーヒーを置いた。

新の向かいに座ったマイカは何もない部屋の一角を見ていた。幸せの木は買ってすぐ枯らした。

「私はね、なぜ奥さんがそうまでして黒原と共犯だったのか知りたいだけなんですよ。安心して下さい。もう犯人は捕まってる。警察にも言いませんから。そんなに魅力のある男だったんですか」

「黒原さんですか」マイカのその異様な手でカップを掴むと一口飲んだ。あれじゃカップの耳に入らんだろう。

「今日イチ、困る」マイカが言った。今日の一番という意味だろう。

「特に・・」マイカは新の目を覗き込んだ。言いあぐねている目を見ると、マイカにとっては本当に興味のない男だったのが分かる。

「なぜそんなのに協力したんです」

「さあねえ、何でかしらね」今度はマイカは新の目を見るのを避けた。

その向こうには天井に近い所に小さな窓があった。

「ここ、お隣が近いからわざわざあそこに窓、作ってもらったんです」

新はそれを見て、笑い話を思い出した。

「俺の親父はね、もうとっくの昔に死んだんですが、戦時中に生まれたんですが」

「あら、それは大変でしたねえ」

「それがね、何で助かったかっていうと」新は自分だけ話を思い出して笑った。

空を指差した。「空襲があるでしょ。親父の言う事にゃ」新はマイカを見た。「防空壕に入っててね。防空壕に飯やら何やら入れてるから人が入れなかったんですって」

マイカも少し口角を上げた。

「馬鹿ですよ。そんなもの放り出してたら、親父の親父もお母さんも生き残っていただろうにってね」新は大笑いした。

マイカも声を出さないようにして口を開けて笑っていた。

「今日イチ、笑いました」

「それはよかった。親父も生きてた甲斐があったってもんです」新もコーヒーに口をつけた。

「ああ、そうだ、あれ」マイカは立って、姿を消した。

マイカが持ってきたのは菓子詰めだった。「近所の奥さん方にもらったんです。まだ開けてないままだった」

マイカのその大きな手で紙を破り、箱を開けた。

「いちごクリームだ」マイカはビスケットの個包装を一個取り出し、新の前に置いた。

「奥さんは食べないんですか」

大皿にそれを全て空けると、マイカは首を振った。

「そうですか、それじゃいただきますね」中に挟んであるいちご味のムースが旨かった。

「黒原のことは分かりました。石彼さんにその話を持ち出された時、何て感じました?」

「まあ、やってみようかなと・・」

「簡単ですね」新はまた笑った。

「私も笑わせてもらったから面白い話しますね」マイカは笑った。

「夫にこの服、初めて買ってきてから見せた時」マイカは白いワンピースを着ていた。

「ええ」新はもう笑いを我慢していた。

「鬼ワンピース、だねって言ったんです」

二人とも大笑いした。

「男の人が好きなワンピースだって意味なんでしょうね」マイカはその異様に大きな手で口を押さえて笑っていた。

「鬼ワンピースか、そりゃいいや」

「ご足労おかけしました」マイカは玄関口で頭を下げた。

「いえ、こちらこそ」



新は真顔に戻って、二つの笑い話を思い出して二回、笑った。

マイカは夫にも黒原にも協力していた。それは新の間で確信に変わっていた。

だが、目的は? マイカは結局、何も手にしてないではないか。

「あんたも黒原に恨みが?」と聞きたい時もあったが、何となくその時の雰囲気でやめていた。

夫をハメて、黒原を殺し・・。

「この頃、立ちくらみがひどいんです」

新はマイカが倒れるかと思った。送るために椅子から立ち上がった時だ。その大きな手の甲を額に当ててしばらく立ち止まっていた。

その手を見ていたらしばらく前見た花を思い出した。妻が切り花にした花だ。ちょうどこんな風に気味が悪いぐらいに開いていた。

その花の中のおしべだかめしべだか花粉の付いている、新にはその名前は分からなかったが中心にある突起。一見美しい花も花の種子を見たら醜いように。

何で骨や皮膚の集まりが美を作るのか。新はマイカを見て思ったものだった。

「拳の大きさは心臓の大きさなんだって」妻がテレビを見て言っていた。

「昔は人ぐらいデカい亀がいてそれを河童と間違えたのかもな」と新は言った。

「何言ってんのよ、あんた」

妻と話すくらいなら、マイカと話していた方が面白い。が、今日帰ったらこの話をしてやろうと思うのだ。

妻が鬼ワンピースを着ていたのはいつくらい前だったかな、今日イチ、笑ったのはいつのことだったか。

レモンサワーを飲んでいた。

「夫が犯人だったんでしょ。やりきれない話だよね」

マイカが元風俗女性だったと情報がもたらされたのだ。

「刑事さんモテモテだよ、誰かとやっちゃいなよ」

「それでその子はどんな子でした」

「業だね」

話を聞いていた男は笑った。

「あの子、怖いんだもん」

「怖いって、何が」

「犬も猫もみんな殺したって言うんだもん。ペットとしてだよ。一番引いたのがハムスター。レタスしかあげないで栄養失調にしちゃってそれでも懐いてるかと思って手の上に載せたらもがきながら苦しんで死んだって。植物もそう。私、生き物を飼うのに向いてないんですねー、だって」

「今は何を」

「白タクやってるって」

また男は笑った。

「あの子、やけに手大きいでしょ。それをお客さんが嫌がってね。オフクロと寝てるようだって。カハハ」



茶鼠色のスーツを新は着ていた。飲み屋街。

明らかに年月が経過したものと思われる車が目の前で止まった。指先で触れてみると埃がついた。

乗ると、マイカがいた。

「立ちくらみがひどいって言ったじゃないですか」

足がむくんで顔がふくらんで手が別人のようなマイカが車内で煙草を吸っていた。

「どっちに行きます」

新は後部座席に乗り込んで、「酔いが醒めるまであちこち」と言った。

「ぼったくりますよ」マイカは笑った。

車は静かに走り出した。

しばらく二人とも黙っていたが新がどっちにも協力する動機を聞いた。

「何げない受動っていうのかしらね。何か可哀想になった。何もかも可哀想に・・」

「夫の黒原への恨みは」

「どうでもいいのよ。そんなこと」

マイカはボーダーを越えてしまったのか。ルビコンという名の。

「夫も黒原もあんたに裏切られても怒らないだろうよ」

「そっちに行けない」とマイカは言った。行こうとしていないのも明らかだ。

「おじさんも可哀想になってきちゃった。ねえ、私と何かやる?」マイカは初めて振り向いた。

新は笑って横を向いた。

「私生児はずっと私生児なんだ」マイカはその腫れた手でハンドルを握り直した。

「附子になっちゃったから」

ああ、もう君はいないのか。

「今日イチ、落ち込んだ」

「金もいくらかもらっただろう?」

「ああ、身代金のね」

あの、天文学的な・・。

「私が稼ぐまではやめられない」

夜景はいつまでも変わらない。

「冬眠ってのは変わらないラジオみたいなもんかね?」新は顔を窓に寄りかからせた。

「ふにゃチン」何かを思い出したのかマイカが言った。

「ノスタルジア。永遠に変わることのない世界」

「変わるんじゃないですか。思い出なんて簡単に」

今、みんな光に溶けていく。

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名もなく甲斐もなく 森川めだか @morikawamedaka

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