誘掖のハル

原谷凪

第1話

「なぜ、人間がここにいる。」

雑面で顔を隠し、神官のような格好をした短髪の男がやや詰め寄るようにそう言った。立ちすくむ僕に向けて扇を首に突きつけながらそいつは少し顔を僕に近づけた。



「夏休みだからといって羽目を外しすぎないように…」

7月24日、明日から高校は夏休みに入る。いつもはジャージを着ている小太りの担任も今日は修了式のためか普段は着ない半袖のシャツを着ている。

僕は夏休み前に持って帰らなければならないものをリュックに詰めていた。

「…入らない、やっぱりこれは昨日持って帰るべきだったか。」

僕は美術の授業で作った一輪挿し用の花瓶を無理やり押し込んでいたバックから取り出しそう呟いた。

「おい!楯崎!人が話をしている時は作業をやめろ!」

いきなり名前を呼ばれたのですぐさま顔を上げると、担任が少しイラついた様子で僕を見ている。

さらに、周りを見ると僕以外のクラスメイトもれなく全員こちらを見ていた。

「す、すいません…」

恥ずかしさが込み上げ、少し早口でそう言った。

そんなにイラつくことか?と内心思ったが僕は少し俯いたまま、顔を赤くしていた。

その後何事もなく夏休み前最後のホームルームが終わり、僕は荷物を詰め終わった後、重いリュックを背負い、右手に花瓶を持ち席を立った。

周りを見ると教室には誰もおらず僕が最後まで残っていたようだ。

ふと、廊下を見ると見知った顔がこちらを見ていた。

「はーるくん、何持ってんの〜?」

ニヤニヤと笑いながら教室のドアから顔を出すのは、隣のクラスの新島音也である。

新島は高校からの仲で隣のクラスの僕に入学以来よく絡んで来るのだ。178cmほどの身長でスラっとした体格の持ち主で見た目はちょっとチャラくて、基本的にヘラヘラしている印象がある。

「はるくんって呼ぶのやめてよ。」

「俺らの仲じゃーん。じゃあ俺のこと、おとくんって呼んでいいよ?」

いつの日か忘れたが、新島は千春という僕の名前を勝手にはるくんと呼ぶようになった。

新島はいつものようにヘラヘラ笑いながら、僕の肩に手をかけて、顔を覗き込むよう話かけてくる。

うっとしいと思いつつ、別に嫌ではないのでいつも抵抗はしていない。

「…」

僕はため息が出そうになるのを我慢してプイと顔を新島から背けた。

「お!何も言わないってことはオッケーな感じ?」

「いや!ダメだよ!」

食い気味でそう答え、教室前の廊下から下駄箱までの短い道のりを新島とどうでもいいようなことを話しながら僕は教室を後にした。




「でさ、本題。はるくん部活に…」

「無理、他を当たって」

僕は上履きを靴に履き替えながら話している途中の新島の言葉を遮った。なぜなら、その後に続く言葉を僕は知っている。

高校に入学以来何度も新島に同じことを言われ続けているからである。

新島はいつものヘラヘラした顔をやめ、少し真面目な顔になった。

「…夏休み中一回でもいいから、見学だけでもさぁ」

「行かないって」

中学生の頃僕は少し有名なバスケのチームに所属していた。

高校では理由があり、もうやらないと決めていたが僕の中学時代知っていた新島が入学から、こうやって絡んでくるのだ。

僕は靴を履き終え、入学から履き続けている少し汚れた上履きをあらかじめ靴箱の中に入れていたビニール袋に詰めてそれを左手に持った。

残念そうな顔をしている新島は靴を靴箱から取り出し上履きをそこに入れた。

「まず、夏休み中は九州の田舎のおじいちゃん家に行く予定だから高校には来られないんだ。」

残念そうな顔した新島にそう告げると、新島は靴を履きながら渋々納得したような表情で僕の肩をポンポンと叩いた後少し笑った。

「オッケー。じゃあさ!俺、普通にはるくんと夏休み中連絡取りたいから連絡先交換しよーぜ」

新島は突然僕のリュックの横のポケットに入っている僕の携帯を取り出すとあっ!と言う僕を横目にササッと自分の携帯と僕の携帯の連絡先を交換した。

「はるくん面倒いからって俺からの連絡拒否らないでよ!?」

新島は満足そうな顔して僕に携帯を返すとふと携帯に表示されている時間を見て、焦った顔で僕にバスの時間ギリギリだから!とそれだけ言い校門へ走って行った。

僕はそんな新島を見て呆気に取られつつ、はっとして自分も急がなければ帰宅ラッシュに被ることになると思い帰路を急いだ。




家に着いた僕は明日祖父の家に行くための荷物を自分の部屋で詰めていた。

僕の部屋は狭い屋根裏部屋でクーラーもなくこの時期特に暑すぎるので、汗まみれで作業するしかないのだった。

10分ほど作業したところであまりの暑さに耐えきれず僕の部屋にある唯一の小さな窓から顔を出し下敷きで顔を仰いだがあまり涼しく無い。だが、顔だけでも外に出した方が断然マシだと思えるほどに部屋の中は蒸し暑かった。

しばらく涼んでいると、ガタガタッと下の階から物音が聞こえてきた。

多分叔母さんだ。スーパーの仕事から帰ってきたんだろう。

僕の部屋の窓がある位置は隣の家の壁しか見えないので叔母さんが自転車に乗って仕事から帰って来ていることに気づかなかった。

そこから僕は下敷きで顔を仰ぐのをやめて作業に戻った。

荷物を詰め始めてから30分ほど経ち、祖父に新しい歯ブラシはあるか。と電話しようとしたところ、携帯をリビングに忘れて置いてきたことを思い出した。

学校から帰る途中に買った明日祖父に持っていく用の東京お土産が、冷暗所保管だったので僕の暑すぎる部屋では保管できずキッチンにある冷蔵庫に入れるためリビング行った際に携帯を忘れてしまったのだ。

携帯を取りに行くため階段を降りリビングの前のドアの取手を掴んだ時、叔母さんの声が聞こえてきた。

「そーなのよ、千春くんが明日からいなくなるのよ〜!」

叔母さんの嬉しそうに甲高い声で電話をする声が聞こえた。

「嫁と死別したシングルファーザーの兄さんが去年死んで、その息子の中学生の子供を施設に入れるのは世間体的にあれじゃない?で、私しか預かる人がいないっていうから渋々預かったんだけどさ〜…」

僕の両親は僕が幼い頃に死別している。父は約1年前に亡くなった。

母は12年前に亡くなり、母のことはうろ覚えだか若干覚えている

明日行く祖父の家は母方の実家でどんな家でどんな場所にあったかほとんど覚えていない。

母が亡くなる前ならば行ったことはあるらしい。僕には行った記憶すらないが。

父は母が亡くなってから父方の実家にも母方の実家にも頼らず僕を男手一つで育ててくれた。

それなのに、僕が夏休み母方の祖父の家に行くことになったのは、先月突然祖父から『夏休み久しぶりに遊びに来ないか』

と連絡があったからだ。祖父は5年前に祖母が亡くなって1人で暮らしており、母は両親の反対を押し切り父と結婚したため、母方の祖父母は僕に連絡を取りづらかったそうだ。しかし、僕の父が昨年亡くなったと最近知り、ツテをたどり連絡を取ったそうだ。

なぜ今になってと思ったが僕は居心地の悪い叔母の家から出たかったので

ニつ返事で了承した。




「そうそう!それでね〜、私が…」

「叔母さん、おかえりなさい。」

僕は楽しそうに誰かと喋っている叔母さんがいるリビングの扉を開けて、何食わぬ顔でスタスタとリビングに入った。

すると、僕がリビングに入ってきたのを見てダイニングチェアに座っているなんとも言えない顔をした叔母の斜め前にある自分の携帯を取った。

「ちょっと!汗汚いからリビング入って来ないで」

汚いものを見る目で僕を見る叔母はリビングのエアコンをつけて扇風機を自分に当てている。

「すみません、部屋が暑かったので」

淡々と叔母に答えながら服の襟で汗を拭った。

叔母はとたんに厳しい顔をして文句を言うな。誰がこの家に置いてやったと思っている。など3日に一度は言われるいつもの言葉をいくつも僕に吐いた。

部屋が暑かったと言ったのは別に文句でも嫌味でもなかった。

ただ本当のことである。

実際僕の部屋は外よりも暑い日がほとんどで、窓も小さく換気も十分に出来ない。

叔母はそのことを十分に知っている。

しかし、他に空いている部屋があるのに頑なに僕には使わせようとはしなかった。

10分間ほど同じようなことを言われた後、僕は部屋に戻り荷物の詰め込み作業を進めた。

叔母さんと夜遅く仕事を終えて帰ってきた叔父さんが風呂に入った後に僕はササっとシャワーだけを浴び風呂の掃除をして蒸し暑い部屋で眠りについた。




翌朝、僕はキャリーケースと大きなリュック、そして祖父へのお土産を持ち玄関に降りた。叔父さんが仕事のついでに空港に送ってくれると言ったので、叔父さんが運転する車に乗り込んだ。

叔父さんは僕のことに関心を持っておらず、ほとんど話したことがない。

僕も最初のうちは仲良くなろうと出来るだけ話かけたが、無理だった。

だから、今日空港まで送ってくれるとは思わなかった。

僕が車に乗り込んで空港に着くまで「よろしくお願いします」「ありがとうございました」以外お互い無言の中、1970年代の音楽が車内に響いていた。

空港で手続きをしたのち飛行機に乗り込んで、目的地に着くまで僕は寝て過ごした。




目的地に着き、空港を出ると祖父の家の方面のバスに乗り込んだ。

バスをいくつか乗り継ぎ20分ほど歩いた後ようやく祖父が教えてくれた場所に辿り着いた。朝早く出発したのに着いたのは夕方だった。

「…ここの家Wi-Fiあるかな。」

祖父に教えられた家はいわゆる古い日本家屋で、敷地内に母屋と倉庫のような建物がある。

母屋の縁側は少し開いていて防犯の面が心配になる。

田舎は何処もこんなものなんだろうか。

とりあえず僕は梅やよく分からない柑橘類等が植えてある庭を抜けて母屋の玄関に向かった。

玄関の前に着きインターホンを押そうと思ったが、インターホンがない。

まじか。インターホンがない場合の家は初めて見た。

しかし、勝手に入るわけにはいかない。

僕は大きく息を吸った。

「すいませーーーん!!!」

予想以上に大きな声が出て、近所迷惑じゃないかなと思ったが心配無用だった。

なぜなら、ここは山の麓に位置し、ご近所の家は僕の目からは見えない。

バスに乗っている間も何軒かは見かけたが、この辺りの地域はあまり人が住んでいないようだった。

「だれね、うちに何か用でもあると?」

「うぇっ!?」

僕は後ろから声を掛けられたので思わず体をビクッとさせて、手に持っていたお土産が入った袋をグシャッとつぶしてしまった。

振り返ると手にナタを持った初老の男が立っていた。

「た!た、楯崎千春です!!」

手にナタを持っていたので僕は一瞬体が固まったが、黙っていた方が怪しいと思ったので名前を勢いよく初老の男に向けて言い、背筋をシャンと伸ばした。

初老の男は目を大きく開けて驚いた顔をした後微笑んで、持っていたナタを地面に置き、両手に着けていた手袋を外した。

「千春か、よう来たなぁ…」

感慨深そうにそう言うと、僕の頭をわしゃわしゃと少し雑に撫でた。

その時僕の頭の中は、ナタの使い道についてしか考えられなかった。




あの後、とりあえず僕は家に入るように言われ、お土産以外の荷物を玄関に置いて言われるがまま居間に足を踏み入れた。

「本当に大きくなったなぁ…、じいちゃんのこと覚えとるか?」

座卓を挟んでお互いに麦茶を飲んでいる時そう聞かれた。

僕は全く記憶がない。最後に会ったのはいつだ…?

「あ、あんまり覚えてないかも…」

引き攣った表情で、首を傾げて答えると、そりゃそうだよなぁと笑っている。

今までじいちゃんと会って話して見て、なんだか記憶にある母と祖父の印象が全く違かった。

「…あの、本当に僕の祖父ですか?」

ぽろっと口からその言葉が出ると、じいちゃんはガハハと笑った。

「千春のじいちゃんに決まっとろーが!祖父とかじゃなくてじいちゃんて呼ばんね!」

方言ハンパないな…。

僕のじいちゃんはこんなだったのかと感慨にふける。

そこでお土産を持ってきていたことを思いだし、お茶菓子をじいちゃんに手渡す。

じいちゃんは気きくなぁと言って受け取ってくれた。




「じゃあ、そろそろ家の案内でもするか」

ひと段落した後、じいちゃんは僕を連れてトイレやお風呂、じいちゃんの部屋、客間などの場所を案内してくれた。

最後に僕が夏休みの間過ごす部屋に連れて行ってくれるというので、玄関に置いてあった荷物を持って2階に上がった。

「ここが千春の部屋やからな」

じいちゃんが引き戸を開けると8畳ほどある部屋に布団一式と勉強机があり、窓からはじいちゃん家の畑と山へ続く道が見えた。

都会で聞くような車やバイクのエンジン音、工事の音、電車が走る音、人の喧騒などの音はせず、セミの音が聞こえてきている。

「掃除は一応したけど、気になるところあったら隣の部屋の物置に掃除道具あるけん、自分でせなぞ。」

「あ、ありがとございます。」

「なして敬語とか使いよっとね!敬語とか使わんでよか!」

じいちゃんはガハハと笑って一階に降りて行った。




2時間ほど経っただろうか、僕が荷物を整理していると、一階からじいちゃんがご飯が出来たと呼んでいる。

僕は返事をすると荷物の整理をやめて一階に降りて行った。

「え、これじいちゃんが作ったの?」 

机には一汁三菜とツヤツヤのお米が並んでおり、とても栄養バランスが取れた献立だった。

「他に誰が作るっていうとか。」

じいちゃんは笑いながら座布団に座ると、手を合わせてご飯を食べ始めた。

そうか。じいちゃんは5年間1人でこの家に住んでいたんだった。

そう思うとなんだか少し胸が締め付けられた。

「さ、早く食べんと飯はどんどん冷めていくぞ」

じいちゃんに急かされ、僕も座布団に正座しご飯を食べ始める。

「どうや?うまかろーが?」

「うん、美味しいよ。」

僕が素直に答えるとじいちゃんは嬉しそうに、もっと食えと笑っていた。




「明日じいちゃんは最近の雨続きで全然行けてなかった田んぼの様子見に行かなやけん、千春はこの辺り散策でもしてくるか?」

「え、この辺りって山と畑と田んぼしかないでしょ」

じいちゃんが作った汁物をずずずっと飲むのをやめて思わずツッコミを入れてしまった。

それを聞いたじいちゃんは目をカッと見開いた。

「何言いようとか!少し歩いたら郵便局があって、15キロ先には道の駅とかもあるとやぞ!?」

いや、どう考えても道の駅は遠すぎるでしょ!?

この辺り散策してって言われて15キロ歩く人いるの?

ていうか、郵便局ってなんなんだ。

行って切手でも買ってくればいいのか?

「…ここにしかない場所とかモノとかはないの?」

ほがそう聞くと、じいちゃんは「そんならな、」といい窓を指差した。

「そこの山登ったら綺麗な景色が見れるぞ、海から上がってくる朝日は美しかとよ」

それは少し気になる。すぐそこだし、明日山に登ってみるか…?

じいちゃんは「サンダルでは行くなよ」とか「水持って行っていけ」とか他にも何か話していたけど、話が長くて後半はもう聞いていなかった。

僕はじいちゃんが話している間、靴はちゃんとしたの持ってきてよかったな。登るまでどれくらいかかるだろう?昼ご飯持って行った方がいいか?と色々考えていた。

そんなことを考えてながら、ご飯を食べすすめているているといつの間にか食べ終わってしまった。

「ご馳走様でした」

「まだ残っとるぞ」

もう食べ終わったつもりだったので、なんなんだ?とじいちゃんの目線の先を見ると、僕のお茶碗に一粒ご飯粒がくっついていた。

「ご飯粒一つに神様7人おるけん、しっかり最後まで食べなさい」

僕は細かいなーと思いつつ、箸でその一粒を掴むとその一粒のお米を口に入れしっかり飲み込んだ。



風呂にも入り自分の部屋に戻ると今まで閉めていた窓を開けた。

建物が古いのか少し軋むので窓を開けるのに少々力がいる。

僕は窓を開けて外を見たが、東京とは違い真っ暗で外はほとんどないも見えない。

少し雨が降った後の匂いがする。

じいちゃんが今日の昼前までは大雨だったって言ってたもんな〜と思い1人で納得した。

突然耳元でブーンと音がしたので、網戸にしてマッチを取り出し、じいちゃんから預かった蚊取り線香に火をつけた。

つけて数秒すると独特な匂いが鼻を掠めた。

その後、じいちゃんが納屋から出してくれた扇風機のスイッチを入れ、首振りしないようにカチッと固定した。

布団と敷き、ゴロンと横になると東京からここまで来た疲れがどっと来て、すぐ眠ってしまった。



翌朝アラームの音で目が覚めた。

時刻を見ると4:00だった。

いつもよりもぐっすり寝ることが出来たおかげなのか、目覚めはいつもより格段によかった。

いつもは蒸し暑くて何回も起きていたが、ここは自然多いからなのか夜の気温はそこまで高くなく、さらに扇風機があるおかげでアラームが鳴るまで一度も起きることが無かった。

僕はささっと身支度を済ませると、水筒やタオルなどをリュックに詰めた。

最後に昨夜作ったサンドウィッチを密封袋に入れたものをリュックに詰め込んだ。

玄関を出ようとしたが、そういえばじいちゃんに今日どこに行くかちゃんと言ってないなと思い、居間に戻って

【昨日話していた朝日を見に山登ってきます】

と置き手紙を書いてから、家を出た。



昨日じいちゃんが道なりに進めば山頂に辿り着くと言っていたので、鹿とかウリボーとかいないかなとキョロキョロ周りを見渡しながら山道を1人で歩いていた。

連日の雨のせいか、緩んだ土に少し足が取られる。

汚れてもいい靴履いてきてよかったー。

動物だけでなく誰ともすれ違わないので、軽く鼻歌を歌いながら軽快に山を登って行った。

しばらく、そんな調子で歩いていたが山を登るにつれて傾斜が厳しくなっているため、一歩一歩が重くなってきた。

「高校に入ってからの運動不足のツケがここで回ってくるとは…」

小さく独り言を呟き、持って来ていた水を一口飲みこんだ。

それから適宜、水を取りながら自分のペースで頂上を目指した。

山に入ってから1時間半ほど歩くとようやく山頂が見えてきた。

すでに若干空が明るくなってきている。

目的地が見え少し足が軽くなったように感じた。



「ようやく着いたぁ〜…」

両手を両膝につけて肩で息をしながら呼吸を整え、視線を地面から正面に移した。

朝日に照らされた山々は突き刺さるような光と深くどんよりとした暗い影の対比が美しくなぜだか引き込まれそうな感覚があった。

そして、山々の先に小さな港町があり、さらにその奥に朝の透き通った空気の中に存在感を放つ朝日が海をキラキラと反射していた。

僕は口から自然と綺麗だなぁとありきたりな言葉を呟くと近くにあった座れそうな岩に腰を下ろして、昨夜作ったジップロックに2枚入っているサンドウィッチをリュックから取り出した。そこから一枚だけ取り出して朝日がゆっくり昇っていくのを見ながらサンドウィッチを頬張った。食べ終わった後も水を飲んだりしながら、その景色をしばらく眺めていた。




「そろそろ帰るか」

サンドウィッチは2枚作ったのだが、1枚でお腹はかなり満足してしまった。

じいちゃんがなんか作るならいっぱい野菜つかえ!とトマトやらレタスやらをサンドウィッチを作っている僕に昨夜たくさんくれたので、一枚のボリュームがかなりあるからだ。

残っているもう一枚をジップロックから出さずにそのままリュックに詰め込むと、僕は腰掛けていた岩から降りて緩んでいる靴紐をキツく結び直した。



朝日を見るという目標を達成したためか登りの時に比べて、山をノロノロと降っていた。

しばらく降って行くと山道から外れた方からカサカサ音がする。

音のする方へ目をやると、目がクリクリしていてとても可愛い子鹿がこちらをじっと見ていた。

親鹿の姿はどこにも見当たらない。

「ママとはぐれちゃったのかな〜?」

初めての野生の鹿を見た僕は心が高鳴っていた。

僕は頬を緩ませ警戒されないようにゆっくり子鹿に近づき、携帯で写真を取ろうと近づいた。

すると、子鹿はぴょんぴょんと跳ねるように山道から外れた道に行ってしまった。

僕は初めて見た子鹿で気持ちが高揚したせいか、新天地で心が浮ついていたせいか分からないが、いつもの僕ならそのまま子鹿を諦めて山を降るところを、この時の僕は子鹿を追って細い獣道に足を踏み入れてしまった。



「あれ、見失った…?」

子鹿を追いかけて来たはずが、いつの間にか子鹿を見失ってしまった。

周りをどれだけ見渡しても子鹿はいないし、ここが何処かも分からない。

「…もしかして迷った?」

今まで浮ついていた気持ちがサーッと冷めて、僕は慌てて携帯でじいちゃんの家にある固定電話に電話を掛けようとした。

しかし、携帯の電源をつけると画面の右上には圏外と表示されていた。

「…圏外?」

僕の頭の中に〈遭難〉という文字が浮かんだ。

何も知らない土地にある山で山の知識も無い僕が遭難した場合助かる可能性はあるのだろうか。

慌てるな、冷静になれ。冷静になれ。冷静になれ。

そう思っても冷静ではいれなかった。

「誰かーーー!いませんかーー!!!」

そう叫んでも返事する声は聞こえない。

そんな時に、昨日じいちゃんが言っていたことを思い出した。

「山道外れたら、もうそこは人間がどうこう出来んくなる。千春、明日はまっすぐ帰ってこなぞ。」

そんな言葉を思い出して、心から不安が溢れそうになる。

山で遭難した時何をすればいいのか、事前に調べておくべきだった。

今更そんな後悔が募る。

とりあえず来た方向へ戻ろうと足を動かしたが、しばらく歩いても山道に戻れそうな気配はない。

もうダメだと諦めかけた時、かすかに水の流れる音が聞こえた。

もしかしたら沢があるかも、それを辿れば人里に降りられるかも知れない。

僕は水が流れる音がする方へ歩みを進めた。



少し歩くとゴツゴツした狭い岩の間を水が流れていた。

岩肌には苔がところどころ張り付いており、注意して移動しないと滑り落ちそうだった。

流れている水は濁っており、飲めるような水では無く木の枝なども混ざっている。

山の水は飲めるときいたことがあるけど、あれは嘘だったのか?

リュックの中にある水筒は残り2割もないので、もしかしたら水を補給出来るかもしれないと考えていたが無理そうだ。

僕は沢に沿って山を降り始めた。

しばらく歩くと、激しく水が打ちつける音がする。

先に何かあるのか?

そのまま進むと4メートルほどの崖があり、そこから水が打ちつけているようだった。

ここからは降られないな。

でも、ここからどうすればいいか全く分からない。

僕は来た道を沢に沿って戻ることにした。

体力も気力も限界だったが、さすがに崖は降れない。

そう思って沢に沿い来た道を戻ろうとした時、岩に張り付いている苔に足を滑らせた。

「え?」

そのまま崖から落ちた僕は意識を失ってしまった。



視界がぼやけている

僕は崖から落ちたのか…。

とりあえず身体を少し動かし、ちゃんと動くのを確認してそのまま出来る範囲で身体を起こした。

高いところから落ちているせいか、やはり全体的に身体は強く痛む。

ぼんやりしていた目がハッキリと見えるようになってきたので自分の身体の状態をまず見ることにした。

手や脚、お腹辺りに擦り傷があり右足を少し捻っている程度の怪我はしていたが大量の血が出ていたり、骨が変な方向に飛び出していたりはしていなかった。

4メートルから無防備な状態で落ちて大きな怪我がないって奇跡だろ。

当たりどころが悪ければ死んでいてもおかしくはない。

近くにある岩に頭をぶつけていたら即死だっただろう。

そんなことを想像すると寒気がした。

僕は服についた泥を払うと、右足を庇いながら立ち上がった。

さて、ここからどうしたものか…

問題だった崖はどんな形であれもう突破したのでそのまま沢に沿って山を降るか?

そう思い水が流れている方を見てみると様子がおかしい。

沢の水の流れが止まっている。

崖の上から打ちつけていたはずの水の飛沫すらも空中で止まっていた。

「な、なんなんだ。これ…」

考える余地もなく固まる僕の耳にチリンッと鈴の音が聞こえた。

…鈴の音?

なんで今このタイミングで鈴の音が聞こえるんだ?

今日、鈴なんて持ってきていない。

僕はゆっくり音のする方に身体を向けた。

「なぜ、人間がここにいる。」

次に耳に入ってきたのはそんな台詞だった。

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