第一話 誘い

 村全体を覆うようにして降る雨は、酷い雨だった。風が巻いて、雨が横殴りに降ってくる。窓にもひっきりなしに、大粒の雨滴が重たく叩き付けられていた。


 旅の道程はまだまだ長い。


 けれど、ここで暫く足止めになりそうだった。この時期の嵐は、軽く一週間は続くと宿の主人は言っていた。


 毎年の事なのだそうだ。


 この嵐が来てくれないと麦の収穫に影響するらしい。


 村人にとっては、この嵐は必要なのだ。


 とは言え、宿に閉じ込められて早三日。いい加減、暇も持て余す。酷い嵐で、散策すら出来ないからだ。


 陸王りくおう雷韋らい紫雲しうんも例に漏れず、宿に閉じ込められて暇を持て余していた。


 村の宿はこぢんまりとしていたが、四人部屋が三つあった。行商人が来たり、旅芸人が来たりするため、部屋割りがこうなっているらしい。


 部屋は陸王と雷韋が一部屋を使い、紫雲がもう一部屋を使うという二対一に別れていた。別に三人で四人部屋を使ってもよかりそうなものだが、陸王が難色を示したのだ。


 はっきり言って、陸王と紫雲の仲はさほどよくない。だからと言って、特別仲が悪いというわけでもないのだが。今回はたまたまこの形で別れてしまっただけだ。街の宿に泊まるときなどは、雷韋と紫雲が同室になることがままあった。その方が一人部屋を借りるより、金が浮くからだ。特に金の使い道が、食費に全振りの雷韋には大助かりだった。


 紫雲が部屋で本を読んでいると、唐突に扉がどんどんと乱暴に叩かれた。


 驚きと咄嗟の反射で、


「開いていますよ」


 紫雲は扉に向かって声を投げる。


 すると扉を開けて入ってきたのは、腐りきった顔の雷韋だった。


「紫雲~、暇だぁ。なんか面白い事ないかぁ~」


 気力もなくした雷韋が部屋にふらふらと入ってくると、紫雲は小さく笑った。


「陸王さんはどうしたんです?」

「刀の手入れしてる。俺が暇だっつっても、全然相手にしてくんね。だから出てきた」

「暇なら、君も本でも読みますか?」


 椅子に腰掛けたまま、紫雲が問うてくる。


「どこの? なんの?」


 どこの本であるか、なんの本であるかは重要だ。一般的に人間族は、文字の読み書きが出来ない。それに、本を所蔵している場所は限られている。


 大体の場合、そのほとんどが教会や修道院なのだ。


 だから雷韋は胡散臭げに紫雲を見遣った。


「宿のご主人が、教会から借りてきてくれたものです」


 それを聞いて、雷韋は酷く嫌そうに顔を顰めた。


「教会にある本って言ったら、教義のことしか書いてねぇじゃん。そんなの読むの嫌だよ」


 雷韋はこの世の原初神である光竜こうりゅうに創られた獣の眷属だ。教会にある書物は、各種族ごとに分類された差別的な内容がほとんどで、そんなものを雷韋が好き好んで読むわけがなかった。宗教に関するものは、雷韋にはつまらない以上に不快だった。


 紫雲もそれを分かっているのか、雷韋を見て笑いかける。


「私も宗教に関する本は嫌いです。暇潰しに読む本の中身のほとんどが、暗唱出来てしまうくらい知り尽くしているんですから。ですが、今読んでいるのは少し違いますよ」


 今、紫雲が目を通しているのは、珍しく有情滑稽ユーモアに関する書物だった。三冊借りてきてくれた中の一冊がこれだった。ほか二冊はざっと目を通しただけで、本当に暗唱出来てしまうものだったのだ。いくらなんでも、そんなものを改めて読みたいとは思わないのが普通だ。


 雷韋は入り口近くの寝台に寝っ転がり、


「宗教の本なんて読んでられるかよ」


 ぶつくさとと反発を返す。


「今、私が目を通しているのはちょっと代わり映えのするものですよ。宗教とはほとんど関係ありません。まぁ、全く関係ないとは言い切れませんが」

「例えば?」

「『神は笑ったか?』『笑いは悪魔の風か?』『笑うと人の顔は猿になるのか?』など、そんな事が書かれています。そのほとんどが、笑いを禁忌とする考え方に対しての風刺ですけどね」

「ふぅん。……やっぱ、いらない」


 雷韋はそう言って、ふて腐れたように寝台に大の字に延びた。


 と、部屋の扉が軽く叩かれた。叩かれたかと思った瞬間、扉が開く。いらえを返す間もなかった。


「邪魔するぞ」


 そう言って入ってきたのは、陸王だった。


「陸王、どうしたんだ? 吉宗の手入れは?」

「陸王さん、どうしたんですか?」


 二人が同時に口にする。


「吉宗の手入れも終わったんでな、雷韋に少し剣の扱い方を教えてやろうと思った」


 陸王が言うと、


「俺の?」

「雷韋君の剣技を?」


 そこでも二人は同時に口にし、困惑した表情になる。


 そんな二人の戸惑いなど知らんという風に、陸王は言った。


「雷韋、お前、剣術の腕はまだまだだろう」

「え? そりゃ、侍のあんたからしたらまだまだけどさ。どうせ俺は、盗賊としてしか剣術の指南は受けてないし」


 それを聞いて陸王は小さく頷くと、親指で廊下を指差した。


「手合わせしてやるから、出ろ」

「廊下で?」

「そうだ」

「いくらなんでも狭いだろ」


 雷韋が文句のように言うと、陸王は眉根を寄せた。


「狭い場所だからいいんだろう。限られた空間で、どれだけ自分の技を有効に使うか考えられる」


「だけどさぁ、幅は二メートルもないんだぜ」


 上体を起こして言い遣った。その口調は「無茶だ」と言っている。


「いいから来い」


 陸王は雷韋の言葉を無視して部屋から出ていった。それを見送って、雷韋は天井を仰ぐと難しい顔になる。


 そんな雷韋に声をかけたのは紫雲だった。


「雷韋君、試しにやってみたらどうです? 面白そうじゃないですか。私は見学させて貰いますから」


「あ~、俺、コテンパンにされる~」

「その前に止めてくれますよ。陸王さんも暇なんでしょう。三日も何もする事がなくて」


 苦笑する紫雲に、雷韋は言った。


「それなら、俺の代わりに紫雲が遣り合ってくれよ」

「ご指名でしょう?」


 にこやかな紫雲の言葉に、雷韋は盛大な溜息をつくと、寝台から渋々と言った風に下りた。そのまま紫雲と一緒に廊下に出る。


 廊下の向こうでは、陸王が既に吉宗の刃を抜いて待っていた。


「遅いぞ、雷韋」


 そういう陸王に、紫雲が声をかける。


「見学、いいですよね?」

「好きにしろ。……ほら、雷韋。お前からかかってこい」


 陸王は廊下の真ん中に立ち、刃を正眼に構える。それは、どこからでもかかってこいという構えだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る