戻れる保証のない夢で覚める

 上手い事口車に乗せられた。

 最後の最後に独り言のように呟いていたのは、明らかに俺を嵌めたという自覚があったのだろう。

 嘘、というのはきっと死が当たり前ではないという話だ。そんなことは頭では分かっている。俺が躊躇したのは、寝ている間に死んでしまうことだ。それなのに、動揺していた胸の内がふと軽くなって、その心地にそのまま乗ってしまった。その時には、後の祭りだった。

 どうしよう、なんて言ったところで、どうにもならない。どうにかするしかない。幸い、まだ夢を見れるか、過去へ戻れるかは分かっていない。

 そうであるなら、この思考はどの時点での俺がしているのだろう?

 少しふわふわとした感覚があるのは、きっと打たれた薬のせいだ。左腕を動かしてみる。が、繋がれているはずの管の重さや、それらを固定しているはずのサージカルテープの違和感もない。

 おかしい、よな。

 姿勢も、なんだかベッドに横たえている時の快適さはない。窮屈な感じ。

 トントン、と肩の辺りに弱い衝撃があって、軽く払う。

 パシッ!

「!」

 払った手を、今度は叩かれた。

 無機質な感じではなく、ちゃんと温度のある、そして加減の知っている手。

 脳が一気に覚醒して、目を開け、同時に顔を上げた。

「やっと起きた。堂々と居眠りたぁいい度胸だ。立って教科書読め」

 一八六ページ、と言われるも、顔を見たところでどの教科の担当だったかなど思い出せない、目を泳がせ、後ろを見たところで女子が小さく笑うのが聞こえた。

「なんだ、教科書忘れたのか」

「あ……いや、すみません」

 すぐそこに立っている教師にもう一度視線を向ける。手元にある教科書は国語だ。

 今度は黒板へと目を遣る。

 達筆とは言い難い、癖のある男が書いたにしては丸い字で『尊敬語』と書かれていた。

 パララララ、とページを一気に送り、開き癖のついたところの、さらに少し後ろのページを開く。

 懐かしい教科書は書き込みも少なくて、ノートも必要最低限しか書いていなくて、本当に授業を受けていたのか不安になる。

 そんなのでも、テストでは高順位に入れるような田舎だ。

 正直な話、調子に乗っていたと思う。

 周りの奴らよりも賢くて、割となんでも知っていて、ちょっと悪い事--適当な理由で授業をサボるとか、ノート提出の期限を守らないとか--をしても、大体は見逃してもらえていた。

 嫌われて当然だったと思う。

 たまに、こうして俺のような生徒を正そうとするこの国語教師のような人がいて、それを軽くあしらっていたとしても、それすら厳しく咎められなかった。

 居心地のいい場所は少なかった。全ての大人が親父のように感じられて、息苦しく、窮屈に思っていた。

 親父は確かに賢い。

 こんな田舎の狭い価値観・尺度で見た時ではなく、比較的どこにいた時でも、賢いと位置付けられるような人だ。

 反抗期の俺など、確かに鼻で笑って済むようなものだろう。俺の誇っていた賢さなど、見下して塵とともに掃いて捨ててしまえるようなものだろう。

 今だから分かることだ。

 モラハラ気質ではあるものの、それも接し方さえ間違えなければいい話だ。お袋に対してはそんなふうにしているのを、見たことがない。

 親父にとって、俺は本当にオモチャのような、退屈な日々の中に転がっている、“現在”でいうところのスマホゲームのようなものだったのだろう。

 変えなければならないのは、人間性だ。

 顔なんて二の次だ。どんなものででも補える。人間性はそうはいかない。付け焼き刃でどうにかできるテストとも違う。

「依田、音読」

「あ、スンマセン」

 じっとしている俺を見かねた国語教師の丹内たんないが、先程までと比べるとやけに柔らかい声で俺へと促した。棘のない、心配そうな声。森のとはまた違った、敵ではないと示すような声だった。

 カタン、と椅子の脚を床に打ちつけて立ち上がり、教科書を両手で持つ。

 慣れない文を音読するのは苦手だった。

 似たようなところで噛んだり、言い回しを変えてしまうことがよくあって、それを陰でコソコソと言われるのが苦痛だった。

 それでも、教師に言われたことをやらないわけにはいかない。ノート提出とは訳が違う。授業中に求められ、行動すればすぐに終わるものだ。

 ほんの一、二分の我慢。

 そう言い聞かせて声を出し、辿々しくない程度にゆっくりと読む。分からない漢字などないから、なんだか昔よりもスムーズに読めたように感じた。

「よし。じゃあ続き、木田」

「はい」

 読み終わると、教師は特に何も言わず後ろの先の奴を指名した。

 これは、ただの夢だろうか。それとも、俺はあの医者の願いを叶えてしまったのだろうか。

 そんなことを考えていると、授業は終わりを迎えていた。

「依田、ちょっと来い」

 手招きながら、丹内は教科書やなんやを纏めている。

 またか、とは思ったものの、職員室へ呼ばれたのではないから席を立ち、教卓へと向かう。俺が立ち止まると、小脇に教材を抱えた丹内はじっと俺を見て、眉間に薄く皺を寄せた。

「調子悪いのか?」

「い?いや……そんなことはないです」

「ふーん」

 納得していないような顔で言いながら、丹内は少し考え込むように右上を見る。束の間そうしたかと思うと、何度か頷いて再び俺の目を見る。

「お前、結構溜め込みやすいだろ。爆発しないように、ちゃんと息抜きしろよ。話ならまぁ聞いてやるし」

「いや、いいですよ」

「そういうのも教師の仕事なんだよ。友達とか親にも言いにくいこととかあんだろ」

「それは……、まぁ」

「な?そういうくだんないことでもなんでも、話したい時は部室でもどこでも来ていいから」

「部室?先生何部でしたっけ」

「ボランティア部」

「似合わね」

「な」

 じゃなくてさ、と言って、丹内は短く溜息を吐く。

「あー、耳貸せ」

「耳?」

 内緒話をする女子のように片耳を丹内に向けると、丹内は少し声を低くして、それでも女子のようにはせず口元を手の甲で隠しもせずに言った。

「何人かの先生がな、お前のこと心配してんだよ」

「え?なんで」

「様子が変だとさ。まぁお前普段は居眠りしないのに今日はしてたし、そういうことかもな」

「いや居眠りは今日ほんとに初めて」

「じゃあ他のことだな。まぁ、アレだ。お前が思ってるより、先生はちゃんとお前のこと見てるし、ちゃんと心配してるからな」

 ジワッ、と胸の辺りが熱くなった。

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