老いた医者は夢の中で叶えた
長い問答を終え、解放されたのは入室から二時間後のことだった。
長い割に中身のない、他人の過去をただ尋ねては相槌を打ち、更に問いを重ねる。そんな問答になんの意味があるのかなど俺には分かり得ず、重い足を引き摺ることが精一杯だった。
「おい、今回のは期待できるらしいぞ」
「聞いた。つか、さっきチラッと見たけどアレは“如何にも”って感じだったわ」
廊下の先、関係者以外立入禁止の札がある重苦しい防火扉の向こう側。そこでなにやら話しているのは勿論この病院の関係者で、医者なのか技師なのか、看護師なのかは不明だが、明らかに人を小馬鹿にしていると分かる声色だった。
「隔離決定か?」
「バカ。“検査入院”だろ」
「ああ、それそれ。いやぁ、どんな感じなんだろな。楽しみだわ」
クツクツと喉を鳴らしながら、非常階段があるらしい防火扉を潜って出て来たのは、白衣を纏った若い男二人だった。ネックホルダーは白衣の胸ポケットにクリップで留められ、揃って“医師”と記されている。
片方の、俺より幾つか歳上と思われる医師が俺を見て、あ、と小さく音を漏らした。それと同時に、緩く上がっていた口角はクッと力を入れて上げられ、目元は細められる。
「こんにちは」
「あ……こんちわ、」
咄嗟に返した言葉は小さく、彼らの耳に届いたかも定かではない。別に聞いてほしい訳ではないし、向こうが言ってきたから返しただけで……と、頭の中で言い訳を並べ立てる自分が情けなくなり、カッと顔が熱くなった。
彼らと同じ方向へ行くことはなく、どこか安心する。……いや、同じだったとしてどうということはない。この広いようで限られた箱の中ではごく自然なことなのだから。
そんなことよりも、早く健康診断受付へと戻らねば。
早足で人の多いロビーや廊下や待合室を抜け、奥へと追いやられた健康診断受付にやっとのことで辿り着く。諸々の検査全てが一箇所で済まないのは面倒だ、と内心嘆きながら手渡されていた番号札を提示する。と、すぐさま奥にある診察室へ向かうよう促された。
「依田さん、こちらお掛けください」
診察室に入ってすぐ、看護師に促されるままちゃちな作りの丸椅子へと腰掛ける。医者は神妙な顔付きでもなんでもなく、帰っていいですよ、なんて今にも言いそうな無表情でいた。
だって、当たり前だろう。ただの“健康診断”で来たのだから。
「依田さん、少しご協力いただきたい臨床試験がありまして」
「は」
医者の口から出て来たのは俺の予想と真逆の話で、今でも検査に引っ掛かったことなどない俺には馴染みのない言葉だった。
「臨床試験?」
「ええ、難しいものではありません。依田さんにご協力いただきたいのは、少し特殊な症例のデータ収集でして——」
「え、特殊?なんか……え、俺、どっか悪いんですか?」
至極当然の反応だろう、と自分に言い聞かせながら医者の説明を遮って問い掛ける。聞かれた医者はふと表情を緩め、違うんです、とひらひらと手を振って否定した。
「検査結果は至って良好、健康ですよ。安心していいと思います。」
「え、それならいらないですよね。なんの試験ですか?」
「健康だからお願いしたいのもありますが……興味ありますか?」
駄目だ、頷くな。
頭はクリアで理解している。だが、これから目の前の医者が吐き出す言葉が、気になって、興味が唆られて仕方がない。なんだって俺なんだ。健康だから、ってなんだ。
視界が小さく縦に揺れた。
「依田さん、セイシュンケツボウショウ……って、聞いたことありますか?」
無意識に頷いていたらしい俺に医者が問い掛けた。
「せい、しゅん……?」
なんとも馬鹿げた名称だ。だが、なぜだか俺のことを言われているように感じられてキン、と耳鳴りがする。
「どんな、症状なんですか」
どんどん嵌まって抜け出せなくなる。これを聞いたら最後、もしかしたら機密を知ったとなって消されるかもしれない。オカシナ薬を打たれて廃人にされるかもしれない。
「自覚症状は殆どないんです。所謂“青春”というものを満足に謳歌出来なかった人が陥りやすいようで……治療法もない。けれど、ある日寝て目が覚めたら、綺麗な家に過去に恋した人がいて、なんとそれは自分の持ち家で、片思いに終わった相手と結婚していた--なんて夢のようなことがあるとか、ないとか」
玉手箱でも開けたのか。ソイツは。
「は……?そんなこと、あるわけ--」
「まだ都市伝説レベルの話でしかないんですけどね、実際にあるみたい、というかあるんですよ。」
「いやいやいや、有り得ないでしょ。映画とか漫画とかアニメとかの世界じゃないですか。胡散臭い。信じません。俺、健康なんですよね?悪いとこないんですよね?帰っていいですよね⁈」
到底受け入れられないような御伽話を聞かされて、堪らず椅子から立ち上がる。と、哀れむような目で俺を見て、医者はまたふと笑った。それが不快で「なんですか」と無意識に吐き捨てると、医者は口を開いた。
「今の、私の話なんですよ」
同席していたはずの看護師はいつの間にかいなくなっていて、診察室には俺と医者しかいない。確かに医者のシワシワで不健康そうな白い左手薬指にはシルバーの指輪が光っていて、既婚者であることを示している。
が、医者だ。引く手数多だったろう。
「私はね、ずっと勉強しかしてこなかったんです。子どもの時からずっと。今も学ぶことが好きです。けどね、そんな生活だと、恋愛の仕方なんて分からないんですよ。ずーっと眼鏡かけて本読んで……そういう同級生いませんでした?モテないでしょ?いつの時代でも。大学も真面目に通ってバイトの暇なんてない。医師免許を取ってからも研究に明け暮れて……ああ、普段は研究室にいるんです。解剖とかは向いてませんでして。血がねぇ、苦手で。」
時折求められる相槌に応えるが、その口調は色恋なんてしたことがない、と俺に言い聞かせている。医者というカテゴリだけで考えると、機会がなかったわけではなかったのだろう。だが、確かにこの歳を食った医者はモテるタイプではない。こう、如何にも真面目そうな、女が寄ってきても引いてしまうような弱々しい印象だからだ。
「そんな私がある日、三日も寝てたって言うんです。仮眠室から出て来ないから、いよいよアイツ死んだか!なんてみんなで話してたらしいんですよ。ひどいでしょ?ふふ……私はそんなこと知らないから、寝て起きて、ノソノソ研究室へ戻るじゃないですか。その時言われたんです。『奥さん心配してましたよ』って。デスクに紙袋が載っていて、着替えとメモ紙が入っていて……でもずっと独身だったから、姉でも来たのかと思ったんですがね、メモに書いてあったのが初恋の人の名前だったんです」
不思議でしょう、と笑い掛ける医者は嘘を吐いていない。そうだと分かる程、真剣な目をしている。
「家に帰るとまたびっくりですよ。知っている家じゃないんですから、それはもう綺麗な……私のセンスでは選ばないようなコジャレた家で、間取りは広くないんですけどね、居心地のいい、いい家なんです。そこに、初恋の人の面影のある綺麗な人がいたんです。…‥もう、いいかって思いましたね。頑張ってきたご褒美かなぁ、とか思って、受け入れました。ハハハ……ハァ。」
自嘲気味な笑みでありながら、その顔は幸せそうだ。
「ひとつ、覚えているんです。ぼんやりとですけど、夢を見ていたんですよ。学生時代の……丁度、妻を好きになった頃かその少し前くらいの。それだけが、手掛かりなんです。……どうです?面白そうでしょ」
下手なネズミ講の方が胡散臭く思えてきたこの胡散臭い話に、俺は少し期待してしまう。
やり直せる?人生を?あの息苦しかった時期を?しかも、寝ている間に?
理性的な俺がそれを否定しても、理想に憧れてやまない本質はそれを喉から手が出る程欲している。
決まっているだろう。
俺だって幸せになりたいのだから。
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