「食べました?」

七王子

「食べました?」

「わたしのアイス、食べました?」

 冷凍庫に向かって尋ねた。返ってきた小さな『ぅぃぃん』という音が、食べたと言っている。ならば今すぐ買いに行かねばならない。わたしはいつも着ている上着と帽子を掴んで部屋を出た。カンカン照りの青空の下、ひどい湿度に眉をしかめながら、無力な魚が泳ぐように汗を滴らせて、足早に歩いた。

 コンビニは空いていた。というか客がいなかった。レジにすら店員がいないのを横目に見ながら、雑誌が並ぶ棚を抜けてアイス売り場に向かう。色とりどり、より取り見取りのアイスたちを眺めていると、胸より上に冷気を感じ、どこか安堵する自分はどうにかして生物として生きるための均衡をとろうとしているようで、滑稽に思えた。ようやく汗が引いてきたので、赤いふたのアイスを一つ手に取る。レジにはまだ店員がいなかったので、ここは試しに万引きをしてみようかとも考えたが、この暑い中を走って家まで帰るのは体力的に厳しいものがありそうだったので、大人しく代金を支払うことにした。

「すみません」

 バックヤードに向かって声を掛けるが、返事どころか物音ひとつしない。レジカウンターに置かれた小さなベルを鳴らしてみるも、より鋭い沈黙が返ってきただけだった。このままではアイスが溶けてしまう。わたしは一度商品をアイス売り場に戻し、再びレジからバックヤードの様子を窺った。困ったな。もしかしたら店員は裏で寝ているのかもしれない。試しに大声を出してみようか。あるいはベルを何度も鳴らせばさすがに気づいてくれるだろうか。憂鬱だった。ここにいるのに誰にも気づいてもらえないなんて、中学の頃以来に味わうみじめな気持ちだ。

「あのお、あなた誰ですかっ?」

 背後に見知らぬ男性が立っていた。コンビニの制服を着ている、二十代か三十代の男性だった。なんだ、店員いたのか、と思った直後、彼が着ているのはここのコンビニの制服とは違うことに気がついた。誰ですか、はこっちのセリフだ。そう思って息を吸ったとき、男の顔は天井にあった。

「あ……」

 間抜けな声を出しながら、わたしは男と見つめあい続けていた。そして遅れて理解する。これは夢なのだと。それも悪い方の。ああそうか、と思う頃には男の顔はわたしの頭上を通り過ぎようとしており、叫ぶ代わりにその場にしゃがみ込んだ。男の体が徐々に店内に広がり、周囲が暗くなっていくのが、目を閉じていてもわかった。男の『誰ですか?あなた、誰ですかっ?』という声が何度も繰り返されて、そこら中に反響する。

 夢ならば覚めるはずだった。背中のすぐ近くに気配がする。呼吸を感じる。すぅはぁ、誰ですかっ? 声は止まらない。止まらなかった。つまりこれは現実だ。ならばやることは一つだろう。

「アイス、買わないです! いらない! です!」

 目を閉じて駆け出した。コンビニ店内の配置を脳裏に思い浮かべながら、全ての商品を床にぶちまけてでもこの場所から抜け出してやる、それほどの勢いで走った。冷えた空気からどっと苦しい暑さに全身が包まれたとき、ようやくわたしは目を開けた。見上げれば蒸し暑い青空が底抜けに広がっていて、強い太陽の光線が肌に突き刺さるのを感じながら、生き返る心地だった。


「あなたがわたしの分を食べたせいですよ」

 涼しいキッチンでそう問いかける。冷凍庫からの小さな『ぅぃぃん』という返事はどこか気の抜けたもので、知ったこっちゃないよとでも言いたげだった。正直許せなかったが、もう過ぎたことだと思いなおしてその場を離れた。食べたかったアイスはないが、代わりに飲むタイプのゼリーがある。疲れ切っていたので、冷たいものならもう何でもよかった。冷蔵庫を開けて目当てのものを取り出すと、同じ段に置かれた一枚の封筒が目に入った。どうして封筒を冷やしていたのかという疑問はひとまず置いておき、封を開ける。中に入っていたのは、他人の身分証明書だった。こんなもの、わたしが持っていたらまずい。誘惑に負けて悪用してしまう前に、警察に届けよう。

「あ、これ、もしかしてあなたの?」

 念のため冷凍庫に訊ねてみた。機嫌が悪そうだったので無視されるかと思ったが、意外にも答えは返ってきた。背後から。

「あなたの、ですね」

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「食べました?」 七王子 @saitarumono

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