『天才』が変えた世界で、人々は生きていく。
雨隠 日鳥
「ざまぁ見ろ、『凡才』ども」
七月二十日、一学期の定期考査も終わって俺を含めた生徒達は夏休みに思いを馳せている頃。俺は学級委員としてクラスメイト全員分の提出課題を持って職員室に向かっていた。
県立神楽宮高校。その名前を聞けば、ああ、あの賢いところの、という反応が決まって返ってくる。とりあえずそれくらいの高校に俺は一応籍を置いている。
それも特待生――成績優秀者として。
別にそれを自慢している訳ではない。
勉強や運動なんて、それなりに努力さえしていれば、誰だって、できることだ。
それをわざわざ鼻にかける程、愚かではない。
「なぁ、やっぱり変だよな」
職員室の扉をノックする直前、そんな声が中から聞こえて、手の動きを止める。
息を潜めて耳を澄ますと数人が何かを訝しみ疑っているらしい。当然、その声は教師達のものでその声の中にはクラス担任もいた。
(何の話だ?)
そう思いながらも、このまま扉の前で盗み聞きをするには、今の季節は向いていない。こうして立っているだけで身体中から汗がダラダラと湧き出てくる。
流石にクラスメイトのノートを汗まみれにするのはよろしくない。盗み聞きは諦めてノックをして、扉を開ける。
「失礼します。一年二組、
「ああ、ご苦労さん」
担任兼現代文教師の進藤先生が、やる気なさげに言う。先程までの話は一度中断のようだ。
ということは、何か生徒に関わる話なのだろうか。そうであれば確かに俺の前では口を噤んでも仕方がないかもしれない。
しかし、気になることは聞いて調べるのが俺の性分である。
「ノートはここ置いときますね。で、さっき何か話してませんでした?」
「ん? あー、いや。……まぁ、お前ならいいか」
目配せで残りの教師達も頷く。進藤先生の他に居るのは数学の来見先生と英語の中浦先生。彼らの共通点をあげるとすれば、どちらも一年二組を担当していることくらいだろうか。
つまり、彼らが話していたことは、クラスメイトの誰かしらに関わる可能性が高い。まぁ、実は全然違う可能性の方が高いのだが。
「頼むから誰にも言うなよ。こういうの漏らしたって噂されるとマジで俺らの給料に直結するんだからな?」
だったら別に言わなければいいのに、とは思うもののだったら聞くなという話だ。二律背反の思考を頭の隅に追いやって、話を聞く。
進藤先生は、流石は現代文の教師というべきか、分かりやすくかいつまんで説明をしてくれた。
「――つまり、一学期の定期考査でとある生徒が各教科で全く同じ点数を出していた、と」
「ああ。俺が気付いてただの偶然だろうと思ったんだが、なんとなく気になってな。んで聞いてみればどの教科でも中間と期末で点数が同じだったんだよ」
「ちなみに各教科の点数を教えて貰っても?」
「いや、流石に。名前隠してるのに、それじゃあ、意味ないだろうが」
「まぁそうですよね」
ふむ、と少し考える。各教科の中間考査と期末考査が同じ点数だった。但し各教科毎では点数は異なる。一つの教科が前回と同じ点数というくらいならあり得るが、五教科全てでそれが起こっているのであれば偶然とは言い難い。
だが――。
「で、新田。お前はどう思う?」
「どうとは?」
「お前、頭良いだろ?」
「まぁ学年トップスリーは死守してますけど」
「涼しい顔で言われるとムカつくな。まぁ、その学年トップスリーのお前だったら、できるか? 意図的にそんなこと」
「いや……、難しいと思いますよ」
「俺もそう思う」
「多分ですけど、それなら普通に成績上位を目指す方が簡単だと思います」
点数を調整する。テストに点数配分を書いてくれている教科もあるが、そうでない教科だってある。
そんな中で任意の点数になるよう調整するとなれば、テストの作成者がどういう配分にするかを予想して正解する回答を選んでいく必要がある。それは単純に勉強を頑張るなんてことよりも、もっと難しいことだ。
「やっぱ、そうだよなぁ……」
「ちなみにですけど、それでその生徒のことを呼び出しとかしたり?」
「いんや、まさか。まぁ個人的に事情は聞くかもしれないけど、別に成績下位とかでもねぇしな。一回聞いて、それで終わりだろうよ。過干渉すると色々と面倒クセェからな」
「あははは、確かに。色々なところから色々と言われそうですよね、今のご時世」
・・・
職員室を出て、教室に戻りながら考える。
「……
クラスメイトの名前を呟く。恐らく、彼女だろう。大した理由もなく、少し素行不良の彼女の名前が思い浮かんだ。
・・・
高校二年の夏休み前。つまるところ、とある生徒の噂を聞いてから丁度一年。
「――それで? 急に呼び出して、何の用かな? 新田くん」
住良木真里。やはり噂のとある生徒とは、彼女だった。去年に引き続き、同じクラスになったのはただの偶然だ。
だが、だから丁度良かった。
プライバシーの侵害
「もしかして、いつも授業中に寝ていることを咎める為? それとも陸上部に参加せず勝手に帰ってることを注意しろって先生に言われた?」
彼女は自身の机に腰掛けて、足をぷらぷらとさせながら住良木はそんなことを言う。言葉の通り、彼女は去年と変わらず素行が少しよろしくない。とはいえ、授業中に眠っているからと教師に当てられるとあっさりと答えてしまう。
話を聞いていないという訳ではない。何もかもに対してやる気がない。そういう態度だった。
「まぁ、それもあるけど、そんなものはついでだな。俺が聞きたいことは別のことだ」
確かに彼女の素行に対しては、担任から生徒の立場から何か言えないかと相談をされていた。それこそ今がそのチャンスなのかもしれないが、しかしそんなものはどうだっていい。
「……ふぅん、私には心当たりないけれど」
「じゃあ、単刀直入に。――どうして、君は手を抜いている? 自分の成績、実績を真ん中辺りに調整している?」
尋ねた瞬間、彼女の雰囲気が変わった。
「っ」
その冷たい瞳に、思わず呑まれそうになる。
「へぇ、気付かれるとは思わなかった。……いや、違うね、君なら気付くチャンスはありそうだね。それだけ君は教師達から信頼されているって訳か。流石は優等生」
「…………」
ああ、と俺は思う。
住良木は、俺がどうやって今回の件に気付いたのか、そのキッカケについて答えを得たのだ。
「先生の名誉の為に言うが、名前までは言ってなかったからな。意外とその辺り先生達はみんなちゃんとしているよ。そういう生徒がいた、って聞いただけ。後はそこから、俺が個人的に突き止めただけだ」
「ふぅん。どうして突き止めようとしたのかな?」
「好奇心だよ。単純に興味が湧いただけだ。すげぇ奴がいるらしいってなれば、ちょっと気になるだろ」
「すごい? 私の順位は平均点くらいだよ? 普通だよ」
「国語が七十二点、数学が七十五点、理科が五十七点、社会が六十五点、英語が五十二点。平均点は六十五点。お前は、そうなるように調整している。去年の最初から今の今まで、合計で八回の定期考査全てで、だ。流石にそれで普通は、無理だろ」
特に、この前の数学は各問四点刻みだった。七五点という点数を出すには回答を少し誤って意図的に減点されなければならない。
「もうこれは、テストでのお遊びって程度じゃ済まねぇだろ。教師の思考を読み切る心理戦だ。そしてお前はそれに勝ち続けている。……正直さ、俺、お前のこと『天才』だと思うよ」
「……『天才』、ねぇ」
「それだけじゃねぇ。お前の体力テストの成績は、どれも平均値だった」
「その通りだったということでしょ?」
「小数点まで完全一致するような人間がいてたまるか。お前は良い成績を残さないように、全てにおいて平均辺りを維持してる。そうだろ?」
「……正解。で、だからどうしたの? 私は別に悪いことはしてないでしょう?」
「言ったろ。好奇心だって。なんで、そんなことをする必要があるのか、それが知りたい」
「そうする必要があるからだよ」
「…………」
「この答えじゃ不満? でも残念ながら、ふざけてなんかいないよ。確かに私は、普通にやれば君の点数を追い越すこともできるよ。どころか、全教科一〇〇点なんて簡単だ」
「言うねぇ」
嘘ではないだろう。彼女がしていることは、百点が取れることが前提でそこからいくらの点数を落とすのか、という試みなのだから。
そうだね、と彼女は言う。
「例えば私が本来の実力をほんの少し出して、体力テストでそこらの運動部男子よりも桁違いに良い成績を出したとしよう。で、そうすると周囲はどうなると思う?」
「そりゃあ、すげぇってなるだろ」
「ま、最初はね。最初はそうだったよ。だけど、それがずっと続いたら?」
「それは……」
「度が過ぎると、どうしてか人は憎むようになる。身勝手にね、他人事のくせしてさも自分のことであるかのように」
言葉にようやく感情が宿る。苛立ちに近い何かだった。だが、強い感情がある訳ではなく、諦めたような口調だった。
「……たかがテストに勝ち続けただけ。それだけで、私はね、殺されそうになった。犯されそうにさえなった」
「はぁ……?」
「クラスメイトは私がテストを受けられないように妨害し、最終的に道路に突き飛ばしたし、元父親は私に劣等感を覚えて、私を穢そうと、犯そうとした。私はただテストで一位になっていただけ、体力テストやら体育やらで一番になっていただけ、両親がやっていた事業にアドバイスをしていただけ。……それだけだったんだけどね。だけど、どうもそれが、彼らは自己否定されていると勘違いしちゃったみたい。まぁ、仕返しにそいつらの人生丸ごとメチャクチャにしてあげたけど」
無感情に嘲笑う住良木を見て、流石に嘘だろう、と思った。そう思いたかった。そんな訳がない、と否定したかった。
だが、同時に身に覚えもあった。
学校という小さな社会において、成績は明確に順位が決まる。己の身の程を嫌でも知ることになる。
そして、この世界には確かにいるのだ。
どれだけ頑張っても、どれだけ努力したって、絶対に敵わないような存在が。
――正真正銘の『天才』が。
中学のあの時だって――。
そこで俺は思い出した。
「……そうだ。住良木真里。名前に覚えがあると思っていたんだ」
どうして、気が付かなかったのか。
中学の時に行われた全国の中学生が参加する学力テストに、彼女の名前があった。
「中学の時に、全教科で百点を出してた、あの住良木真里か」
同時にようやく合点がいった。噂を聞いて、どうしてすぐに住良木真里の名前が多い付いたのか、全ての辻褄が合っていく。
「へぇ、記憶力いいね。うん、そうだよ。あの時、君の一つ上にいたのが、私」
「…………。あぁ、なるほどな、分かった。お前が言いたいことも、分かった」
そう。当時の全国テストの結果は、俺が二位だった。そしてその一位に住良木真里がいた。全教科が百点という絶対的な一位を叩き出していた。
当時の感情がどうしてか蘇ってきた。単純に、悔しかった。意味不明に彼女に怒りが湧いたのだ。
拳を無意識に握りしめていた。
当時だってそれなりの努力はしていた。テストもケアレスミスやうっかりミスさえなければ満点を取れることもあった。だけど、全教科百点というのはそういう努力だけで成し得るものじゃあないと知っている。圧倒的な才能で成り得るものだ。
俺にはその才能とやらはなかった。
だから、理解はできる。
自分よりも格上の存在がいるという事実によって、自分を否定されたような錯覚に陥るということは。
ふっと体の力を抜く。冷静に、己の感情を抑え込んだ。
「……君にとってはね、どこか遠いところに居る人間が、自分よりも上だっただけのことだろうけれど、私の周囲の人間はそうじゃなかった。目の前に、ちゃんと私は実在していた」
「なるほど。確かに、それは、嫌だな」
なんとか声を絞り出す。もしも、と考えてしまった。自分と同じ小学校、中学校に彼女がいたら。そしてずっと俺よりも上の成績を叩き出し続けられていたら。
俺は、今の俺と同じように生きていられただろうか。
否。俺は絶対に、住良木真里という存在を憎んでいただろう。
「…………」
「この世界にはね、必要以上に優秀な人間なんてきっともういらないんだろうね。多くの人が言う『天才』って言葉は、自分の既知の範囲で納得ができる優秀者のことだ。……それこそ、君のようにね」
「俺が、『天才』? そこまで自惚れているつもりはねぇよ」
「いんや、君は『天才』だよ。努力をして、そしてその努力以上の正しい結果を出している。みんなが理解し易く、受け入れやすい、今の世の中に最適な『天才』だ」
住良木は続ける。
「誰も彼も『天才』にはエピソードを付けたがる。何か悲しい理由か、あるいは熱い理由があって、『天才』は誰も彼も努力をしたからこそ、圧倒的な才能を開花させたのだってね。だけど、私はそうじゃない。いや、この世界に沢山いる本物の『天才』は、みんな、努力せずとも生まれた時点から『天才』なんだよ」
俺は何も言えない。言う資格が、なかった。
「まぁ、期待しといてよ。君が忘れた頃に私は自分の名前を世界に轟せる。本当の『天才』として世界に名を知らしめる。その上で、テレビに出て言ってあげる。『――――――――――――』ってね。約束しよう」
そう言って住良木は笑った。
「どうして、だ」
「何が?」
「どうして、そんなにも諦めてるんだよ。お前を受け入れてくれるような奴がいるかもしれないだろ」
「居ないよ。この世界には真の『天才』の居場所はないんだよ。平均以下の愚か者が、自分達が平均で平凡で『凡才』なんだって、魍魎跋扈する最悪の世の中だ。みんながみんな足を引っ張り合って、泥沼に沈んでいく最悪の世界だ」
「最低の評価だな」
「これでもまだオブラートに包んでいるつもりだよ? しかも、世界はそれを是としている。だったらさ、こんな世界はぶち壊すしかないだろう? ああ、君も気を付けるといいよ。学校なんていうくだらない
彼女が、慈しみに近い感情を視線に宿した。
「これは、私のことを見抜いた君への忠告だよ。君は、どうか世界に潰されないでね」
・・・
それが夏休み最後の日の出来事。
夏休み開け。彼女は学校に来なくなった。
それから一ヶ月後、彼女は学校を辞めた。
・・・
それから俺は高校を卒業し、大学も卒業し、ありふれた社会人をしばらく経験した。
・・・
二十五歳。自分の誕生日が過ぎていたことを一週間経ってから気付いた。
真っ当な社会人の道を歩んでいたのは二年程だった。程々に頑張っていたが、俺の実績を妬んだらしいコネ入社の同期が、俺に嫌がらせを始め、それにムカついて一発ぶん殴ってクビになった。
やらかした、と思う。刑事事件と民事事件になって、まぁ相手が大馬鹿だったので裁判には勝ったが、関係して借金が重なり、かなり厳しい生活を送っている。
どうにかライフラインとネット回線は引けている為、まぁ、かろうじて人としての尊厳は保てていた。
・・・
理由もなく、テレビを見ていた。そこに、見覚えのある名前と記憶と少し違う顔があった。
「住良木、真里」
何やら世界的な賞を獲得したらしい。それも様々な分野で、歴史的で画期的で世界を大きく変えるような重要な成果を残したのだ。
本来であれば多くの人が多くの労力を掛けてようやく糸口を掴めるような結果を彼女は独占した。
住良木真里の名前は既に教科書に載ることが確定しているし、多くの出来事、分野、現象が彼女の名前にあやかって名付けられていた。
彼女は宣言通りに、否定の感情さえ湧かない程の才能を、世界に叩きつけたのだ。
高校二年のあの日のことを思い出した。
真の天才。テレビでそう謳われている彼女を見て、天を仰いで自嘲した。
「お前の言うことは正解だったよ」
テレビでは、彼女が約束通りに、『――――――――――――』と、言っていた。
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