#19 「魔法少女と”分かち合う場所”」
「中学の時、わたし一人ぼっちだったんです」
一言目。
マキが置いていったのか、既に湯気は立てていないコーヒーカップを強く握り締めながら、紗は話を切り出した。
「それも、ただ一人ぼっちで置いていてもらえてたってワケじゃなくて……何と言うか……いじめられてた、みたい……な」
伏せられた紗の瞳。
ぽたり、と。頬を伝った涙が滴り、カップを満たすコーヒーの表面に波紋を作る。
紡がれていた言葉は萎び、やがては消えゆき。
絞り出すようにして、紗は言葉を継いだ。
「……ごめん、なさい。なんか、迷惑かけたわたしが泣く立場じゃない、というか……今話すべきなのって、どうして迷惑をかけてしまったか、ですよね……」
「……ううん、いいの。あたしもさっき酷いこと言っちゃったし。紗ちゃんのワガママと合わせて、お互い様」
小さく首を振ると、杏は僅かに俯く。
「それに、あたしなんか手痛い失敗して怖くなって高校にすら行ってないから。だから、そういう
意識的にか、高く取られたトーンが紗の鼓膜を突く。
誤魔化すためか、大げさで不格好な笑顔を杏は湛えていた。
「ごめん、なさい、お姉様。あまりそういうこと、話したくなかった……ですよね」
「切り出したの、あたしだから。それで紗ちゃんが少しでも話しやすくなるなら全然問題なしだよ」
「……ありがとう、ございます」
ぽつりと溢したお礼を皮切りに、堰を切ったように言葉は次から次へと紗の口を突いて出た。
「わたし、ただ誰かと”好き”を共有したかっただけなんです。だから、誰か一人ぐらいいたらいいなって”キラピュア”が好きって、自己紹介で言ってしまって。それでも……っ」
「……誰も、いなかったんだ」
「……はい。むしろ、馬鹿にされて……躍起になって噛みついてしまった相手が、クラスの中で大きな派閥、作っちゃって」
辛い出来事だったこと、良く覚えている。
ひどく引き摺っていて、忘れられるはずもなくて──いや、むしろ忘れられなかったからこそ、
「……靴、無くなったりとか、ストラップむしり取られたりだとか、ノートに悪口、書かれたり、だとか……わたし、初日に口論起こして問題になってたせいで、先生にも話、全然聞いてもらえなくて、親にも相談、しづら、くて……っ」
噛みしめるようにして、口にするたびに一つ一つの情景がはっきりと映し出される。
ぽたり、ぽたり、と。次第に落ちていく雫が増えていく。
紗の顔はもうべちゃべちゃに濡れていた。次に話そうとした時、ただ歯の根がカチカチと震えるだけで、掠れた声は喉を抜けるだけで。それ以上は何も言葉にならなかった。
「辛いよ」
それだけだった。
同情するというよりも、自分の身に起きたという手痛い失敗を辿るように。
今しがたなぞった紗の気持ちを代弁するように杏が漏らした次の瞬間。
「っ」
彼女は、紗に抱きついてきた。
初めて紗をヴィエルジュに引っ張ってきた時と同じ、力強いハグだ。
指先、胸に当たった頭、幾重にも重なって拍動が伝わる。耳元に当たった吐息が僅かにこそばゆくて、触れた体温が自分のものと溶け合っていく。
それだけ何度も、何度も重ねて。杏は確かに自分の存在を伝えてきた。
「……わたし、怖かったんです。初めてここに来た時、学校逃げ出してきてたから、これからどうしようかって。どうしようもないんじゃないかって……心細くて」
頬を涙が伝っていたのかもしれない。
もしかしたら、泣きじゃくりたかったのかもしれない。
それでも、心臓の刻むリズムが早まろうとするたび、呼吸が乱れるたびに、触れた杏の感触が、それを抑えてくれた。
ただ、何も物言わず。ハグ一つで、杏は繋がっていた。
「……それでも、その日、ヴィエルジュプラムが手を差し伸べてくれたから。わたし、高校は頑張ろうって思って」
「だから、ここから遠い白千川を選んだんだ。凄いよ、そうやってまた頑張ろうとするの」
「……はい。頑張ったんです、頑張ったんですよぉ。それでも、自己紹介の時に素を出すの怖くて。人との距離とか、上手く測れなくて──難しくて……っ」
すくんだ足は距離感を詰めるには心細い。
心を晒さなければ、会話は全て上辺だけ。触れられることもなければ、誰かに触れることもできない。いじめこそ無くなったかもしれないけれど、根本的には変わっていなかった。
「……相変わらず一人ぼっちでも、お姉様もマキさんも優しくって、今の自分は強気な”シアン”なんだって、そうやって思ってれば、人とも話せて。これなら大丈夫だって、思ってたんです」
けれど、いつまでも”シアン”のままではいられなかった。
いくら上書いたとしても、蒼井紗であることに変わりはないから。必ず、変身は解けてしまうから。
「それでも、最近はお姉様、黒崎さんとか、真白さんに付きっきりだから、またわたし置いてけぼりにされるんじゃないかって、怖くなって」
「……紗ちゃんは凄い”魔法少女”だよ。実際、総選挙だってあんなに票を集められてるじゃん」
「それは、お姉様がいたからです。本当のわたしには──蒼井紗には、何も無いんです。黒崎さん達が頑張ってるって知ってるのに、お姉様の気を引きたい──なんて、迷惑をかけて……わたし、”魔法少女”失格、ですっ」
──なれない。
灯った”憧れ”は燻ったまま、消えるものだった。
それは、手が届くものじゃなかったのだ、と。絞り出せない声の代わりに紗が首を横に振ろうとした時だった。
「そんなわけない。あたしは、もう否定しないし──否定させないからっ」
それは、妨げられた。
杏が思いっきり、紗の両頬をつまんだから。
絶対に、否定を飲み込むまいとしたから。
「……おねえしゃまっ、いたい、ですっ」
「……いい? あたしだって、一人ぼっちは大っ嫌い。すっごい怖いから、後輩のみんなにもダル絡みしちゃうし、マキさんにだって、気を引きたいからって迷惑をかけちゃう。あたしもそういうの、持ってるんだよ」
額と額がくっつくぐらい、距離が近かった。
もう杏は、ためらうことなくその距離を詰めた。
「そういう似た部分を指して、紗ちゃんが”魔法少女”失格だって言うのなら、あたしは”魔法少女”でいたいから、一人ぼっちはやだって感情、肯定する」
「でもわたし、あんなに迷惑、かけて……っ」
「それは紗ちゃんに構えなかったりとか、気づいてあげられなかったあたしの問題でもあるの。そういうの、今は全部無視して、紗ちゃんはどうしたい?」
……どうすれば、いいのだろう。
杏が自分を庇ってそう口にしてくれているのはわかっている。
それに甘えていいのだろうか。
「わた、しは」
横に首を振ろうとする。
もう、杏は力を込めていなかった。紗の一存、たった一動作で終わってしまう。
……それで、いいのか。
『わたしは”キラピュア”が好きですっ!』
ずっと、思いっきり、素を晒してそう言ってやりたかった。
一生、黙って生きていくのは──もっと辛いことのように思えた。
結局、自分本意だ。距離感を読み違えて、だからこそ、やってしまったことだ。
それでも、中学校から逃げ出してきた日、そこには杏がいたから。
その時は一歩踏み出せた。今だって、それは変わらない。彼女は肯定してくれるという。
それなら──。
「わたしは──”魔法少女”でありたいです……っ!」
ずっと、言いたかったことを叫んでやりたい。
もう声は掠れていて、思わずむせてしまった。
すぐさま杏は背中をさすって紗の身を案じるように「大丈夫?」と聞いてくる。
「……ええ。むせただけですので、大丈夫です」
「そっか。なら良かったよ」
背中から手を離すと、薄く微笑んで杏は口にする。
「あたしね、こうやって紗ちゃんの面倒、もっと見てあげたかったんだ。先輩としてね、もっと紗ちゃんのこと知りたかったんだ」
大げさでもなければ、不格好でもない。
ただ、杏だ。桃瀬杏の自然な笑顔だ。
「何も魔法少女に限った話じゃなくて、好きな食べ物とかでも良かったし、悩み事をお互い持ち込んでバイト後、一緒に頭を抱えたりとか──そうやって、一緒に時間を分かち合いたかったの」
……そうだ。そもそも、高校やら遥や衿華やら以前に、杏との距離を測りかねていた。
気づいてしまったことが、紗の胸を刺す。
まず、後輩としてきちんと不満とか、心配とか、伝えられていただろうか。
全部全部、杏に任せていなかっただろうか。
「おね……杏、先輩」
”憧れ”以前に、杏だって紗と同じ、一人の女の子であることを忘れていなかっただろうか。
「もし……許されたら、ですけど……今からでも、そう、したいです」
一歩踏み出せたこと、全部が杏のおかげじゃない。
苦かった出来事も、熱いエールも、全部、飲み込んで。
それでも、最後に踏み出したのは紗自身だった。
「……もちろん、だよ」
いつも迫ってきていた手は、紗の手前で止まった。
杏は手を取らずに、ただそこで待っていた。
「よろしく、お願いいたします」
一礼、後輩として。
そして、一緒に時間を分かち合う相手と
自分から、紗は手を伸ばした。
「それじゃ、今一度現場に戻るために……一緒に頭、悩まそっか」
互いに繋いだ手が、幾度か揺れた。
◇ ◇ ◇
「……だから、衿華さんたちに酷いこと言って、迷惑かけてしまって。……ごめんなさいっ」
「それで、紗ちゃんとまともにコミュニケーションを取れていなかったあたしにも非はあるの。……ごめんなさい」
時折杏の補足説明を挟みながら、過去にあったことも含めて全てを話して。
静かに話を聞いていた衿華は、隣にいた遥と顔を見合わせると、頷いた。
「……紗さん、あなたが迷惑をかけたことには違いありません。許す、許さない以前に、それを判断するのは私だけではありません。マキさんもブラン先輩も、あなたを心配していましたから」
強い口調だった。
それでも、衿華の表情は先程よりも険しいものじゃなかった。
「……けれど、理由がわかった今なら、あなたのしたことに全く共感ができない、とは言いません。私も最初の頃はコミュニケーション不足でブラン先輩やマキさんに迷惑をかけてしまいましたから。つまるところ──」
こほん、と一つ咳払い。
気恥ずかしそうに視線を逸らすと、衿華は口にした。
「私は、あなたを……”魔法少女”として、認めます」
ぼそりと、掻き消えそうな声の代わりに、真正面から紗を指して。
「……ごめん、なさい。衿華さ──」
「これ以上の謝罪は必要ありません。それより私はあなたの牙が抜けることの方がよっぽど嫌です。それでは張り合いが無くなってしまいますから。私達の寸劇ももう終盤です。完結した上で票がどうなるか……見ものですね」
半ば挑発するように、衿華は言う。
だけれど、それが本心からではないことを、この場にいる誰もがわかっていた。
実質的に、それは紗を許したようなものだ。そして──。
「……わかりましたわ。わたくしと杏先輩で、真っ向からあなたに勝ってみせます」
──それは、勝ち気な”魔法少女・ヴィエルジュシアン”の心に火を灯すものだ。
「いわば、私とシアンさんは好敵手というわけですか。なら、真っ向から競い合って、最後にティータイムでもできる関係であることに期待します。”キラピュア”──私も、大好きですから」
「ありが……いえ、望むところ、ですわっ」
かくして、
降り続いた雨が止み、梅雨も明け、その切れ間から強い日差しが差し込む季節の変わり目。
《ヴィエルジュ》に垂れ込めていた暗雲もまた、過ぎ去ろうとしていた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「……今はあなたしかいないの? 衿華さん」
「ええ。ブラン先輩は今、ホールの方を掃除しておりますので。……流石に今日ぐらいは先輩後輩で帰っていただいた方がよろしいのではないか、と」
横に並んだ二つのロッカー。
杏と紗のものはもう空っぽだ。衿華の言う通り、もう帰ってしまったのだろう。
……確かに今日はそうあるべきだろう。
頷きながら、マキはロッカーに背を預けた。
衿華自身にも、用事があったのだ。というよりも、単なる個人的な疑問ではあったけれど。
「……衿華さん、よく許したわね。少なくとも一番非難されたのはあなた達だったでしょう?」
「その理由は先程話したとおりです。私自身も、コミュニケーションが苦手なので共感できたから」
「それだけじゃないでしょう?」
一瞬、衿華の瞳が見開かれたような気がした。
だけれど、最初にバイトとして入ってきた時から多くの表情を見せてくれてはいえど、根本的にはまだ変わらない。マキはまだ衿華の表情を読み取るのが苦手だった。
「……それが、今の私を形作ってくれる一ピースだから認めた──それでは、いけないでしょうか?」
あまりにも抽象的な答えだった。
それでも、微笑を湛えたまま問われてしまったら、マキとて頷かざるを得なかった。
紗にせよ杏にせよ──そして、遥にせよ。ここには”ワケアリ”な子がよく集まるから。
「むしろ、私もマキさんに聞きたいのです。なぜ、辞めようとした紗さんを引き戻そうとしたのですか?」
実際に紗をヴィエルジュに引き戻したのは杏だ。
それでも、その杏に発破をかけたのは──確かに、マキ自身だった。
「……カフェの経営を任されてる身としては子供っぽいこと言うけど、笑わないわよね?」
「もちろん。幼い、とか。変だ、とか。そういう一切の否定をここでする気はありませんから」
妙に形式張っていて。
それでも、そんな衿華の声音が僅かに弾んでいたことにマキは気が付いた。
もしや、彼女も衿華を手放したくなかったことは同じだったのだろうか、なんて。
そんなことを考えていたら衿華の手のひらの上で踊らされているような気がして。
妙に意地を張りつつも、マキは答えた。
「やれ、”好き”を仕事に──だの、夢は叶う──だの、最近多いじゃない? そういうの。それで、若い子がいっぱい騙されちゃったりとか、青い子が腐っちゃったりとか、ね」
それは、あまりにも理想を滲ませたもの。
けれど、確かにヴィエルジュの運営を始めた時、マキが胸に抱えていたものだった。
「だから、アルバイトっていう刹那的な時間でも、若い子が”好き”を分かち合って、もっと”好き”を好きになって──そういう場が作りたかったの。だから、それに則って紗ちゃんにも諦めてほしくなかった。それだけよ」
理想論すぎるわよね、と。
苦笑しながら語るマキに、しかして、衿華は少しも笑うこと無く、真剣な表情で向き合っていた。
「私は素敵だと思います。そういうの。だから、マキさんに、杏さんに、紗さんに──ブラン先輩。一緒に、いまを過ごせる人に恵まれましたから。だから、ありがとうございました」
整った所作での丁寧すぎる一礼。
それがどこか気恥ずかしくて、思わず誤魔化そうとして。
最終的に、マキは素直に受け入れることにした。
衿華が真剣な態度なのもあったし──何よりも、
「……そう。なら、私も──《ヴィエルジュ》をやってて、よかったわ」
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