陽炎の熱は伝わらない
たまごなっとう
私の中にいる彼女
ベッドの縁にもたれかかり、自分の意思の弱さにため息を吐いた。あぐらを組んでいた脚をテーブルの下に伸ばすと、正座をしている月乃の膝につま先が当たった。彼女はなぜかさっきからソワソワしている。熱が起きそうなほど膝をさすり、切ったばかりのミディアムボブがふわりと揺れる。この光景だけ見たら、どっちが部屋の
「私、
「へー、そう」
願わくばその落ち着きのなさは、迷いとか躊躇であってほしかった。初々しく赤く染まる頬に、高揚がにじむ震えた声。幸せであることを全身で訴える彼女に、微かな期待が打ち砕かれていく。恋バナとは無縁だった月乃にとって、その報告は単に恥ずかしかっただけなのだろう。彼女の無垢さは今の私には不愉快でしかなく、自ずと返事も素っ気なくなる。
テーブルの上には今日も二人分のおやつとコップに注いだオレンジジュースが置いてあった。私は食べないからいらないと何回も言ってきたはずなのに、それでもこうして彼女は私の分を用意してくる。まるで仏壇へのお供物だ。
彼女が言うには、「食べないからって出さないのは違う。私の分だけ用意するのもおかしいでしょ?」ということらしい。いちいち細かい。だから友達が今まで一人もいなかったんだ。
月乃がコップに口をつけ、喉を潤す。伏せていた瞳が私をまっすぐに捉えると、彼女はニコリと目を細めた。覚悟が決まったのだろう。結局逃れることは出来ないんだなと、私は天を仰いだ。
「だから、絶交しよ」
◯
私と月乃が出会ったのはちょうど三年前。月乃がこれから中学三年生になろうとする春だった。転校が多く引っ込み思案な月乃に友達と呼べる人間はおらず、彼女にとって私が初めての友達だった。
それから今日まで私達はずっと一緒にいた。というか月乃がべたべたと私にくっついてきた。彼女は友達という存在に幻想みたいなのを抱いていて、距離の詰め方が極端だった。
そんな月乃に彼氏が出来た。相手は同じ学年の明日見という男だった。十月の修学旅行をきっかけに仲良くなり、つい最近告白されたらしい。月乃も気になっていたようで、彼の話をよく聞かされた。私もしぶしぶ相談に乗ってあげていたが、結果この仕打ちだ。裏切りでしかない。
あーあ、と威圧を込めた息が、部屋の空気を乱暴に揺する。テーブルに肘をつき、月乃を睨みつけた。
「彼氏が出来た途端用済み? 最低だね」
「私だって本当は絶交なんてしたくないよ? でもこれからはもうこんな風に会えなくなる気がして。急に疎遠になるのは悲しいから、会えるうちにちゃんとお別れしておきたいなって」
嫌悪を示すこちらを気にすることなく、雑談みたいな気軽さで月乃は答える。私だけが執着しているみたいで癪だ。
「大体付き合うからって何? 男が出来ただけのことをゴールみたいに思ってるなんて、あまりに前時代的すぎる。主体性のないあなたはそうやって一生誰かについていくだけの人生を送るんだろうね」
「一人ぼっちだった私をずっと引っ張ってくれた陽ちゃんには感謝してる。今までありがとね」
目一杯の皮肉も、彼女の笑顔に受け流される。もうどうしようもないのか。ブレそうにない彼女の意思を前に、苦い気持ちを押し込めるように唾を呑み込んだ。
「感謝してるのに絶交なんだ」
「陽ちゃんしか友達いなかったからさ、友達との別れ方詳しく知らないんだよね」
ぎこちなく口角を上げ、月乃は頬を掻く。こいつは友達を恋人か何かと勘違いしているのか。振るみたいに宣言する奴なんていないだろう。
「それに陽ちゃんだって気づいてたんじゃないの?」
「何が」
「私達がもう会えなくなること」
確信めいた台詞に息を呑む。違う。そう否定したかったのに、浮かんだ言葉が喉に詰まる。
それに言えたところでごまかすことなんて無理だった。月乃からとっさに目を逸らしてしまった時点で、図星を指されたと言っているようなものだった。
◯
休日になるとよく二人でおでかけをした。他人には自分の意思なんて見せないくせに、月乃は私にはとにかく遠慮がなかった。外出たくない。めんどくさい。一人で行け。そう何回も断ったけれど最後までその主張が受け入れられることはなく、いろんなところに連れ回された。
月乃はアニメや漫画が好きだった。一人じゃ怖いからと渋谷のショップに二人で行ったこともあったし、大きな会場で行われるイベントにも参加した。陽ちゃんがいなかったら絶対来れなかったと、イベントの興奮も相まって涙ながらに感謝されたのは去年の夏のことだ。
彼女は思い出を形に残したがる。そのせいで私はいくつもお揃いのグッズを買う羽目になった。ストラップをつけられるようなもの、例えばスマホやカバンを私は持っていないため、私のものは彼女に預かってもらっている。棚の上に見える『陽ちゃんの』と書かれた箱に保管してあるのだろう。
お揃いなんて恥ずかしいから持っていたくなかった、というのが本音でもあるけれど。
部屋を見渡していると、月乃のカバンにぶら下がっているストラップが目に入った。彼女はそのとき一番お気に入りのものをカバンにつける傾向にある。今つけているのは修学旅行のときにお土産屋で買ったものだ。当然これもお揃いだ。
班で自由行動の日、月乃は班からはぐれ、知らない土地を二人で回ることになった。ハプニングから始まった短い二人旅だったけれど、退屈でしかなかった修学旅行であのときが一番楽しかった。そのときのストラップをつけているということは、彼女もあの思い出を大切にしているということだろう。
だけどこれからあの場所は、彼氏との思い出に塗り替えられていくのだろうか。
「ねえ覚えてる? 修学旅行で迷子になったときのこと」
「覚えてない」
「いーや、嘘だね」
「はあ? なんでそんなこと月乃にわかるの」
「だって私が覚えてるんだもん。陽ちゃんが覚えてないわけない」
「……ほんと性格悪いね」
バツが悪く舌打ちする私を他所に、月乃はニヤニヤと笑みを浮かべながらスマホを私に向けた。
「あのとき二人で撮った写真見せたっけ? すっごくいい写真だよ」
嬉々として見せてきた画面の左半分には、満面の笑みを浮かべた月乃が映っていた。迷子のくせに、ピンチを微塵も感じさせないほど楽しそうだ。最初の頃は楽しいのか困ってるのか判断出来ない笑顔だったのに、こうして見ると月乃もだいぶ自撮りが上手くなったなと感じる。
写真の右側は真っ青な海で埋め尽くされている。波に反射する陽光がキラキラと輝き、宝石を散りばめたみたいだ。
「この写真を撮る前、急に陽ちゃんいなくなったよね。凄く不安だったんだから、私。どこ行ってたの?」
「別にどこだっていいでしょ」
「でもこのあとすぐに同じ学校の人に会えてよかったよね。ほんと偶然」
幸せそうに記憶をなぞる月乃に、胸が締め付けられる。
よくない。ずっと二人でいたかった。そう告げたら彼女はどんな顔をするのだろう。
でも、心のどこかで気づいていた。二人だけで居続けるには限界がある。月乃が私を慕ってくれているのは確かだが、彼女は時折寂しげな表情を浮かべることがあった。私だけじゃ月乃を満たせないことを、私はとうに知っていた。
「はいはい。運命の王子様に出会えてよかったね」
「えへへ」
肩を縮める月乃の顔が、一気に赤く色づいていく。私にしか見せない緩んだ表情に、優越感と喪失感が同時に流れ込んでくる。私だけのものであるのも、きっとあとわずかだ。
迷子になった月乃を助けてくれたのが、別の班の男子グループだった。その中に明日見がいた。そのとき月乃がつけていたアニメのストラップをきっかけに話が弾み、今に至る。
おしゃれに怯えるほど地味だったくせに、彼に出会ってから月乃は色づき始めた。たぶん恋の力だ。化粧を勉強し、休日になるとアクセサリーなんかつけるようになった。視界にちらつくイヤリングが憎たらしい。空気を含んだボブヘアはほのかに明るく、彼女の柔らかい雰囲気にとても合っていた。
だけど胸元まで黒髪を伸ばしていたときの彼女のほうが私は好きだった。
明るく垢抜けることを、人はいいことだと捉える。それには私も同意だ。この世界で生きていくには、それなりの愛嬌が必要だと思うから。しかし、その対象が月乃になると意見が逆転してしまう。艶やかな重たい前髪に、クツクツと風に紛れてしまうほどの小さな笑い声。大きな双眸の中で動き回る落ち着きのない黒目も、声を上擦らせながらわたわたと一生懸命話している姿も私には愛おしいものだった。そんな私だけが知っている月乃の好きな部分が、少しずつ消えていくことに焦燥感を覚える。
だけど、変わっていく彼女を止める権利なんて私にはない。だって私は彼女の友達でしかないから。彼女の人生の責任を背負えるほど、私という存在は強くはない。
彼氏だけじゃなく、最近月乃には同性の友達も増えた。今まで見向きもしてこなかったくせに、都合のいい奴らだと思う。月乃はこれからそういう人間と過ごしていくのだろう。私のいないところで。
でも彼女にとってはきっとそのほうがいいと思う。そして同時に私のことなんて少しずつ忘れていくのだ。こんな悪態しかつけない奴のことなんか覚えていないほうがいい。
ずっと考えていたことだ。まさか絶交なんて極端なことを言われるとは思わなかったけれど、こうして別れの日が来ることは薄々気づいていた。
だから覚悟はとっくに出来ていた。
出来ていたはずなのに、ざわざわと蠢く鼓動は落ち着きそうになかった。肌をなぞる未練がましさが不愉快で、思わず瞼をきつく閉じる。
もう何が正解で、自分の感情がどこにあるのかわからない。
「月乃はすぐ別れるだろうね。根暗だし、人と話すときいつもうつむいてるし。『自分の意思なんてないですー』なんて人畜無害なふりをしてるくせに、がんこで融通聞かないし。少し仲良くなったからって急に距離詰めてきて、わがままで協調性ないし……」
言葉が途切れる。彼女の悪口ならいくらでも言えたのに、胸が焼けるように熱くなって手で押さえつけた。空気が気道を通り抜けるたびに、すきま風に似た悲痛な音が足元に落ちていく。倒れそうになる身体を両肘で支え、歪んでいく視界をとっさに母指球で覆った。
「どうせ私のことなんて嫌いなんでしょ。彼氏や友達と違って私は性格悪いもんね。絶交なんて言っておきながら楽しそうに思い出語ってるけどさ、なんなの? 嫌いなら嫌いって早く言ってよ」
震える声音が自尊心をぎりぎりと削っていく。手のひらが湿っていくのがわかり、さらにぐっと瞼に押し付けた。
黒で染まった世界に、月乃の声がすっと耳の中に溶け込んでくる。「ううん」と鼓膜をくすぐるその優しい響きに、ひくりと私の喉が情けない音を鳴らした。
「私が陽ちゃんのこと嫌いなわけないでしょ。陽ちゃんが厳しいことを言うのは、私が卑屈で弱かったからだよ。陽ちゃんは全然悪くない。自分で自分を責めるのが辛かったから、逃げた私の代わりにそういう嫌な役目を陽ちゃんに押し付けてた。だから悪いのは私。ごめんね」
謝る権利すら奪われたら、私には一体何が残るのだろうか。いや、そもそも私は始めから何も持っていないのかもしれない。お揃いのグッズを月乃が預かっているように、私のこの感情も思い出もおそらく彼女のものだ。
目から手を離す。涙を拭うと、愛おしげに微笑む月乃と視線が重なった。
「なら彼氏と別れてよ。絶交なんてしないで、これからもずっと一緒にいようよ」
「それは出来ないよ」
「なんで? 月乃はいい子だけど、だからといって周りの人間もそうだとは限らない。きっとこの先喧嘩したり、理不尽な目に合うことだっていっぱいある。この世界で生きていくにはあなたは優しすぎるから、そのたびに傷ついて自分を責める。だけど私ならあなたにそんな思いをさせない。私は他の誰よりも月乃のことを理解してる。めんどくさい性格も、自信を持てない容姿も、あなたを卑屈にさせるあなた自身のことを私は全部愛せる。だから――」
「優しいね。陽ちゃんは」
私の言葉を遮り、月乃はクスリと笑みをこぼした。社交辞令を受け取ったときのような大人びた反応に、フラストレーションが募る。
いくら必死に思いを伝えようとしても、私の言葉は月乃には届かない。
それはきっと、私が彼女のイマジナリーフレンドだからだ。
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