恩返し
ベランダのガラス戸を開けると一反木綿が暴れていた。物干し竿に白い体が絡まってしまったらしく、こちらの視線を気にもしないで必死に体をはためかせている。
一反木綿を見るのは初めてのことだった。漫画などで見たことはあったが、目の前で動いている姿は随分と迫力がある。もしもこれが今が夜だったら、怖くて腰を抜かしていただろう。
放っておいてガンガン音を立て続けられても困るので、わたしは彼を何とかしてあげようと思った。ベランダへ足を伸ばし、三歩近づいた。
すると、一反木綿はこちらに気がついたようでぴたりと暴れるのをやめる。そして、こちらに向かって口と思わしき裂け目を大きく開いてきた。威嚇しているようだった。
体を絡ませて暴れている姿から忘れてしまっていたが、一反木綿は日本を代表する妖怪だ。素手で触ると危ないかもしれない。
わたしは一度室内へ戻り、キッチンへ向かった。そして、掃除用のゴム手袋を取り出した。本来ならもっと厚手のものを用意した方が良いと思うが、生憎と手持ちがこれしかない。無いものは仕方ないので、これで何とかする。ゴム手袋を両手にはめながら、またベランダへ向かった。
ベランダの一反木綿はこちらが戻ってくるのを見ると再び威嚇してきた。彼の顔は逆三角形を描くように三つの裂け目が出来ていて、下の大きな口であろう裂け目はまるで牙のようにギザギザとしていた。
わたしは出来る限り刺激しないように、ゆっくりと手を伸ばした。そのまま、結び目になってしまった部分に触れる。
意外にも、一反木綿は大人しかった。てっきり噛まれたり暴れたりすると思っていたが、そんなことはなく、こちらを疑り深く観察していた。
触ってみた彼の体は、布というには随分と分厚い。例えるなら、そう、油揚げのようだった。
わたしがベランダへ向かう前から暴れていたのだろう。固結びになっている部分はかなり複雑になってしまっていて、所々力を込めざるを得ない。だが、彼もこちらが自分を害するつもりがない事を理解しているらしく、縮こまりこそしても暴れることはついぞ無かった。
十分はかからなかっただろう。結び目との格闘を終えると、彼は物干し竿から解放された。
体にはよれた皺が出来てしまったが、破れたりはしていない。怪我などは見受けられなかった。
拘束が解かれた一反木綿は何度も自分の体を確認して、くるくる縦に回ったあと、わたしと視線を合わせるように顔の裂け目を近づけてきた。
思わず後退りする。咄嗟に首元に手をやる。一反木綿は首に巻きつくという話を聞いた事があったからだ。
こちらの様子をしばらく見つめた後、興味を無くしたかのように、風に吹かれてベランダから飛び上がった。上の階へ向かって消えていき、すぐに下へ降りて行くのが見えた。
ベランダの手すりに近づいて外へ視線を飛ばすと、白い体がもう小さく見えるくらい遠くに行っていた。飛んでいる、というよりも、滑空しているように見えた。
****
再び現れた一反木綿は、今度はベランダのものに絡まることはなく、綺麗にまっすぐ浮かんでいた。
尻尾を振るように、体の端でガラス戸を叩く姿に、近所に一反木綿の家族でもいるのかと思ったが、体の端の皺がまだ残っているのを見て先日の彼だと気づいた。
彼の違いは立ち振る舞いだけではなかった。それなりの大きさの箱を抱えていたのだ。わたしが彼に気がつくと、彼はその箱を上に掲げ、より強くガラス戸を叩いた。
ベランダへ出ると、一反木綿は突撃するようにこちらへ向かってきた。そして強引さのある動きで、箱をこちらは押し付けてきた。
「な、なに」
こちらの問いに、裂け目が大きな釣り上がる。笑っているようにも、嘲笑っているようなも見えた。
わたしの手を取り、その箱を握らせると、彼は先日と同じように縦に数回転した後、今度は初めから滑空するように飛んでいった。
飛び去る背中を見送り、手元にある箱に目を落とす。箱にはグラデーションのかかった印刷に達筆なひらがなが刻印されている。裏面を見ると、どうやら自分も知っている有名な和菓子らしかった。
「京都の人だったのか」
いや、人ではないのか。京都の妖怪だったらしい。でも京都の人はそういう有名どころの物は送らないと聞いたことがあるような、無いような。
まあ、いいか。
「緑茶あったっけ…」
前に親からの仕送りの段ボールの中に入っていた気がする。わたしは薄らとした記憶を辿りながら、室内へ戻った。
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