第2話「ふたりきりのあやとり」

「はぁ……」

 自己嫌悪のわたしはお姉ちゃんの部屋のラックからCDを取り出しました。エリオット・スミスの『イーザー/オア』というアルバムです。お姉ちゃんとは音楽の趣味が合いません。けれど、このアルバムだけは、ひとりきりで家にいるときに好んでよく鳴らしています。

 空っぽな気分。大きな出来事が起きたわけでもないのにわたしは打ちひしがれていて、スカスカなアコースティックギターの音色が壁の端まで響くのを部屋の隅で感じていました。

 ノックの音。一瞬、コンポから鳴るパーカッションの音かと思いましたが、違うようです。

「私だ」

 扉越しに仰々しい声。

「ノック要らないよ、お姉ちゃん」

「知ってる。でも空気読んでみた」

 そして室内へ。おどけて気を遣うのも、お姉ちゃんらしい。

「さて、ひな。話があるのでちょっと座れ」

「座ってるよ」

「……コホン」

 お姉ちゃんは咳払いを一つして、続けます。

「消毒の件を気にしてるみたいだったけど……ありがと。私からはそれだけだよ。ひなは何も気にしなくていい」

 それって、お姉ちゃんは何も気にしていないってこと? 私が身体を使って表現した好意に対して、何も感じなかったってこと?

 そんな疑問を頭上に浮かべたわたしを横目に、お姉ちゃんはCDを入れ替えます。それはフォークなんとかというジャンルの、綺麗だけどノイジーな音楽。

「それ、嫌い」

 わたしには繊細すぎてすぐに折れそうで嫌いな音色です。けれども眼を閉じて心地良さそうに姉は応えます。

「フォー・テットの魅力、分からないうちはまだまだ」

 にやりと、ほんの少しだけ偉そうに。

「こんな不安になりそうな曲のどこがいいの?」

「それ言ったら、さっき聴いてたエリオット・スミスも同じ」

「むー」

 姉ほど音楽に詳しくないわたしは口を噤むしかありません。

「そんなことよりみかん、食べる?」

「要りませんー」

 みかんは苦手です。

「それよりお姉ちゃん。何か他にも言いたいことあるんだよね?」

「うん。ひなさ、外に出る気、ない?」

 お母さんから何度も受けてきた質問。ヒキコモリのわたしを外へと連れだそうと伸ばされる、何より苦手な善意の手。けれどお姉ちゃんから伸ばされるのははじめてで。

「……出たくないよ」

 少しだけ迷いをこめた返事は、姉の誘いというだけで揺らいだ意志の脆さをしめすよう。

「そうだよね。じゃあさ――」

 お姉ちゃんはわたしの返答に動じるわけでもなく、ひと呼吸。

「――私を、飼えるとしたらどうする?」

 そうして、わたしにとって特別な選択肢をぶつけてきたのでした。

 乾いたフォー・テットが響いて、みかんの匂いが充満していて、苦手なものばかりの部屋も、お姉ちゃんがいれば平気で――。そんなわたしを見据えながら、お姉ちゃんはあやとりの糸を取り出して、その右手、わたしの左手ふたつの小指に結わえつけます。

「そばにいたら、きっと平気」

 そう言って微笑むお姉ちゃんは、すっとわたしの心の深奥まで降りてくるようで、この人こそがわたしの寄る辺なのだと強く感じさせるものでした。

 ひと眠りして夜が明けて、姉の言葉は未だ耳にこびりついたまま。二段ベッドの上段を下から見上げるたび、魔法のようにリフレインします。寝付きもよくなかったようで、洗面所で姉と顔を合わせると「パンダみたい」と笑われてしまいました。

 それから遅めの朝食。お母さんはもう仕事に出ていったようで、年の瀬なのに仕事を増やしてくれている母の体調は少し心配です。

「ねえ、お姉ちゃん」

 わたしは食べかけのトーストを皿の上に置き、姉に話しかけます。

「ん」口にくわえたままこちらを見るお姉ちゃん。

「外に出るなら、わたしと一緒にいてくれるの?」わたしの問いに間髪入れず。「うん。いっしょにお出かける」

「手は放さない?」

 畳み掛けるようにもう一言問うと、今度は一拍だけ置いて。

「放すときはあると思う」

 お姉ちゃんがどこまでの意図をこめたのかはわかりませんが、やはりその言葉は絶望的な響きでわたしに届いてきて。

「じゃあ、嫌だよ」と告げる事しか出来ません。

「だからね、ひな。赤い糸でつなぐの」

「運命の?」

「ううん、これは二人が無理をしないための赤い糸」

「どういうこと?」

 わたしには姉の言うことが上手く理解出来ません。

「今みたいに食事の時、手をつないでたら食べられないよね?」

 一瞬ばかり考えてみて。

「んー、出来ると思うよ」

「じゃあひな、私の右手に左手つないで」

 向かい合ったかたちから、お姉ちゃんが隣に座りわたしの左手を優しく握ります。

 わたしのアイデアはここからが本番。わたしは恥ずかしさをこらえ呪文を口にしました。

「じ、じゃあ、お姉ちゃん。『あーん』して」

「あーん……って、ひな。これなんか恥ずかしい」

 わたしが右手にトーストを握ると、お姉ちゃんがわたしの右手の方へ顔を寄せてきます。お姉ちゃんの顔はすぐ眼下。わたしの膨らみきれない胸の上に、お姉ちゃんの髪がかかると思わず心がとび跳ねてしまいます。

 わたしが提案したことなのに自分でドキドキしてどうするんだろう。髪の毛越しに気づかれてしまいそうな鼓動を隠して、わたしはトーストのかけらを姉の口の中へと運びます。

「ん……」

 姉がかけらをくわえ、わたしを上目遣いで見た瞬間、ものすごい征服感がわたしの胸に降りてきます。指先には姉の唇が当たり、胸の動悸は止まりません。

 わたしはトーストから手を放し姉が咀嚼するのを見届けると、こっそり指についた唾液を舐めとります。食べ終えたお姉ちゃんは少し赤い顔で一つ咳払い。居住まいを正すとわたしに告げます。

「……これは、恥ずかしいからダメ」

「そ、そうだね」

 この記憶はいろんな意味で墓まで持っていきたいと思いました。

「とにかく、適切な距離で手を繋ぐために、糸を結ぶの」

 今ならお姉ちゃんの言うことも理解出来る気がします。

「うん。でもこの糸だってすぐに途切れちゃうんじゃないの?」

「少なくとも、ひなが望む限りは切れない」

 簡単に答えるお姉ちゃん。

「冬休みが終わったらどうするの?」答えは繰り返し、「ひなが望む限りは切れない」

「一生かも知れないよ」核心に迫るようなわたしの言葉にも、「そしたら、私は生涯ひなのペット」

 にっこりと笑って、そう答えるお姉ちゃん。お姉ちゃんの言葉はドキドキするし嬉しいけれど、わたしにここまでしてくれる理由がはっきりと理解出来ません。

「ゆき姉ちゃんはね。ひなが幸せに生きてくれれば、嬉しいから」

 お姉ちゃんは、つないだ手を一層強く握って。それだけで何かが胸奥に伝わって。

 そう、お姉ちゃんはきっと勇気を出して話してくれている。わたし、勇気を出して応えなきゃいけない。大事な言葉が滑り落ちないよう、わたしはゆっくり口を動かしました。

「外に……出て、みる」

 生まれたての動物のようにたどたどしくも、確かな一歩。他人から見れば何気ない日常のひとひらですが、わたしにとっては心の大事な部分を動かして音に出来た言葉なのです。

「うん。じゃあ、ひなが望む限りいっしょにいてあげる」

 そう言って笑うと、お姉ちゃんは数メートルありそうな赤い毛糸を取り出し、お姉ちゃんの右手、わたしの左手、互いの利き腕でない小指に結わえわたしに微笑むのでした。多分、誰よりも優しい瞳で。

「これでいつでもいっしょ」

「……ってこれ、わたしのあやとり用の糸だよお!」

 わたしの小指の結び目には、小さく自分で書いた名前がありました。

「運命の赤い糸に最適」

「思春期の女の子に売れそうだね」

 そう答えると、姉は一瞬考える素振りをして。

「二人が無理しないための赤い糸に最適」

「それは多分、売れないね」

「うん、私たちだけが持っていればいいもの」

 そして、わたしたちはショッピングに出かける約束をしました。

 あいにくこの辺りは郊外で、オシャレな店を見かけたことはありません。大理石の外壁が威圧的な、高級感を感じる服屋さんが一つありますけれど、そこですら閉店セールをもう5年ほど続けた閑古鳥です。

「えー、行くの」

「ひな、ゴネないの。靴、履こう」

 諭すようなお姉ちゃんの声にもまごついたように玄関に座り、重い扉を押せずにいます。

「ひも結ぶのにがてー」

「ウソ言わない。ひなあやとり得意」

「ちぇー。お姉ちゃんに結んでもらおうと思ったのに」

「結んだ。ほら」

「分かったよー、行くよもー」

 玄関での攻防は小指に結ばれたちょうちょが軍配を上げ、お姉ちゃんの勝利です。

「どこ行くの?」

「この辺。クリスマスの買い出しかな」

 やっぱり、都会の方へは行かないみたいです。残念なような楽な気持ちのような。けれど外出を恐れる気持ちは残ったままで、姉への宣言を立ち上がる力に還元出来ません。わたしは何が怖いのか分からず、それが何より怖くて。

「ひな。手」「はい」

 わたしは一点の疑問も雑えず、姉へと腕を伸ばします。

「ほら、つかまえた。これで逃げられない」

 お姉ちゃんは笑います。その手の中がわたしの理想郷ということも知らずに。

 繋いだ手の間には二人をつなぐ毛糸が包まれ、その暖かさは易々とわたしを恐れから無敵にしてくれる気がしました。

 二人で開けた扉の向こうはもう冬の寒さ。錆びた町と言いましょうか、更新されないまま時間だけが経過したような町で、商店街の白かっただろうアーケイドはアイボリーで団地は灰色、団地を囲う格子状のフェンスはところどころ破けていて、そこから吹く北風は全てを風化させるようです。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに、ひな」

「手袋ずるい」

 お姉ちゃんはコートを着込んだ上に、空いた左手には厚手の手袋までしています。完全防備、これが世にいう格差社会なるものでしょうか。寒風へと晒される右手を胸に抱いて、わたしはお姉ちゃんに膨れてみせます。

「手袋がないなら、いっしょに入れればいいじゃない」

 お姉ちゃんはアントワネット級の発言をします。

「いっしょって?」

「こーゆーこと」

 ポケットからもう一つの手袋を取り出すと、つないでいた手を放し、わたしの左手を手袋の中に押し込みます。

「手が逆だからきついよー」

「はい。ひな、ちょっと黙る」

 そう言うや、姉はわたしの左手が入った手袋の中に、自分の右手を差し入れて再び手をつなぎ直しました。

「ね、これであったかい」

 白い吐息のベールをかむったお姉ちゃんの顔は、まるでお父さんみたいに優しく。

「うん……でもなんだか飼われてるの、わたしみたい」

 顔が少し熱くなるのを感じつつ、上目遣いで姉を見上げます。

「ううん、違うよ。今の私はひなが望むことをしていたい存在。今はひなのことをあったかくする」

「あったかいよ、じゅうぶん」

 不安になる隙もないほど、この距離は体熱を肌に心のなかに伝えてくれるから。

「ねえ、お姉ちゃん。この糸ってずっとつながってるといいね」

「ひながそう思うなら、きっとそう」

 わたしはもう少しだけからめる指先に力を込めて。

「あ、幸音っ。何してるのー」

 そんなとき、歩道をゆくわたしたちの正面から、ひとりの女性が現れました。名前は思い出せませんが、確かお姉ちゃんの友達。

 わたしはびっくりして思わず手を放してしまいそうになりましたが、肝心のそれは手袋の中で、つながりあったまま。

「おはよ、タノ。妹とお買い物」

「タノはやめなさいったら。頼子だってば……しかし仲いいわね。ヒナちゃん、だっけ」

 何となく女の子っぽくないあだ名で呼ばれ怒ったフリをする頼子さん。その表情は人懐っこくて、本当は怒ってないということまでしっかりと伝わってきます。

「あ、はい、陽菜です。あの……お姉ちゃんの、妹です」

 きちんとした言葉で返すことが出来ませんでした。

「うん『わたしの』妹」

 けれど、お姉ちゃんはつないだ手ごとわたしを寄せて、頭をくっつけます。そのまま優しく髪を撫でるものだから、わたしは思わず赤面してしまいました。

「うわー、可愛い子ね。わたしの家にもひとり欲しい! 欲しい!」

 嬉しいようなむず痒いような、頼子さんの言葉。彼女の言葉にウソはきっとない――はずなのに、わたしは頼子さんのことが好きにはなれません。きっと、彼女はわたしにとって明度の強すぎる存在で、自分の暗さが際立ってしまいそうに思えて。お姉ちゃんは頼子さんと笑います。その様子を見ているだけで、お姉ちゃんを少し遠くに感じてしまいます。

「ねえ、お姉ちゃん。今日は夕食の準備時間かかっちゃうから……」

 話を切ろうとしてしまうわたしは、やっぱり心がへちゃむくれ。

「じゃあヒナ、行こう。またね、タノ」

「うん。また」

 呼び名を訂正しないお姉ちゃんに苦笑いしながら、挨拶を告げて去っていきました。スマホを持ち手を振っていたのは、ふたりだけの共通言語なのでしょうか。

 なんだか少しだけ淀んだ気持ちを抱えたまま、わたしたちはクリスマス準備の買い出しを終え、家に帰りました。結局、オシャレな服もアクセサリーも買えなかったけれど、お姉ちゃんはとても優しく、心から、外に出てよかったなと思いました。

「ケーキ、楽しみだね」

「もう、まだ買ってないよ。お姉ちゃん」

 わたしの、という言葉は心のなかでつけておきました。


 自宅に戻ると、さっそく購入品をテーブルの上にひろげます。

「買ったね」

「買いすぎちゃったね」

 二人で苦笑いしながら眺めるそこは、ローストチキン用の鶏肉や健康という二文字をその青さで示すような緑黄色野菜が形づくる小高い丘。ただ、そこにあまり見たくないものが一つあったのですが……

「まあ、野菜の方は年末にも回せるから」

「そだね」

 わたしは野菜の詰まった袋を抱え上げます。持ち手のところが切れそうなので抱えてみたのですが、どうにも不安定で内容物が土砂崩れを起こしそうな気配です。これは急いで野菜室にぶち込まねば――

「はい、無理しない」

 と思ったところで、お姉ちゃんが逆側から袋を支えてくれました。

 白い袋の向こう側で笑いあう二つは、赤い糸で結ばれていて。

「……いつもありがと」

「妹度お世話になります」

 姉はいつもの優しい笑みをしていました。

 わたしはほんのほんの少しだけ、大人びた顔でお姉ちゃんに応えられた、そんな気がしました。

 ほんとはなんの効力もない赤い毛糸は、わたしに精一杯の勇気を与えて、スピログラフの日々を少しだけ変えてくれる。

 お姉ちゃんとふたりきりのあやとりが、また明日も続いてくれればいいな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スピログラフ 白日朝日 @halciondaze

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ