裸の王様

鮎崎浪人

裸の王様

 一


 真冬の寒さを一気に先取りしたような十一月下旬のある日の午後一時。

 愛車であるシルバーのレクサスGS四五〇hから降り立った首藤岩夫しゅとう いわおは、ケーブルテレビ東東京の放送局の裏口から、すっかり慣れた様子で建物の中へ足を踏み入れた。

 毎週金曜日の午後七時から同局にて放送している「首藤岩夫とネバーランド ガールズのASAKUSA百貨店」というバラエティー番組の隔週水曜日に行われる収録のためである。

 ケーブルテレビ東東京は五年前に、全国的にケーブルテレビ事業を展開している株式会社JPCTから墨田区・台東区・足立区などの東京都東部地区の営業権を譲り受けた、この分野では新規の会社である。

 放送局は台東区の西浅草に位置する浅草ビューホテルに向かい合っている。

 その局の廊下をゆったりとした足取りで進む首藤は、全国にその名を知られている中堅どころのお笑いタレントで、この年の四月に四十五歳となった。

 二十代でコントグループとして注目を浴び、その後グループが解散してからは、ゴールデンタイムのバラエティー番組のゲストや深夜番組の司会、ワイドショーのコメンテーターとして地歩を着実に固めている。

 豊富な品揃えが自慢の百貨店のように、東部地区の多彩なスポットを紹介するというコンセプトの「首藤岩夫とネバーランド ガールズのASAKUSA百貨店」は、ケーブルテレビ東東京の自主制作の番組であり制作費は乏しいため、本来ならば一流タレントといっても過言ではない首藤をレギュラー番組で起用するのは到底不可能なのだが、地元の墨田区に愛着があるのと、肩の凝らない自由な番組作りに携わりたいという強い思いもあって、首藤側は破格の安値でこの仕事を引き受けた。

 また、そのような経緯についてはSNSを通じて世間一般に拡散されているため、首藤に対する東部地域の視聴者からの好感度は高く、元々の知名度と相まって低予算の自主制作番組としては、異例の視聴率の高さを誇っている。

 なお、首藤は多くの芸能人の例にもれず、飲食店経営・株式投資などのサイドビジネスにも食指を伸ばしており、ケーブルテレビ東東京への出資者としても名を連ね、大口株主の座をも占めている。

 そのようなわけで、同局にとって首藤の存在はあまりにも大きく、番組内容については彼の意向が大いに反映されるし、細かいところでは、楽屋に近いからという理由で警備員が配置されている正面玄関を通らず、特例で渡されているキーを使って裏口から出入りすることも黙認されている。

 今日も首藤はそのようにして、彼一人にあてがわれた楽屋に入った。街路に面した一階の角部屋である。

 数分後には、首藤の私物であるジャージの上下やティーシャツ、ランニングシューズの入ったスポーツバッグとスマートフォンや財布などの小物をつめこんだセカンドバッグ、さらには、地方ロケの際の土産物を詰め込んだデパートの紙袋を抱えたマネージャーの田中が、首藤のレクサスを地下駐車場に置いてから首藤の楽屋に入ってきた。

 それとほとんど同じタイミングで、首藤の到着を聞きつけたプロデューサーが駆けつけ、毎度のごとく丁重な挨拶と見え透いたお追従を重ねた末、慌ただしく去っていく。

 その姿を見送ってから首藤は、缶コーヒーを飲みながら煙草を二本灰にして一息ついた後で、本番用の衣装に着替えることにした。

 その途中、ノックの音が小気味よく響いたのでマネージャーが施錠を解くと、二人の少女がはつらつとした動作で部屋へと足を踏み入れた。男二人だけだった室内のむさ苦しい空気が一気に華やぐ。

 浅草に専用劇場を構えるアイドルグループ「ネバーランド ガールズ」のメンバーである神希成魅かみき しげみ佐草向日葵さくさ ひまわりである。

 先に入室してきた神希は、インドとのハーフという特異な生い立ちであるからか、日本人離れした彫りの深い端正な顔の造りをしており、十八歳という年齢よりもその表情は大人びていた。

 その神希から一歩後ろに控えた、後輩にあたる十七歳の向日葵は、神希より頭ひとつほど身長が高く、先輩と同様にくっきりとした目鼻立ちの各パーツが整然と配された顔立ちだが、神希よりも少し幼さを残している。

 神希はふんわりとしたアッシュブラウンのショートボブ、向日葵は背中まで直線的に流れる黒髪ロングヘアの、どちらも理想的な卵型の輪郭を描く小顔の美少女であり、街中で周囲の目を引く存在であることは間違いないだろうけど、あの娘にはとうてい敵わないなと思いつつ、首藤は二人を眺めていた。

 肌寒い体感を反映して、神希はニット・ワンピース、向日葵はニット・セーターにデニムパンツという装い。

「首藤さん、おはようございます! 

『ネバーランド ガールズ』で一番かわいくて面白いシゲちゃんで~す」と神希。

「田中さんもおはようございます! 

『ネバーランド ガールズ』で唯一の関西出身で大阪の爆弾娘、佐草向日葵です!」と向日葵。

「ああ、おはよう。君たち、いつも元気な挨拶を欠かさないよね。若いのにたいしたもんだ」

 二人の挨拶にくっついている余計なアピールは完全に黙殺し、椅子に腰かけたまま首藤は鷹揚にそう返した。

 芸能界の在籍年数もそこでの地位も彼女たちをはるかに上回っているので、首藤はわざわざ立ち上がって出迎える必要を微塵も感じていない。

 椅子に腰かけている首藤のそばにひざまずいたマネージャーが、かいがいしく彼に靴下を履かせようとしている。

「ありがとうございます!」と神希はにっこりと微笑んで続ける。

「挨拶は大事です! 

 首藤さんはもちろん、スタッフさんにも、それに入口で警備員のカオルさんや廊下で清掃員のタケシさんにもしっかり挨拶してますからっ!」

 いかにも物怖じするということを知らない神希らしく大の大人を馴れ馴れしく下の名前で呼んで、どうだとばかりに胸を張る。

 褒められるとすぐに調子に乗る神希らしい反応に首藤はかすかに苦笑を浮かべながら、

「まあ、いつまでもその気持ちを忘れないよう・・・ 

 ハックション!」

 大きなくしゃみをしてから数秒間硬直し、口を真一文字に結んで正面を凝視し続けた。

「首藤さん、大丈夫ですか? 

 最近、急に寒くなりましたから体調には気をつけてくださいね」

 神希が心配そうにじっと首藤の顔を見つめる。

 首藤が「お気遣いありがとう。君たちも気をつけてね」と返すと、その後しばらくの間、天候やテレビ番組のことなどたわいもない会話を交わし、話題は番組収録におよんだ。

「そういえば」と神希はさも重大な事柄を打ち明けるように、少し声を落として固い口調になって、

「今日は、小樽が最後の収録なんです」

「え? 小樽ちゃんって、香河小樽かがわ おたるちゃん?」

「そうなんです。

 小樽、地元に帰って大学に入る道を選びたいってことで、そのためにはこれから受験勉強に専念しないといけなくて、それで『ネバーランド ガールズ』から卒業することになったんです」

「そうなんだ・・・」

「これからは、そう簡単には小樽に会えないかと思うと、わたしたち、とってもさびしくて・・・」

 沈痛そうな二人の顔からはうっすらと涙が浮かんでいた。

 泣きたいのは首藤も同じだったが、二人の手前、ぐっとこらえる。

「でも、小樽はちゃんと自分の将来を考えて決めたことだから、わたしたち、応援したいって思ってるんです」

 神希の言葉に力強さが、その表情には笑顔が戻った。

 一方の向日葵は悲しみを押し隠さなければと自らを説得するように、神妙な顔つきでゆっくりとうなずいている。

 まさに、寝耳に水といった表現がふさわしいこの話には、首藤も思うところはあったが、あまりこだわるのも不自然かなと考え、あえて話題を切りかえることにした。

「そうだよね、応援してあげなきゃね。

 ところで、君たち、今日は出演者に入ってたっけ?」

「わたしも神希さんも今日は違います」と向日葵が答える。

 番組には週替わりで「ネバーランド ガールズ」のメンバーが出演しているが、出番のないメンバーも勉強のために見学に訪れることがたびたびある。

 彼女たちも途中までは見学するとは言ったが、主たる目的は違っていた。

「実はですね、今日は首藤さんと田中さんにお願いがあるんです」と神希が切り出した。

「え? なに、どんなこと?」

 神希は隣の向日葵にさっと腕を絡め、二人は得意げな笑顔を浮かべて、

「わたしたち、お笑いユニットを組むことにしたんです!」

「お笑い・・・ マジか?」

「マジですっ! 

 だから、お二人にわたしたちのコントを見てほしいんですっ」

 ずいと身を乗り出してくる神希の意気込みはひしひしと感じられるが、二人の番組出演時の言動を見る限り、あまり興味をそそられるものではない。

 神希は自分が目立つことだけを第一に考えるタイプで収録中の発言数でいえばダントツのトップなのだが、結果はほとんど空振りに終わり場の空気を凍らせてばかり。

 向日葵も神希ほどではないが積極的にトークにからんでくる。それは構わないのだが、自由奔放なまま純粋培養されてすくすくと育ってしまったということなのか、あまりにも発想が独特かつ突飛で、他の出演者の頭には?マークが浮かぶことも珍しくない。

 ベテランを自負する首藤でも、この二人にはいつも手を焼いているというのが実情だ。「いやあ、今はいいよ。また今度な、今度」

 首藤はきっぱりと拒否の意を示したつもりだが、神希にはまるで伝わっていないのか、あるいは伝わっていても気づかないふりをしているのか、自らの体をグイグイと押しつけんばかりに首藤に迫ってくる。

 断り続けるのも億劫になって、とうとう首藤が根負けすると、楽屋では狭いからと、神希に腕を引っ張られて引きずりだされるようにして、、マネージャーの田中ともども廊下へ追いやられた。

 二人のいうコントなるものは、セリフを発しながら、神希は走って、向日葵はでんぐり返しをして、廊下の端から端を動き回ったりするかと思えば、目をつぶれと要求し、首藤たちがそのとおりにしてから目を開けると二人が変顔をしているというギャグ?を数回くりかえしたりするなどというもので、奔放な発想ではあるが面白いとはいいがたいパフォーマンスが数分間にわたって繰り広げられた。

 首藤は相手を傷つけない程度に言葉を慎重に選びながらも、きっぱりと厳しい評価を下した後、いくつかのおざなりなアドバイスを与えたが、それでも二人は満足したらしく「ありがとうございました!」と揃って深く頭を下げ、「また近いうちに披露しますので見てください!」と言い残して楽しそうに駆け去っていく。

 二人の姿が視界から消え去ると、瞬時に首藤の想念は、ある一人の少女に対する差し迫った欲求に占められていった。


 二



 午後二時から滞りなく進行した番組収録が一時間ほどで一段落すると、首藤の休憩時間となった。これから一時間半ほどは、「ネバーランド ガールズ」のメンバーのみによるコーナーを収録するためだ。

 首藤はマネージャーの田中に、今後も彼が彼女たちと息の合った掛け合いをするためには必要だという理由で、彼女たちのパフォーマンスを現場で見届けるようにといつもどおり命じると、単独行動を開始した。

 自分の楽屋からこっそりと忍び出た首藤は、周囲の様子に細心の注意を払いながら廊下を二回ほど右左折し、とある扉の前で立ち止まる。

「ネバーランド ガールズ」の一員で、現在はスタジオで収録中の香河小樽の楽屋である。

 首藤は左右を慎重にうかがうと、ジャケットのポケットから取り出した手袋をはめ、ズボンのポケットに入れておいたマスターキーを使用して素早く開錠し入室した。流れるような一分の隙もない動きである。

 この建物は放送局とはいえケーブルテレビであるから、同じ東京の他の放送局とは比べものにならないくらいの小規模で、日頃スタッフが働く事務フロアは三階にあり出演者が控える楽屋は一階にある。

 今そのスタッフの大半と出演者は収録中の二階のスタジオに集合しているため、一階の人の出入りは決して多くはない。楽屋を出発してからここに到着するまで、首藤は誰にも出くわすことはなかった。

 部屋は十五㎡ほどの洋室で、ほぼ中央に六十㎝四方のテーブルと二脚の肘なし椅子が据えられていて、左手の壁際にはドレッサーテーブル、その奥には液晶テレビがあり、テレビの反対側、部屋の右手奥にはロッカーが配置されているという全体的に簡素な造りである。

 ただ、これまで何度か香河小樽の楽屋に侵入したときは実に整然としていたが、今日はいささか雰囲気が異なっている。

 以前はテーブルに、番組の台本や清涼飲料水のペットボトル、小樽が愛用している猫柄をあしらったピンクのポーチなどが並べられていたものだが、今はそのテーブルが横倒しになっている。

 そのテーブルのそばに散らばっている小物類はないが、すぐ脇には、段ボールの箱とネイビー地にハンドル部分がグレーのスクールバッグとが、まるで投げ出されたように床に置かれているのに首藤はちらと目をやった。

 そういえば、スタジオで顔を合わせたとき、小樽がひどく激しい息遣いをしていたので尋ねたところ、マネージャーが体調不良により急きょ来られなくなったので、自分ひとりでテレビ局に向かったところ道に迷ってしまった、とのことだった。

 どうやら集合時間にぎりぎりに到着したため、荷物を床に放り出して大急ぎでスタジオに向かった。

 その際、慌てていたために、テーブルにぶつかって倒してしまった。

 そんなところだろう。

 しかし、そんな細かい事情はどうでもいい、と首藤はニヤリとほくそ笑んだ。

 どれほど急いでいても最低限、収録用の衣装には着替えているはずだから、私服はこの楽屋に残されているはずだ。

 そう、小樽の制服が。

 香河小樽は、北海道の漁師町出身の高校三年生。

 中学二年生の夏に「ネバーランド ガールズ」のオーディションに合格すると同時に、地元を離れて母親と共に上京してきた。

 都内の中学を卒業し、現在は、アイドル活動のかたわら同じく都内の高校に通っている。

 北海道の片田舎出身の女性という事実から漠然と抱く印象を裏切らない、透き通るような純白な肌に純朴そうで清純な顔立ち。

 さらに、都会で刺激を受けたことによる洗練された、しかしどこか儚げな美しさをも兼ね備えていた。

 アイドルとしても順調に成長を遂げており、リズムに合わせて躍動する小樽の姿は、他のメンバーを圧倒する輝きを放っているように首藤には思えた。

 そんな小樽に、年甲斐もなく首藤は魅了されてしまったのである。

 だが、首藤の興味は直接的な性欲の発動ではなく、彼女の私物へと向かった。

 首藤自身もそのことが意外ではあったが、娘を持つ父親であることや社会的地位の高さが、屈折した欲望へ導いたのではないかと自分なりに分析していた。

 小樽が収録にキャスティングされているときには、ここ最近、数回にわたり休憩時間を利用しては彼女の楽屋に侵入し、小物類や彼女が捨てたゴミをくすねて自宅に持ち帰り、コレクションとして密かに保管している。

 そして、今日が最後のチャンスとなれば、狙うべきは迷いもなく制服だった。

 きらびやかなステージ衣装もさることながら、首藤の心を完璧にとらえたのは、楽屋に小樽が挨拶に訪れたときに目撃した登校用の制服だったからである。

 グレーの地味なデザインのそれは、あえて彼女の美しさを封じ込めている無味乾燥な印象を与えるが、首藤にとっては、日常を生きる彼女のむき出しの生の実態がそこに息づいているように感じられ、所有欲を否応もなくかきたてられたのだった。

 要するに首藤は、アイドルとしてよりも一人の生身の女性としての小樽に、歪んだ愛情をくすぶらせてしまったのである。

 首藤は迷いなくロッカーへとまっすぐに進み、胸をうずかせながら、その扉を開いてみた。

 だが、獲物のセーラー服はない。

 通学用のキャメルのダッフルコートがハンガーに掛けられているだけだ。

 そんなはずはない。

 首藤は部屋の中をひととおり見渡したが、お目当てのセーラー服は見当たらなかった。

 ふと何気なく視線を落とすと、テーブルのすぐ脇の床に置かれた段ボール箱の下から、グレーの布地がのぞいているのに目が止まった。

 どうやら、あれが制服らしいな。

 ははあ、すると、こういうことか、と首藤は内心で呟く。

 収録までの時間があまりにもなさすぎて、着替えのときに制服を脱ぎ捨てるようにテーブルに投げ出し、大慌てで着替えてそのまま部屋を飛び出した。

 その際にテーブルにぶつかってテーブルは倒れ、その拍子に、上に載っていた段ボール箱とさらにその上に放り出されていた制服が床に滑り落ちた・・・

 首藤はロッカーのそばを離れ、その段ボール箱に歩み寄った。

 ゆっくりとかがんでからガムテープをはがして段ボール箱の蓋を開き、中をあらためる。

 しばらくして蓋を閉めると、ロッカーに戻った。

 さきほどは気にもとめなかったが、ロッカーの前面の扉には、アミューズメントパークの人気キャラクターの透かしの入った便せんが貼り付けてあった。

 お世辞にも上手とはいえない子どもっぽく大ざっぱな文字が横書きで連ねられている。

「おたるへ

 こんにちは。あのね、みんなには内緒やけど、おたるだけには教えるね。

 今日これから、ひまわりは、上野公園の噴水広場で路上パフォーマンスをしてくるねん!

 ひまわりがパフォーマンスをしている途中で、まわりの人たちにまぎれていた神希さんがサプライズで乱入して、「つまんねーんだよ」って、ひまわりを最初はどつくけど、最後は一緒にふざけるとゆうオチ。

 神希さんはジャージの上下にフード付きのパーカーを着てるから、誰も気づかないねんなあ。

 お母さんにスマホで録画してもらって、後でツイッターにあげるねん。

 ひまわりもがんばるから、おたるも収録がんばりや!

 ひまわりより」

 首藤はロッカーの扉を開けると、ダッフルコートをハンガーから外して手に持ち、扉を閉める。

 そして、持参していた、先日ロケで京都に出かけたときに購入した和菓子のお土産を入れていたデパートの紙袋にコートを突っ込んだ。

 それから、さきほどマスターキーを取り出したのと同じポケットからハンカチを取り出し、床に落とした。

 数日前、百円均一ショップで買ってきた無地のブラックの男物ハンカチだった。

 楽屋で盗難があったとなれば、まず疑われるのはマスターキーを所持している警備員である。

 その犯人である警備員がうっかり落としてしまったという印象を植え付けるための小細工だ。

 本来なら、警備員自身のハンカチを盗むのが望ましいが、そのための手立ては思いつかなかった。

 もっとも、それが可能だったとしても、ハンカチは布製であるため指紋が残らないだろうから、指紋という観点からすると、警備員自身のハンカチであろうが首藤の用意したハンカチであろうが、持ち主を指し示す証拠として弱い部分は同じである。

 あくまでも、それが首藤の愛用しているような高級ブランド品ではなく、どこででも手に入りそうな安物であることで、警備員が犯人ではないかという疑いを補強するのではという目論見だった。

 首藤は紙袋を提げて小樽の楽屋をそっと抜け出した。

 往路と同様に慎重に周囲をうかがいながら行動した結果、今度も小樽の楽屋周辺では誰の目にも留まることはなく、駐車場へ下りる階段でスタッフの一人とすれ違っただけで済み、無事に愛車のトランクへ紙袋を隠してから自分の楽屋に戻った。

 楽屋を出てから戻るまでの間、首藤は一切急ぐこともなく、むしろ普段よりもゆっくりと行動したのだが、休憩が始まってからおよそ三十分しか経過していない。

 今は三時半だから、まだ一時間ほど残っているな。

 次の出番が来るまではうろうろ動き回らず、ここでおとなしくしていよう。

 緊張が解けた安堵と、最上のものではないにしろ戦利品を得た興奮とで、首藤は幸福感に包まれた。

 自分が疑惑の目で見られることなどありえないと、首藤は確信している。

 社会的地位はあるし、一男二女の平和な家庭を築いてもいる。

 女子高生の私物を盗むなどという変態的行為に走る人物にはとても思えないだろう。

 日頃からスタッフや後輩タレントにも礼儀正しく接しているし、マネージャーをこき使うこともなく身の回りのことは極力自分でこなすように心がけている。

 そういったことから、人格者として誰からも尊敬の念を持たれていると自負していた。

 自分が犯人として糾弾されることなど露ほども思い浮かべなかったが、ただ、小樽の制服にお目にかかれなかったことが唯一の心残りではあった。

 首藤は楽屋にこもって残りの休憩時間を費やし、誰の目にも触れることはなかった。


 三


 休憩後、首藤のみ出演するコーナーの収録を難なく平常心を保ちつつ一時間ほどで終えて楽屋に戻ると、その扉の前には、ライトブラウンのワンピースの少女が立っていた。

 神希は首藤の姿をみとめると、待ち構えていたように手を振りながら駆けよってくる。

「首藤さん、小樽がスタジオで収録している間に大変なことが起きました!」

「え? 大変なこと? 何があったの?」

 素知らぬふりでそうたずねたものの、おそらく小樽が楽屋に戻ったときに盗難に気づいたのだろうと察しはついた。

 だが、内心の興味を抑えて、表情を動かさずに神希の次の言葉を待つ。

「実はですねぇ、ちょっと前に小樽が・・・ 

 あ、そうそう、聞いてくださいよ! 

 さっき、四時ごろなんですけど、わたしと向日葵で、上野公園の噴水広場で路上パフォーマンスをしてきたんですよ! 

 向日葵のお母さまに動画を撮ってもらって、さっきツイッターにのせました。

 でも、もしかしたら、そういうのは許可が下りないかもと思って、向日葵は仲のいい小樽にだけは教えましたけど、わたしは誰にも言ってなくて、だからマネージャさんや他のスタッフさんにも内緒にしたんですけどね」

 悪びれる素振りもなく、ちょろっと舌をのぞかせる神希。

「あ、そう」

 盗難が判明した後の顛末を聞けるものと思っていた首藤は、はぐらかされた気持ちになってつい気のない返事をしたが、少しは関心のある様子をみせたほうが自然かなととっさに考えて、言葉をつないだ。

「で、どんな感じなの? どれどれ、見せてごらん」

 すると神希は、当然首藤に見てもらうつもりでいたのだろう、左手に持っていたスマートフォンをさっと掲げて、そのディスプレイを首藤に向けた。

 動画が再生されると、上野恩賜公園の噴水がすぐ後ろに、それよりはやや遠くに国立博物館が控える広場の一角で、佐草向日葵が三十人ほどの見物人を前に、でんぐり返しをしながら川柳を叫ぶという、なんとも奇妙なパフォーマンスを行っていた。

 それが十回ほど延々と繰り返された後、「こらあああ、いいかげんにしろおおお」という画面の外から投げかけられた大声をきっかけに、画面が左にずれて向日葵から離れると、今度は全身黒タイツ姿の少女をとらえた。

 神希である。

 見物人の最後方に立っていた神希が早足で向日葵に迫り、そのまま軽くジャンプしながら体ごとぶつかる。

 よろける向日葵。キッとにらみ合う二人。

 それから不毛な口喧嘩が続いたが、なぜか急に和解すると、それぞれでんぐり返しをして交差しながら川柳を競い合い、やがて立ち上がった二人はしばらく見つめ合った後、ひっしと抱き合った。

 ジ・エンド。

「・・・」

 首藤が黙り込んでいると、それを意に介するふうもなく神希はスマートフォンを素早く操作して、再びディスプレイを首藤に向けた。

「これを見てた人が、ツイッターに載せてくれました。まあ、二件だけでしたけど」

 一つ目のツイートは、「神希、見物人にまぎれて登場! 一般人に完全に同化しててワロた」というもので、黒タイツ姿の神希が向日葵に向かう場面の動画が添付されている。

 もう一つは、「神希と向日葵の動き、シュール過ぎ。激オモろ」とあり、二人がでんぐり返しをしている動画が映し出されていた。

「こんな感じだったんですけど、首藤さんはどう思いますかあ、わたしたちのパフォーマンス?」

 期待に胸を躍らせているかのように、きらきらと瞳を輝かせて神希が問いかける。

 だが、首藤の心中はしらけきっている。

「ま、まあ、寒い中、屋外でご苦労さん」

「そ~なんです! ホントに寒くて大変でしたよ~ で他には?」と更なる感想を求める神希。

「う~む、二人は仲が良さそうでなにより」

「そ~なんです! ホントにわたしたち気が合うんですよ~ 名コンビでしょ? で他には?」とグイグイと攻め込む神希。 

「あ~ なんというか・・・ でんぐり返しで川柳っていうのがどうも・・・ なんだか・・・ スゴイね」

「わああ! お褒めの言葉、あざ~すっ! もっと! もっと! ちょうだいっ!」

 開いた掌を左耳にあてがって、まだまだ聞き足りないとばかりに、身を寄せてくる神希。

 首藤は完全に辟易して後ずさりしながら、「え、もっと? むむむ・・・」とこれ以上はなんらの感想もわいてこないので困り果ててしまった。

 すると神希が「パフォーマンス以外のことでも何でもいいですから」と助け船を出してきたので、ふと思いついてなぐさめるように付け加えた。

「ええと、ここから上野公園まで二㎞くらいだよね? 

 まあ、汗をかいて、いい運動になったんじゃない? おつかれさまだったね」

 首藤の苦し紛れの言葉は決して神希を満足させるものではなかっただろうに、神希は納得したようにうんうんと強くうなずきながらスマートフォンをポケットにしまった。

「見てくれて、ありがとうございました」と神希は礼儀正しいお辞儀をしてから、ハッとした表情になって、

「あっ、そうそう! 忘れるところでした! 

 さっきの続きなんですけど、小樽が収録を終えて、楽屋に戻ったんですけどね」

「ああ」ようやく本題にも戻ったようだ。

 神希の語るところによると、小樽は散らかった部屋を片付けてメイクを落とし、着替えをすませ、それからスタッフやメンバーに配るために持ってきていたお米三〇キロを小分けにする作業をした。

 このお米は北海道産の「ななつぼし」という銘柄で、日頃の感謝を込めて皆に渡すために小樽が持参したという。

 小分けにしたそれらを、後で全員が出口で受け取れるように警備員室に預け、さて帰り支度を始めたとき、ダッフルコートが紛失していることに気づいたそうだ。

「最近、この番組の収録のときに、どうやら自分の私物が盗まれているようだって、小樽は気づいていたみたいで。

 リップやグロスなんかの小物とか、化粧落としのコットンやティッシュなんかの彼女が捨てたゴミとか。

 だから、今回、コートを盗んだのもそいつに違いないと思うんです」

「以前にもそういうことがあったんなら、そうなんだろうね」

「で、誰がその変態野郎かっていうことなんですけど、なにより小樽自身の言葉から小樽の楽屋が施錠されていたことは間違いないですし、強引にこじ開けられた形跡もなかったので、犯人は楽屋のキーを持っていたことに違いないんです。

 そうなると、自然と犯人は絞られてくると思うんですけどね」

 ひとさし指を顎に添えながら、普段はみせない真剣な表情をのぞかせる神希に、「だね」と首藤は短く返した。

「それと、犯人は制服を盗んでいかなかったんですよ。

 変態野郎にとっては、大好物でしょうに。なんでなんですかねえ」

「さあね」とこれも短く応じる。

 それから神希はうつむいて考え込むように沈黙していたが、しばらくして思い出したように顔を上げると、急にニヤニヤしながら、

「首藤さんて、女子高生好きなロリコンなんですよね?」

「はあ?」突然の指摘に、思わず間の抜けた声を発する首藤。

 不意を突かれていささか慌ててしまい、舌がもつれる。

「どどど、どうして、そんなことを?」

 神希は再びポケットからスマートフォンを取り出すとなにやら操作してから、ぐいと首藤の面前にそれを突きだした。

 と同時に、音声が流れてくる。

『お前なあ、もうそろそろ、キャバクラとか風俗行くの、やめろよな。

 ちゃんと家庭があるんだから』

『いやいや、でも、首藤さんだって、お忍びでJKリフレ行って、膝枕したり添い寝したりしてもらってるじゃないですか』

『おいっ、その話はやめろっって』

『アキバにある会員制のお店で、みんなかわいいって言ってましたよね? 

 あと、この前も・・・』

『あ~もうやめて~ ごめんごめん、もうお前のプライベートに口ははさまんから、許して』

『そうそう、わかればよろしい』

 ここで神希はスマートフォンを手元に引き寄せ、動画を停止した。

「これは、首藤さんと後輩の芸人さんで放送していた深夜ラジオの録画です。

 およそ二年ぐらい前ですけど、動画共有サイトにバッチリ残ってました。

 深夜だから、何言ってもOKだって油断しちゃったみたいですね」

 神希がありありと浮かべている軽蔑のまなざしに抵抗するように、首藤は激しく首を左右に動かした。

「違う、違うよ。

 これはネタだよ、ネタ。

 笑いを取るための作り話に決まってるじゃん。

 君も芸能界にいるんだから、それぐらいわかるでしょ。

 え? ちょっと待って。

 もしかして、小樽ちゃんの私物を盗んだの、俺だと思ってる? 勘弁してよ」

「え~、そんなこと、まったく思ってませんよ~」と神希はビックリしたように目を見開いて、胸の前で左手を強く振る

「だよな。だって、疑わしい奴ははっきりしてるもんな。

 小樽ちゃんの楽屋のキーを持っていて当たり前の人物と言えば・・・」

「警備員さんですね」

「そのとおり」と首藤は深くうなずく。

「でも、わたしは警備員さんが犯人だとは思いません。

 というのは、楽屋のロッカーのそばの床に男物のハンカチが落ちていたんですよ」

「だから? そのハンカチを犯人の警備員がうっかり落としたとしても、なんにも矛盾しないでしょ?」

 すると、しばしの間を置いて「首藤さん、知ってました?」と首藤の顔色をうかがうように神希。

「何を?」

「だって、なんですよ。

 男物のハンカチを持っているなんて、まず考えられないんです」

「・・・」

「だから、あのハンカチは真犯人の偽装なんじゃないかと思うんです。

 犯人は、警備員に疑いの目が向けられるように、わざと自分の物ではない男物のハンカチを落としていったんじゃないでしょうか。

 とすると、このことから分かるのは、ということなんです。ところで」と神希は続ける。

「ここがおかしなところなんです。

 この放送局に入るには必ず警備員のチェックを受けなければならない。

 ならば、今日の警備担当が女性であることはみんなが知っているはずですよね? 

 なのに、なぜ犯人は、警備員を容疑者に仕立て上げる目的で、男物のハンカチを落とすなんていう、致命的なミスをおかしたんでしょうか?

 だけど、ひとりだけ、警備員さんが女性であることを知らない人物がいる可能性にわたしは思い至ったんです。

 その人物は、この局内では誰もが知っているために不審者と間違えられることなどありえず、また社会的地位もある別格の大物なので、楽屋に近いからという理由で、警備員のチェックを受けずにいつも裏口から入ることが許されている。

 そんな人物であれば、この番組の収録日である隔週水曜日の警備担当が女性であることを知らないのではないでしょうか?」

「・・・ つまり、この俺というわけか?」 

「首藤さんは、カオルさんが女性であることを知っていましたか?」

「もちろん、知っていたさ」

「そうですか? 

 さっきのお話しぶりだと、てっきり男性だと思っていたように受け取れましたけど」

「そんなことはない。俺はマネージャーから聞いて、ちゃんと知ってたよ。

 それにだ、俺は他人の楽屋のキーなんて持ってないぞ。警備員や警備員室から盗むなんてことも、現実的に考えてムリだろ?」

「そうでしょうね。

 だけど、わたし、聞きましたよ。首藤さんは、この放送局の大口の株主だそうですね」

「・・・」

「であれば、この放送局に対して大きな影響力を持っていますよね? 

 危険を冒してわざわざ警備員からキーを盗む必要なんてない。

 管理部門に手を回せば、何か適当な理由を言って、簡単にマスターキーを手に入れることができるんじゃないですか?」

「そんなことはしていない」事実は神希の指摘どおりだったが、そう答えるしかなかった。

 焦った首藤は必死に反論をひねりだす。

「あのさ、さっきハンカチは犯人の偽装だと決めつけてたけど、そうじゃなくって、別の日に担当している同僚の男の警備員のもので、そいつが犯人かもしれないじゃないか。

 警備員という立場を利用すれば、あらかじめスペアキーを作っておくのも可能かもしれない。

 そうしておいて、その男の警備員が自分の担当の日ではない今日、一般の訪問者を装ってこの建物に入り、スペアキーを使って楽屋に侵入したが、その際にハンカチを落としてしまったんだ。

 そういうこともありえるだろう?」

「いや、それはないですね」と、すぐさま神希のそっけない返事。

「この建物の入り口には防犯カメラが取り付けられています。

 本日の画像を確認しましたが、ほかの警備員さんの姿は一切記録されていませんでした。

 裏口や地下駐車場にも防犯カメラがありますが同様でした。

 従って、男性の警備員さんがハンカチを落としたということはありませんね」

「・・・」随分と手回しがいいことだと感心はしたものの、まだ反論の材料が残されていることに気づいた。

「もしかして、その女の警備員が犯人かも知れないぞ。性的な興味とかではなく、転売目的で盗んだのかもしれない。

 その場合、自分がまず疑われると考えて、同僚の男性警備員に容疑を向けるために、男物のハンカチを落としたんだ」

「あっ、そうかあ。それはありえますね」

 うんうんとうなずく神希。

「だろ」と得意げに首藤は神希を見やる。だが、首藤の優越感もつかの間、神希は「あっ」と、どこか白々しい叫びを上げて心底から残念そうに、

「あ~そうだったんだ~ 

 カオルさんは、犯行の時刻、ずっと入口にいてお仕事に専念してたことが証明されてるんでしたあ~」

「・・・」首藤に反論の言葉は尽きてしまった。

 対する神希は首藤の目を真っ直ぐに見つめて離さない。

「なんだよ、この俺が犯人だと言いたいのか? え?」

 半ば投げやりで挑むような口調の首藤に、だが、神希はとりなすようににっこりと微笑んで、再び左手を激しく左右に振った。

「とんでもない! 

 普段からお世話になっている首藤さんを疑うなんて、バチが当たりますよ。今までの話は聞き流してください。

 ごめんなさい、我慢して聞いていただいてありがとうございました」

 そう言って頭を深々と下げると、足早に立ち去っていった。

 廊下での長い立ち話からようやく解放された首藤は、気だるさを覚えながら楽屋に入り、どっかりと椅子に腰を下ろした。

 やれやれ、あの神希というやつ。

 日頃の言動から、てっきりアホだと思っていたのに、あながちそうでもないらしいな。

 だけど俺は大丈夫だ、と首藤は自らを鼓舞する。

 俺がやったという証拠なんてどこにもないんだ。

 それに、俺は全国にその名を知られる有名人で社会的地位もある。

 だが、あいつはほぼ無名のアイドルで、単なる十代の小娘に過ぎない。

 誰にも俺に手だしはできないさ。


 四


 首藤が煙草を一服してから着替えを手早く済ませ、さっさと引き上げようと、首藤の荷物を提げたマネージャーを従えて楽屋を出ようとすると、コンコンというノックの控えめな音。

 マネージャーが開錠すると、それまでの控えめさとは裏腹に、待ちかねたようにばっと勢いよく扉が開いた。

 入ってきたのは、またもや神希である。

 その姿を見るなりウンザリした首藤は、心底からあきれたような声を発した。

「また、君か。何の用だい? 

 俺はもう帰るところなんだけど」

「ああ、そうだったんですね。それはどうもすみません」と神希は殊勝な表情をみせるものの、一向に引き下がる様子はない。

「実は、さっき言い忘れたことがありまして」

「また盗難事件の話?」

「そうなんです!」

「俺は関係ないし興味もないんだけどなあ」

「いえいえ、首藤さんにも関係あると思いますよ。

 それに、すぐ終わる話ですから」

「・・・」

 もうこれ以上、神希とは会話をしたくなかった。

 だが、自分にも関係があると聞かされると、この娘は一体なにを言い出すのだろうと無性に気になるのも確かだった。

 首藤はマネージャーを先に地下駐車場に向かわせておいてから、再び椅子に腰を落ちつかせた。

 対する神希は腰かけずに、扉に背を預けながら語り始める。

 首藤は神希を見上げるような格好になり、なんとはなしに圧迫感を覚えた。

「さっき言い忘れたことというのは、制服のことなんです。

 どうして犯人は、最も盗む価値が高いと思われる制服を盗まずに立ち去ったのか?

 窃盗犯からすれば、コートよりも制服の方が優先順位は高いはずなのに。

 さて、犯人が小樽の楽屋に侵入したとき、制服は床の上に放り出され、段ボール箱の下敷きになっていました。どちらも、テーブルが倒れた拍子にそこから落ちてしまったのですね。

 段ボール箱の中身は、小樽がスタッフさんたちに渡すために持参した三〇キロのお米一袋でした。

 重さ三〇キロであれば、男性ならば持ちあげるのが可能なのはもちろんですし、仮に女性であったとしても、段ボール箱を押して少しだけずらせれば、その下にある制服を引きずり出すことは充分に可能です。

 それにもかかわらず、犯人は制服を盗むことをあきらめてしまった。

 それはなぜなのか?

 わたしはそれを考えていて、ふっと思いついたんです。

 今、わたしが話したことは犯人の身体が健全な状態であることを前提にしているけど、なんらかの異常を抱えていれば、事情が違ってくるんじゃないかって」

 そう言ってから、神希はいったん口を閉ざした。

 次に口を開いたときには、一見、話題が大きく脇へ逸れたように思われた。

「ところで、首藤さん。わたし、今日の首藤さんの仕草を見ていて気になったことがあるんです」

「俺の仕草?」

「ええ、三つほど。

 一つ目は、さきほどご挨拶にうかがったとき、マネージャーさんが首藤さんの靴下を履かせていたこと。

 二つ目は、今さっきのことですが、首藤さんの荷物をマネージャーさんが代わりに持っていたこと。

 いつもは首藤さん、自分の身の回りのことはマネージャーさんにやらせることなんてないのに変だなと思ったんです。

 最後の三つ目は、これもご挨拶にうかがったときのことなんですけど、首藤さんがくしゃみをしたとき、なにか苦痛にじっと耐えるように硬直していたこと。

 わたしは、これらのことが指し示している事実に気づいたんです」

 神希は首藤をしばらく見据えてから言葉をつないだ。

「首藤さん、?」

「・・・」

「首藤さんは腰痛に悩まされている。

 そう考えれば、さきほどの三点にもすべて説明がつくんです。

 腰を曲げるには苦痛を伴うので、自力では靴下を履けなかった。

 また、腰痛に苦しむ首藤さんにはできるだけ安静にしてもらおうと、マネージャーさんが荷物を持ってあげていた。

 さらに、くしゃみをしたときは激痛が走ったので、その痛みが治まるのをじっと待っていたんです。

 持病がある場合、そのことを周囲に言いふらすタイプの人がいますけど、首藤さんは逆のタイプですね。

 いつも収録のときには、スポーツウェアを用意して、休憩時間を利用してジョギングをすることもあるそうですし、首藤さんは自分が若々しくて常に元気だというイメージを保ちたい方なんでしょうね。

 だから、周囲にも腰痛のことは黙っていた。

 で、話を元に戻しますが、この窃盗犯も腰痛を抱えていたんじゃないかなって考えたんです。

 そうであれば、腰に力を加えることを必要とする作業はできませんから、三〇キロの荷物を持ちあげるなんてとても無理ですし、その下の制服を引きずり出すことさえもできないでしょう。

 だから、仕方なく、犯人は制服をあきらめてコートだけを持ち去るしかなかったんですね」

 神希にずばりと指摘されて、怒りと焦りとがないまぜになった首藤は、声を張り上げて言い返した。

「だけど、犯人が実際に腰痛だったかなんて断定はできんよ。

 人の趣味嗜好なんて、千差万別だ。

 制服にはまったく興味をそそられずに、コートに異常な執着を燃やす人間だっているだろうさ」

 神希は「それはそうですね」と素直にうなずく。

 だが、首藤の気持ちは穏やかではない。

「やっぱり俺を疑っているんじゃないのか? そうだろ? はっきり言ったらどうなんだ!」

「いえいえ、そんなこと」と、滅相もないとばかりに、ぶんぶんと首を左右に強く振る神希。

「そんなふうに聞こえちゃったなら謝ります、ごめんなさい。

 今までのは単なる仮説ですから。

 ちょっと首藤さんをドキドキさせちゃおうかな、なんて思って」

 へらへらと緊張感の欠けた笑みを浮かべる神希に、「バカ野郎! 悪ふざけにもほどがあるぞ!」と思わず首藤は声を荒げる。

 すると、さすがに神希も神妙な表情になって、

「ほんとにごめんなさい。

 ですが、実はもう犯人の目星はついているんで、許してほしいんです」

 意外な言葉に首藤は驚きを隠せない。

「何? そうなのか?」

「ええ、そうなんです。

 小樽の熱狂的なファンの仕業らしいっていうことが分かってきたんです。

 今から、その男を追及しに行くので、首藤さんも付き合ってくれませんか? 

 たとえその犯人が傲慢な男でわたしのことなんか見下していたとしても、首藤さんの説得になら耳を傾けると思うんです」

「・・・」

 無論、俺以外の誰かが犯人として糾弾されればそれに越したことはないが…

 こいつ、俺を油断させておいて、俺を罠にはめようと思ってるんじゃないのか?

 首藤はそのことを警戒したが、拒否すればますます疑惑の目が深まりそうであるし、執拗に付きまとわれそうでもあった。

 今日限りでこの件に終止符を打つには、相手の土俵に上がるしかないように思えた。

「ああ、わかった、ついていってやるよ。でも、これっきりだからな」


 五


 首藤は神希と共に、神希が犯人を呼び出してあるというスタジオに向かった。

 万が一、自分が不利な立場に追い込まれたときに頼れる存在として、首藤はマネージャーを呼び戻すことにした。

 収録終わりのスタジオには、犯人と目される人物だけがいると首藤が思いきや、大勢の人間が集まっていた

 ディレクター、アシスタントディレクターを始め、撮影担当、美術担当、音声担当、さらにはプロデューサーや、香河小樽と佐草向日葵を含めた「ネバーランド ガールズ」のメンバーまで顔をみせている。

 総勢五十人ほどである。

 首藤がスタジオに足を踏み入れると、自然と人々が首藤と神希を取り囲むような輪ができていく。

 逃げ場のない袋小路に追い込まれたように、首藤を焦燥と恐怖が襲った。

 だが、首藤がよく周囲を見回してみると、人々の目には糾弾ではなく困惑の色が浮かんでいることに気づいた。

 しかも、その視線の先にいるのは首藤ではない、神希なのだ。

 そのことにいくらか力を得て、首藤は神希をきっとにらみつけた。

「おい、これは一体どういうことだ? 

 まるで俺が犯人みたいな扱いじゃないか? 

 俺が犯人とは思ってないって言ったよな?」

「いいえ、犯人は首藤さん、あなたですよ。

 最初からわたしはそう考えていました」

 なんら悪びれることもなく、しれっとそう言い放つ神希に、首藤は怒りを通り越して呆れかえってしまった。

「おまえはなにを言って・・・」と言いかけるのをぴしゃりと遮る神希。

「あなたは決定的なミスを犯したんですよ、首藤さん!」

「・・・ ミスって、俺は犯人ではないんだから、ミスのなにもないだろうが!」と負けずに言い返す首藤だったが、神希は首藤を凝視したままニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「では、みなさんにわたしの話を聞いてもらって判断してもらいましょう」

 そう冷静に告げると、明らかに乗り気ではない周囲の面々を前に、神希はさきほどまでの首藤とのやり取りを再現した。

「以上のように、首藤さんが腰痛を抱えていること、小樽の楽屋のキーを入手できる立場にいたこと、本日の警備担当が女性であることを知らなかったこと、女子高生へのこだわりがあることから、わたしは首藤さんが犯人であることを確信したのです。

 そして、そもそも首藤さんは、わたしとの会話の最初の段階で、重大なミスを犯していたんです」

 そう宣言すると、神希は周囲をぐるりと見回す。

 この頃には、自信に満ち溢れた神希の話し振りに、首藤を除いた全員が興味津々といった表情を隠そうともせず、固唾をのんで神希の姿を見守っていた。

 スタジオは、神希のいわば独壇場と化していた。

「わたしと向日葵が上野公園で披露したパフォーマンスの動画を見た首藤さんに、わたしが感想を求めたときのことです。

 首藤さん、あなたはこう言いましたよ。

『ええと、ここから上野公園まで二㎞くらいだよね? まあ、汗をかいて、いい運動になったんじゃない?』と。

 さて、この発言の意味を考えてみましょう。

 二㎞の距離を移動したことに対する言葉ですが、もしも車や自転車などの移動手段を用いたのならもちろんのこと、徒歩で移動したとしても、たかだが片道二㎞の距離の移動に対して、高齢の方に対するねぎらいならまだしも、若い十代への言葉として『いい運動』などとは表現しません。まして『汗をかいて』なんて表現を使うはずがありません。

 そうです、そのように首藤さんが発言したのは、

 ではなぜ、そのように考えたのか? 

 それは、事実そのとおりだったのですが、わたしがで上野公園に現れたからなんです。

 さあ、首藤さん、今日のわたしは、今みたいにワンピース姿でしか首藤さんの前に現れてはいませんよ。

 そして、あなたは上野公園にいなかったはずなのに、なぜわたしがそのような格好をしていたのを知っているんです?」

「え? なぜって、あんたがツイッターを見せたからだろうが」

 神希は軽くうなずいてから、

「そうでしたね、わたしが首藤さんに二人のツイートの内容を見せたのでした。

 その内容は次のようなものです。

 一つ目は、「神希、見物人にまぎれて登場! 一般人に完全に同化しててワロた」というツイートで、黒タイツ姿のわたしが向日葵のところへ歩いて行く場面の動画が添付されていました。

 二つ目は、「神希と向日葵の動き、シュール過ぎ。激オモろ」というツイートで、わたしと向日葵がでんぐり返しをしている動画が添付されていました。

 しかし、どうです? わたしが黒タイツ姿になる前にジョギングスタイルをしていたなんて、この二つのツイートからはわかりようがないんですよ。

 現場にいなかったはずのあなたがなぜ、わたしがジョギングスタイルをしていたことを知ることができたのか? 本当の理由はこれなんです!」

 そう言い放つと、神希はポケットから取り出した便せんを高く掲げて、ひらひらと振った。

「ここには、向日葵が小樽に宛てたメッセージが書かれています。

 今、読み上げてみましょう。

『おたるへ

 こんにちは。あのね、みんなには内緒やけど、おたるだけには教えるね。

 今日これから、ひまわりは、上野公園の噴水広場で路上パフォーマンスをしてくるねん!

 ひまわりがパフォーマンスをしている途中で、まわりの人たちにまぎれていた神希さんがサプライズで乱入して、「つまんねーんだよ」って、ひまわりを最初はどつくけど、最後は一緒にふざけるとゆうオチ。

 神希さんはジャージの上下にフード付きのパーカーを着てるから、誰も気づかないねんなあ。

 お母さんにスマホで録画してもらって、後でツイッターにあげるねん。

 ひまわりもがんばるから、おたるも収録がんばりや!

 ひまわりより』

 もうおわかりですね? 

 ここに書かれている内容を知っているのは、わたしと向日葵、撮影をした向日葵のお母さま、そしてメモを呼んだ小樽だけのはず。

 しかし、首藤さん、あなたもこの『神希さんはジャージの上下にフード付きのパーカーを着ているから』という文章を読んで無意識に脳裏に記憶したがために、『ここから上野公園まで二㎞くらいだよね? 

 まあ、汗をかいて、いい運動になったんじゃない?』という致命的な発言をしてしまったのです。

 では、この便せんが貼ってあった場所は? 

 もちろん小樽の楽屋です。んです。

 従って、小樽の楽屋に侵入し、コートを盗んだ犯人は、首藤さん、あなたです!」

 断罪するように、神希は首藤の胸に左のひとさし指を突きつけた。

「・・・」

 首藤の思考はいまや失われていた。

 頭がぼうっとしびれて、必死で脳内をまさぐるもののなにも言葉が浮かばない。

 数秒間、重苦しい沈黙が支配する中、ぽつりと神希がつぶやいた。

「まあ、実際に上野公園でその光景を見たというなら別ですけど・・・」

 ハッと首藤は、己の身体に電流が走ったようにひらめいた。

 そうだ! その手があったじゃないか!

 まさに溺れゆく人間が藁をもつかむような感覚で、首藤は神希の言葉に飛びついた。

「そ、そうなんだ、そうなんだよ! 

 実は俺は、上野公園にいたんだ、現場にいたんだよ! 

 俺が休憩時間を利用してジョギングをするのが趣味なのは知ってるよな? 

 だから、さっきも上野公園まで走ってきたんだ。そして、あんたのジョギングスタイルを目撃したんだ! だから俺はあんな発言をしたんだ!」

 俺が階段でスタッフとすれ違ったのは休憩に入ってからおよそ三十分後の三時半ごろで、たしか神希は動画を四時ごろ撮影したと言っていた。

 俺は三時半以降の残りの一時間は楽屋でひとりきりでいたのだから、その間に上野公園を往復したと強弁すれば誰にも否定はできない!

「腰痛を抱えたその体でですか?」と冷酷な口調で神希。

 だが、首藤はひるまない。

「あ、ああ、そうだとも。

 一時的に痛みが引いたんだ。

 俺は今日もジョギングのための服や道具は持ってきてるんだからな」

「防犯カメラには、首藤さんが外に出た映像なんてなかったんですけど」

「楽屋の窓から出入りしたんだ」

「楽屋の窓? なんでです?」

「なんで? 外に近いからだよ! 

 裏口まで行くのが面倒だったんだ」

「ほんとですか?」と疑わしそうに神希。

「ほんとだとも! おいっ、田中! 俺のバッグを取って来い!」

 言いつけられたマネージャーが地下駐車場を往復するまでの数分間が、首藤には永遠にも等しく感じられた。

 マネージャーが駆け足で戻ってくると、待ち焦がれた首藤はスポーツバッグを荒々しく奪い取り、憤怒の形相で神希に突きつける。

「これだよ! 今、見せてやる! 

 俺はこれに着替えて、走って上野公園まで往復したんだ!」

 首藤は乱暴にジッパーを引っ張り、中の物をつかみだした。

 現れたのは、ジャージの上下やティーシャツ、それにランニングシューズ。ではなく・・・

 

「そ、そんなバカな・・・」

 スカートをポロリと落とした首藤は、惰性のように機械的な動作で再びバッグに手を入れ、中の物を取り出す。

 次に現れたのは、同じくチェリーピンクの大きなリボンタイ。

 さらにはオフホワイトの半袖ブラウスに、ワインレッドのベストが・・・

 呆然と立ち尽くす首藤に、とぼけた口調で神希。

「あ~それ、『ネバーランド ガールズ』の制服風のステージ衣装で~す。

 さっき首藤さんにご挨拶した後、向日葵と二人で廊下でコントを披露したとき、小樽が楽屋に忍び込んですり替えていたんです。

 後で首藤さんがバッグを開けたら驚くかなあって。

 ドッキリのつもりだったんですけどね。えへへ。

 それにしても、中年のおじ様がそんな衣装を着て、街中を走って上野公園を往復したとしたら、さぞ目立ったでしょうねえ」

「ああ、あああ・・・」

 羞恥のあまり顔面を紅潮させた首藤は、頭を抱えてがっくりと膝から崩れ落ちる。

 その姿を憐れむように見つめていたプロデューサーが、犯人が判明したという安堵や喜びよりは、むしろやりきれないような無念の面持ちで重々しく口を開いた。

「こうなってしまっては、もう仕方ないですね。

 ほんとうに残念ですが、首藤さん、身の回りのものを調べさせてもらいますよ」


 六


 二週間後の同局の楽屋にて。

 番組の収録前、向日葵が何度目かの話題を持ち出してきた。

 それほど衝撃的な出来事だったのである。

「あのときは、ほんとにうまくいきましたよね! 

 神希さん、やっぱり天才! 

 まさしく救世主ですね!」

 両掌を祈るように組み合わせて、憧れに満ちた表情で向日葵は神希をほめそやす。

 そんな賛辞にまるで謙遜するふうもなく、神希は当然でしょといわんばかりにうんうんと強くうなずいている。

「でしょうねえ、でしょうねえ。ドッキリ大成功!って感じだよね」

 

 あの日、スタジオで神希が大勢を前にして首藤を打ちのめした後、すぐに小樽のダッフルコートの捜索が開始され、あっさりと首藤の愛車のトランクからそれは発見された。

 直後に、スタッフと首藤の間で話し合いの場が設けられ、首藤が番組を降板することが即決された。

 大黒柱を失った番組の処遇を決定するのには数日を要したが、とりあえず四週間の存続が決まり、今こうして神希と向日葵は本番を控えているのである。


 当の首藤にはまったく自覚はないようだったが、初めて小樽の楽屋で盗難が起きたときから、彼女は首藤の仕業だろうと確信していた。

 首藤が彼女を視界におさめるときの目つき、彼女に話しかけるときの口調や表情。

 特に、小樽が登校用の制服姿で首藤の楽屋に挨拶に訪れたときの下卑た顔つき。

 それらから、小樽は首藤の異常性を敏感に感じ取っていたのである。

 さらに、首藤の情報をインターネットで検索してみると、彼の性癖が暴露されたラジオ番組の録画に行きあたった。

 そこで彼女は、グループで最も仲のいい向日葵に疑惑を打ち明け、その向日葵は信頼している先輩の神希に相談した。

 向日葵の話を聞くやいなや怒り心頭に達した神希は、支配人やマネージャー、そして番組のプロデューサーに訴え出た。

 だが、まったく相手にされることはなかった。

 首藤は、番組制作に絶大な影響力を誇る大物タレント。疑惑だけで追及するわけにはいかない。

 相手の機嫌を損ねてしまったら番組を降板されてしまい、担当スタッフは局の上司から大目玉をくらうことは必至だ。また、大黒柱を失った番組の存続は危機に瀕し、「ネバーランド ガールズ」陣営としては、せっかくつかんだレギュラーの座を奪われてしまうことになりかねない。 

 そんな自らの保身や利益を最優先する大人の事情とやらのせいで、彼らは重い腰を決して上げようとはしなかった。

 それならば、自分たちが立ち上がるしかない! 

 神希はそう決心した。

 首藤の罪を暴くうえで最も手っ取り早い方法は、小樽の楽屋に向かう首藤の後をつけて、現場から出てきた首藤の姿を動画で録画することだった。

 だが、非常に警戒しているであろう首藤に尾行が感づかれないとも限らないし、もし万が一そうなれば首藤の気分を害し、ひいては神希のみならず「ネバーランド ガールズ」全体に不利益を与えかねない。

 だったら、自らの知恵で首藤を罠に嵌めてしまえばいいんだ!

 神希はそう決断したのである。

 首藤が小樽の小物や小樽が捨てたゴミを蒐集するのに飽き足らず、そろそろ制服にもその触手を伸ばしてくるであろうことは容易に想像がついた。

 その欲望を後押しするために、小樽がアイドル活動を終了するため今日が最後の番組収録となることを神希は首藤に告げたのである。

 芸能界を引退し北海道に帰ってしまうとなれば、よほどのことがなければ、金輪際、出会うことはなくなってしまう。

 とすれば、首藤は腰痛を押してでも今回の収録時に必ず行動を起こすに違いなかった。

 もちろん、小樽の帰郷やグループからの卒業は、神希がでっちあげた嘘であった。

 こうしてあえて首藤が制服を盗みだそうとする事態に誘い込み、首藤が犯人でしかありえない状況を作り出すことにしたのである。

 近頃の首藤の言動から、彼が腰痛に悩まされていることを見抜いていた神希は、お目当ての制服の上に重い荷物をのせることで、制服を断念せざるを得ないように画策した。

 ただ、それだけではあからさまで相手を警戒させてしまう危険性があるため、テーブルを倒しておき、それは遅刻しそうになった小樽が慌ててぶつかったためで、その結果、制服が偶然に段ボール箱の下敷きになってしまったように思わせることにした。

 そして小樽には、大急ぎでスタジオに駆けつけたような様子を見せるように指示をしておいた(ちなみに、マネージャーの欠席の事情は本当であり、小樽の行動に一層の説得力を与えた)。

 また、犯人が腰痛であることに加え、マスターキーの持ち主であることを指摘するのも予定どおり。

 警備員の他に首藤もまた、マスターキーを手に入れることができうる立場にいることは事前に調査済みだった。

 ただ、予想外だったのは、首藤が警備員に疑いが向くようにハンカチを落とすという小細工をしたことだが、このことは首藤が自滅を招いたに過ぎなかった。

 そしてさらに、犯人しか知りえない事実を指摘することで、首藤を破滅に追いやることにした。

 ただし、大勢の前で大恥をかかせるような方法で。 

 あの日の収録前、神希は首藤とそのマネージャーを、向日葵とのコントを見てもらうという名目で廊下に連れ出した。

 そしてコントの一環として、観客二人に目をつぶらせることを数度繰り返している間に、小樽が首藤の楽屋に忍び込み、首藤のスポーツバッグの中身と自らのステージ衣装とをすり替えて楽屋を忍び出たのである。

 また小樽は、自分の楽屋の目立つ場所すなわちロッカーの前面に、これみよがしに向日葵が書いた便せんを貼り付けておいた。

 コートを盗むことにした首藤は、案の定その便せんを目にし、読んだ者しか知りえない事実を知っていることを神希の前でうっかり口にしてしまったのである。

 神希がジャージの上下にパーカーを着こんでいるという事実を。

 首藤のその失言を引き出すために、神希は色々な策を練っていたのだが、そのうちのひとつ、パフォーマンスの感想が浮かびにくいことを見越した上で執拗に感想を迫り、パフォーマンス以外のことまで喋らせるという作戦が的中し、うっかり首藤が口をすべらせてしまったのであった。

 ちなみに、ツイートや動画で服装の件が暴露されないために、ジョギングスタイルを脱いでタイツ姿に変わるまで、神希が群衆の最後方にまぎれて気配を消していたことは言うまでもない。

 こうして、首藤はまんまと神希が張り巡らした罠に飛び込んでいった。

 そして、最終的に追いつめられた首藤は神希の誘導にいとも簡単に乗せられてしまい、最後のあがきとしてジョギングで上野恩賜公園を往復したと言い張ったことで、小樽のステージ衣装を着て街中を走ったというありえない主張をしてしまい、大勢の前で赤っ恥をかいて神希の前に敗北したのであった。


 アシスタントディレクターが収録の始まることを告げに来た。

 神希は、このときを待ってました! とばかりに勢いよく立ち上がる。

「わたし、ほんと、ドッキリとか仕掛けるの、大得意だから! 

 向日葵、わたしのお手本をしっかり目に焼けつけておいてね!」

「はい、わっかりました、神希さん! 

 しっかり勉強させていただきます!」


 七


 局の打合せ部屋。

「ネバーランド ガールズ」の専用劇場の支配人の大関と副支配人の鵜狩が、額を寄せ合ってなにやら真剣な話の真っ最中。

 その様子を小型隠しカメラがとらえている。

 部屋の奥に見えるロッカーの中には、神希が息を殺して身を潜めていた。

 そのロッカーの扉をいきなり開けてばっと神希が飛び出し、二人を驚かせるという演出だ。

「ククク・・・ 大関さんも鵜狩さんもビックリして椅子から転げ落ちたりして」

 二人のリアクションを想像するだけで笑いが自然とこみ上げてくるのを、神希は口を押さえて必死にこらえている。

 二人は、番組を成功させるために、「ネバーランド ガールズ」のメンバーをどのように育てていくかを個別に名前を挙げながら検討している。

 ひと通りそれが済むと、話題が特定のメンバーの言動へと移った。

「ところで」と大関があらたまった口調になって切り出した。

「あいつのことなんだけどな・・・ ちょっとやり過ぎだろう」

「ええ、やり過ぎですね」と鵜狩も応じる。

「わたしたちに断りもなく、街中でパフォーマンス動画を撮影して、それをツイッターにのせるなんてな」

「まったくです。俺たちに許可なく勝手にあんなことをするなんて、決して許されるべきことではありません」

「だな。向日葵はたぶん先輩に断ることができなかったんだろうから情状酌量の余地はあるが、あいつは言語道断だ」

「ええ、俺も同感です」

「じゃあ、二人の意見が一致したということで決まりだな」

「はい、決まりですね」

「本人には誰が告げる? 

 もちろん立場上はわたしだが、なんか苦手でね。

『おまえはクビだ』なんて言うのは」

「仕方ありませんね。

 では俺がはっきり言ってやりますよ。

『おまえはクビだ』って」

「すまんな。じゃあ、そういうことでよろしく」

 ヒックヒック、シクシク、ヒックヒック。

 部屋の奥から、少女の嗚咽が聞こえてくる。

 やがてロッカーの扉がゆっくりと開いて、ふらふらとよろけながら神希が姿を現した。

「わたし、クビですかあ・・・

 まだアイドルを続けていたいんですう。

 アイドルが大好きなんですう。

 もうしません、もうしませんから、クビにはしないでくださああいい」

 駄々をこねる子どものように両肩を左右に揺すりながら、絶叫するように懇願の言葉を連ねる神希。

 眼が真っ赤にはれ上がり、ぽろぽろと大粒の涙を流している。

 そんな様子をしばらく眺めていた二人は、やがてお互いにうなずき合った。

「もう、いいよな」

「ええ、もう十分でしょう」

 鵜狩は神希に向き直って、なかばあきれた口調で、

「他人を罠に嵌めたと思えば、今度はあっさりと自分が騙される。

 おまえって、ほんと不思議な娘だよなあ」

「?」

「あのなあ、勝手に動画を撮ってツイッターにのせたぐらいでクビにするわけないだろうが。

 ましてや、小樽を救うために必要な行動だったんだ。

 今回の件では、俺も色々と考えさせられたし、おまえには感謝しているんだぜ」

「?」

「それになあ、今どき、ロッカーからいきなり登場して驚かすなんていう古臭いドッキリの企画、通るわけないだろうに」

「?」

 いつの間にか泣き止んで、ポカンと口を開けて立ちつくす神希。

 すると突然、部屋の扉が開いて香河小樽が登場。

 小樽は満面の笑みを浮かべながら、手に提げていたプラカードを頭上に掲げた。

 そのプラカードには、大きく太字でこう書かれていた。

「逆ドッキリ、大成功!」

(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裸の王様 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ