第2話 らっきょう漬け





 昨日は梅雨末期の大雨で何度も自治体からの警報の知らせが鳴った。


 私の住む地域はハザードマップで見る限り大丈夫そうだけど、線状降水帯の来襲は絶え間なく、どの地域でもけっして油断してはならないのだと思う。


 と言いつつも、ぐっすり寝入った真夜中に最大音量で鳴られるとどうすればよいかわからず、しばらく呆然スマホを眺めてしまった。

 そんなこんなだったが、豪雨はしばらく眺めていると去ってくれた。


 かみさまありがとう。

 もうそろそろ雨水は結構です。



 幼いころの梅雨はもっと穏やかだったように思えるのだけど、それは子どもゆえの呑気さだったのだろうか。


 傘をさして、雨靴を履いて、おともだちとおしゃべりしながら学校への短い通学を楽しんだことばかり思い出す。



 そして、私の中で梅雨の一番の記憶は、らっきょうの皮むきだ。


 その時自分が何歳だったのかはよく覚えていない。


 ただ、雨がしとしとと降り続く中、母が泥を洗い流したらっきょうをざるにあけ、山積みになったそれの不要な薄皮を取るという作業を、玄関を出て数段降りた階段で始めた。


 私はそのらっきょうの入ったざるを挟んで隣に座り、薄皮を取るのを手伝った。


 雨雲の薄明りの中、座った場所から見える光景はどこか幻想的だった。


 白銀のしずくが少し光を帯びながらさらさらと天から地へ降り注ぎ、公園を挟んで向かいの建物を少しかすませる。


 見慣れた建物。


 同じ高さには同級生の部屋のあるベランダが見える。


 ここは同じ造りの建物がいくつもいくつも連なる団地で、みんな住んでいる筈なのに、人の気配はなく、雨が起こす音と母と私と、らっきょうからたちのぼるつんとした匂いだけしかない。


 まるで、どこか別世界にいるみたいだった。


 多分、おしゃべりな私はべらべらと何かしゃべり続け、共用階段ゆえに母から静かにするよう注意されたことだろう。



 それから成長とともに住まいも変わり、生活の時間も変わった。


 らっきょうの薄皮とりはそのあと何度かやったように思えるが、いつの間にか気が付いたら出来上がっている状態になり、らっきょう漬けは母ひとりの仕事となった。


 今を思えば、梅雨で外遊びができない私がうるさく付きまとうので気を紛らわせるための手段だったのだろう。



 そして結婚してからは夫が球根の類を食べるとてきめんに腹を下す体質のため、玉ねぎ、にんにく、らっきょうは家に置かなくなった。


 なくてはならないものではないけれど、カレーを食べる時にそっと添えたい気分になるのが、らっきょう。


 福神漬けでも構わないのだけど、あの、つるりとしたらっきょうの表面を歯でカリッと噛んだ瞬間にじゅわりと染み出る甘辛い汁と香りが懐かしい。


 その味わいをふと思いだすと、時々母にお願いしてジャムの瓶一つ程度譲ってもらうようお願いしようかと本気で考えるが、まったく手伝わないのに図々しいかと思いとどまっている。


 ここで、己で漬けるか! とならないのが、わたしの駄目なところだ。


 狭い住居内に保管場所ないし、独りで食べるには量が多いし…と言い訳し続けて月日が経っていく。



 自らひとりで漬けたことは一度もないけれど。

 梅雨が来るたびに、ああ、らっきょうの季節が来たなと思う。


 貴重な経験でもあり、母との特別な時間だった。


 雨が降ると、あの階段にもしかしたら今、小さな女の子が座っているかもしれない。

 そんな想像をしてしまうほどに。




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