再びの夢

 あの夜から、正確にはもっと前からなのだろうが、あの女の夢ばかり見る。日増しに女の気配は濃くなっているように感ぜられるのが少し不気味だった。




 今夜もあの女が来る。そう思うと嬉しいような安心するような、しかしどこか不気味で、まるで悪魔に心を握られているような心持ちがした。……あの女は悪魔か? それは違う、と慌てて否定して、自嘲気味に呟いた。




「……正体の知れぬ女を自分で悪魔かと疑ったくせに否定して……俺はおかしくなってしまったのか」




 煙草の吸い殻の比較的長いのを拾い上げて、火を点けようとマッチ箱を探す視線を巡らせた、そのとき。




『ヨウコ様は月からおいでになります』




 年を取った女の声が耳元でした。




 さすがにぞわりと肌が粟立つ。




「……誰だ、」




 呼びかけても勿論返答などあるはずもなく。声が若干震えたのを耳が感じた。背筋が凍りついたように動きがギクシャクとした。咥えた煙草を灰皿に捨てて、羽織を脱いでそのまま寝転ぶ。




 ヨウコ……あの女か……。名前があったのだな……。




 ……思いを巡らせても怖いものは怖い。枕にギュッと顔を押し当てて、そのまま眠ってしまおうと思った。




『月からおいでになります』




 何度も寝ようと心がけたが、何度も何度も耳元にあの老婆の声が響く。『月』と発音するときの息遣いまでもが聞こえてきて、耳にその息がかかるような心持ちがして、恐怖で意識が遠のくのを感じた。






 ハッと目を開いたとき、視界に広がるのはいつもの部屋だった。うつ伏せになって、万年床から部屋を見渡している。ただ、違うのは、




「霍翠先生……」




 あの女の長い髪が、視界に入っていることだった。暗いはずの真夜中の部屋が何故見渡せるのかというと、月のように女が淡く発光しているからであった。




 慌てて振り返ると、目が合った。




「……ようやく、こちらを向いてくださいましたね」




 その女、ヨウコは、思っていたとおりの美女であった。色白の、丸顔で、両の瞳は大きく丸く潤み、睫毛が濃く、力強い引力に満ちていた。柳の葉のような眉に、低めの小さい鼻。そして、ぷっくりと紅い愛らしい唇。雰囲気が、初恋の人に似ていた。初恋の人よりは、気だるさがなくて、そのぶん愛嬌があった。彼女は藍染の浴衣を着ていた。




 霍翠は、姿を目視した時点で惚れていた。




 よく、女性の声を表現するのに、「鈴を転がすような」とあるが、彼女の声はまさに鈴であった。鈴といっても、神社の鈴から、根付の小さい鈴まであるが、彼女は風鈴といった具合の声であった。




「なぜ、その名を……?」




 霍翠はなんと声をかけるべきか散々迷って、なぜ名を知っているのか聞いてみることにした。




「貴方の綴る物語を、私はずっと見てまいりました。貴方の筆名もそのときに」




「私の物語を……?」




 フアンレターの名前の中に、ヨウコという名前がなかったか思い返したが、手紙を寄越すのは青年ばかりで、女性からの手紙など、考えてみたら霍翠が生まれてから一度もなかった。




「私の名も呼んでくださいませ……婆から聞きましたでしょう」




「……ヨウコ……さん……」




 名は呼ばれ慣れてはいるが、呼び慣れてはいない。なにより今日初めて名を知ったのだ。




「太陽の陽に、子どもの子でございます」




「……陽子さん」




「はい、嬉しゅうございます」




 陽子は極めて嬉しそうに微笑み、頬を染めた。




 霍翠は何かが感情を突き上げてくるのを感じたが、慌ててそれを殺した。女性の前ではしたない行動をしてはならない。一生それを指摘され続けるのを知っているからだ。




 とりあえず霍翠は起き上がって、夢ではないのを確かめるために原稿用紙に字を書いた。霍翠は夢の中で字が書けたことがない。




「なになさっているの?」




「貴女の名前を忘れないようにと」




 原稿の端に『陽子』と書けた。夢ではないらしかった。




「霍翠先生、ねえ、こちらを向いて?」




「ん?」




 その刹那、唇に柔らかいものが触れた。陽子の腕が首に回され、霍翠も両の腕を陽子の腰に回す。徐々にくちづけの音が激しくなり、唇を割って、熱い舌が口の中に入ってきた。……接吻の味など、とうの昔に忘れたが、こんなにも甘くとろけるものであったか……? 例えるならば、春、月宵のもとで花見酒を飲んでいるときの風の味。淫靡で猥雑な本性を隠す、爽やかで甘く、かつ抒情的なあの風景。




 顔をふとそむけて、唇の端にくちづけを落とすように、接吻を終わらせた。




「貴女の正体がわかりましたよ」




「え?」




 首すじに縋りつくように抱き着いていた陽子に優しく声をかけると、驚いたように目をまんまるにして霍翠の瞳を覗いた。




「……貴女は、月夜の夜桜の化身だ」




「夜桜……? ふふふっ」




 陽子はさも可笑しそうに笑った。




「なぜそんなに笑うんです?」




「だって……ふふ、霍翠先生らしいなって、思いましたの」




「私らしい……とは」




 霍翠は少し不貞腐れたようになってしまった。こういうときに女から出てくる言葉は遠回しに霍翠の童貞臭さを嘲ったものであることは必定であったからである。




「私の好む霍翠先生の物語のようです。夜桜だなんて。……花は桜木、人は武士、って……忠臣蔵だったかしら」




「そうです、よくご存知ですね」




 霍翠はホッとした。この人は自分を嘲ったのではない。おまけに文学の知識もある。その辺りにいる阿呆そうな女とは全く違う。




「……私も、パッと散りたいものです」




「突然何をおっしゃいます、陽子さん、私達は出会ったばかりですよ」




「いいえ、霍翠先生。私がここへ降りてくるには、たいへんな努力と、気の遠くなるような時間がかかっているのですよ」




『陽子様は月からおいでになります』




 霍翠はハッとして耳を押さえた。




「まさか……月から……」




「ええ、……私は月に住まう精霊。月の光を通して貴方だけを見つめてまいりました。……貴方に惚れ込んで、会いに行きたいと願い続け早十年。ようやく月の役人の許可を得て、半刻かけて毎夜降りてまいります。ですが……その許可申請も次の新月が期限。その前に貴方を連れてゆくか、私がこちらで散るか、そのどちらかしか私には残されておりません」




 陽子は一息に涙ながらに語った。次の新月……いまは新月へ向かう下弦の月。あと1週間しか残されていない。




「……陽子さん、私は、あまりこの世に未練などありません。このまま三文文士に成り果てて、鳴かず飛ばずで死んでいく未来しか私には残されていない」




「でも、私は貴方の綴る物語も含めて、貴方を愛しているのです。そんな言い方はしないで……」




「そうだ、いいことがあります。私達は出会って間もないが、私達は出会う前から結ばれていた。とするのならば、私のこの命、貴女に預けましょう。一緒に連れて行くも、ここに置き去りにするも、貴女に任せます」




 一度は、悪魔かもしれぬと疑った女。それでも、何度も『愛している』と言われてしまえば。毒を食らわば皿まで。この命などどうなろうと構わなかった。




「……嬉しゅうございます」




 陽子は霍翠の首すじに縋りついた。縋りつく直前の、あまりに綺麗すぎる微笑みが、薄ら恐ろしかった。




 夢魔にも様々な種類がいるという。自分はこの先1週間で死ぬのだ。そう思うと、早く月が欠けないかとそわそわしてしまうのを感じながら、陽子の髪を梳いてやった。

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