憔悴気味


 会合の夜から一週間が経った。一週間後に来てくれ、と霍翠に言われていた枚岡は少々心配気味に霍翠を訪ねた。あの男は自分で思っているよりも人気に当てられやすい。自分で誘っておいてこう言うのはおかしな話だが、集まりのあと三日間は使い物にならない。誘わなければいいだけなのだが、連れて行かなければまた角が立つ。




 最後に訪ねたとき、霍翠の原稿は白紙に近かった。一週間程度で十枚も書けているだろうか。今回は珍しく難産なようだった。体調が優れないというのはもちろんあるだろうが、なにか苦悩しながら書いているように見えて仕方がない。




「小川ぁ、生きてるか?」




「……あぁ、原稿まだなんだ……すまない」




 案の定原稿は仕上がっていなかった。ただ、もう少しで仕上がるというので、部屋の中で待っているように言われた。万年床の上に胡座をかいて座る。霍翠の悩みながらペンを走らせる背中をじっと見ているより他なかった。




「もう少しってあと何枚あるんだ」




「……三枚」




 十枚のうち七枚はどうにか書けたということだ。しかし霍翠はかなり憔悴している。いったいどうしたことだろう。そんなにあの会合が悪影響を及ぼしたのだろうか。通常であれば三日もすればケロリとしているというのに、あの夜よりも見るからに窶れている。




「かなり悪いと見えるね、体調が」




「いや……なんということはないさ、寝不足かな」




 霍翠は心当たりがないらしかった。いや、心当たりがないというよりは、なんでもないと誤魔化したいように見える。一度医者にかかったほうが良いのではないかと進言したが、頑としてなんでもないを貫き通した。ではなぜ日に一枚しか書けていないのかと問うとその質問には答えなかった。体調は関係ないんだ、とだけ言って黙りこくってしまった。ペンは迷いながら物語を終わらせようとしていると見えた。




 部屋の中に沈黙が重く漂う。枚岡は咳払いをして改めて部屋の中を見渡した。大きい本棚。これは枚岡が霍翠に贈った。畳の上に平積みにしてあった本の塔を避けるようにして生活する霍翠が難儀に見えて仕方がなかったので、中古でも構わないか聞く前に蔵から埃だらけの本棚を出してきてその埃ごと霍翠の部屋に置いた。霍翠は迷惑そうな顔と声で埃を綺麗に掃除して、几帳面に本を詰めた。




 本も枚岡の家から持ってきたものが多数ある。枚岡に献本されてきた作家仲間の本を譲り渡しているのだ。残りの本は霍翠の実家から。両親が共に流行り病で亡くなって遺産として本だけが末っ子の霍翠に遺されたらしい。父親は漢学者だったのでいまの霍翠には有難い本ばかりだ。そういうわけで本だけはある。この下宿を引き払う際に引っ越しをどうするのか問いたいところではあるが、そんなこともなさそうなので床が抜けない程度に本を譲り渡している。




 それから机と、万年床。紙と埃と畳と布団しかない、簡素な部屋だ。服はいつでも同じ着物。外に出るときは一張羅の洋服を着て、霍翠のトレードマークにもなっているカンカン帽を被っている。なんでも元恋人から贈られたものだそうだ。嫌いになって別れたというわけでもないので、被れなくなるまで被るのだといつか話してくれた。いつでも同じ服装をしているのに不潔に見えないのは、霍翠の顔が涼やかだからだ。色男というほどでもないが、枚岡のように無精髭を生やしているわけでもないし、眉も濃くないし、肌の色も濃くないし、かと言って薄い顔をしているわけでもない、少し幼い、それでいて爽やかな顔をしている。髪の毛も短く、月に一度は散髪に行くから、服がどうであれ清潔感が漂っている。育ちのいい坊っちゃんだからというのもあるのだろう。




 ではなぜ坊っちゃんが貧乏暮らしをしているのかというと、お金のことはわからない、と目を背けてきた結果、遺産をすべて兄貴たちに持っていかれたからである。こればかりは霍翠が悪いとしか言いようがない。ろくに目も通さず兄貴から渡された証文に署名をしてしまった。そこには、遺産相続のあれこれをすべて長兄に一任し、霍翠はこれに文句を言わない。さらに小川家とは縁を切ること。と書かれていたようだ。なにせ両親共に流行り病で亡くすとは誰も思っていなかったし、両親もそんなことで死ぬとは思っていなかったから、遺言書などは用意されていなかった。ぼんくらと思われていた霍翠は兄貴たちから除け者にされ、縁まで切られてしまった。霍翠には父親が集めた本がどさりと与えられ、それきり天涯孤独になった。




 とはいえ、もとより自由を望んでいたし、ほんとうにお金のことはわからないし、原稿料でなんとか、その日暮らしではあるがやってこられている。霍翠にとってはこれでも別によかったのだ。しかし枚岡はこの男のことを哀れまずにはいられない。どうして書生を何人も抱えるいいとこ育ちの坊っちゃんが、一度灰皿に差した吸い殻を拾って吸い直さねばならぬほど困窮しているのか。少し空想癖のある活字中毒者をぼんくら呼ばわりとは何事か。枚岡はこの男のあらゆる面を気に入っているので、霍翠の兄貴たちの所業がまるで許せなかった。






「……できた」




「できたか、難産だったな」




 霍翠は絞り出すように脱稿の声を上げた。ペンを置いて思い切り伸びをするとそのまま後ろの万年床に倒れ込んだ。




「大丈夫か?」




 胡座をかく枚岡と目があう。すぐに霍翠は目を閉じて




「大丈夫さ、」




 と手をひらひらさせた。目の下には濃くクマが浮いて、唇も乾燥しきって血が滲んでいる。明らかに病人の顔であった。




 枚岡は立ち上がって机に揃えて置かれた原稿を確認した。霍翠の小さな几帳面な四角い文字で『相思樹伝説』と書かれている。




『その昔の清国のお話です。宋の時代の康王という王の召使に、韓憑という男が居りました』




 出だしは字も安定している。一枚捲ると、韓憑の美しい妻が王に奪われ、妻が嘆き悲しんでいる。




『共に居られないのであれば、今すぐにでも死んでしまいたい』




 と細く、自信を失くしたような字で書かれている。ここから霍翠の字はさらに小さくなって、迷いを孕んでいる。いったいこの台詞のなにがそうさせたのか? なにか感情を移入させる対象があったのか……? それに、霍翠の書くものは原本があって、それの翻訳•脚色が主である。なにをそんなに迷うのか?




「なあ、なにかあったろう、小川」




「……なんにもないさ、なんにもね」




「いや、なにかあったろう君。字を見ればわかる」




「体調が良くなかっただけさ。さあほら、原稿はあがったんだ。さっさと回収して帰ってくれたまえ」




 霍翠は大儀そうに目を開けて、寝そべったまま帰るように促した。




 しかし枚岡は霍翠のことが本気で心配になってきた。以前は十枚程度に一週間もかけるような遅筆ではなかった。明け透けに腹の中を見せ合える関係だと思っていたので、こうも隠されるとなんだか腹が立ってくる。俺とお前の仲ではなかったのか。




「小川、いい加減にしろよ。俺に隠し事が通用すると思っているのか?」




「だから、端から隠し事など何もないと言っているじゃないか。お前の勘違いなんだよ」




「体調が悪い程度でお前は締切ギリギリを滑り込むような男じゃない。お前の体調不良はいつものことだろうが」




「……枚岡、あんまり怒ると血圧が上がるぞ」




 今度は血圧を味方につけ煽ってきた。起き上がって笑いながら枚岡の顔を見上げている。血圧がグッと上がるのを感じた。灰皿で頭を殴ってやろうか、強かに腹を蹴り飛ばしてやろうか……。寸の間物も言えず怒りに打ち震えた枚岡であったが、これは一方的な心配であり、霍翠がなんでもないと言うのならなんでもないのだと思い直した。怒りより心配より、もう知らぬ、という気持ちが勝った。怒りはスンと鎮まった。




「……そうだな、お前のために血圧を上げたくない」




「そうだろうそうだろう! さ、原稿を回収して帰ってくれたまえ!」




 霍翠は嬉しそうに立ち上がって、戸を開けてさっさと立ち去るように枚岡に促した。お互いにもう一秒たりとも互いの顔など見たくなかった。枚岡は霍翠の原稿を引っ掴んで、原稿料を机の上に置いて思い切り部屋を飛び出していった。

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