第19話「帝国軍の誤算」

 統一暦一一九九年四月二十二日。

 ゾルダート帝国西部フェアラート。司令官室、ルーツィア・ゲルリッツ


 私は目の前の一通の報告書を見つめながら、湧き上がってくる悔しさに苛まれていた。


 皇帝陛下より第二軍団を預かりながら、エーデルシュタインでは治安維持に失敗し、更に名誉挽回の機会を与えていただいたにも拘らず、グライフトゥルム王国への侵攻作戦に失敗したからだ。



 一月二十八日にエーデルシュタインを出発した時には何の問題はなかった。

 しかし、到着まであと二日というところでフェアラートから驚くべき報告が舞い込んできた。


 それは浮橋用に用意していた木材とロープが半数程度、焼失したというものだった。


「先発隊は何をしておるのだ! 渡河に必要な資材の管理など当たり前のことだろう!」


 怒りに任せて伝令を怒鳴りつけてしまう。

 深呼吸をして怒りを鎮め、気持ちを落ち着かせてから事情を確認した。


「王国か皇国の手の者が放火したのか?」


「そうではありません。資材は軍の演習場に山積みにされており、不審者が近づかないよう夜間も見張りを立てておりました。ですが、強風によって複数の松明が煽られ、資材に引火してしまったのです」


 木材という可燃物であり、冬の乾燥した空気という好条件であっても、火の粉が舞った程度で簡単に火が着くとは思えない。


「木材とロープは確かに燃えやすいが、松明の炎が舞ったくらいで消火が間に合わないほどの炎になるとは考えられないが」


「二月に入り雨や雪が多く、木材やロープが濡れないよう帆布を掛けておりました。その帆布も撥水するように油が塗り込んであったのです」


「不注意な! 油を塗った布など燃えやすいに決まっているだろうが」


「その通りでございます。そのため、松明は充分な距離を離しておいたのですが、突然吹いた強い風によって松明が飛んでしまい、あっという間に燃え広がったとのことです」


 何とも不運なことだと、我が身の運のなさを呪う。気持ちを切り替えて確認すべきことを聞く。


「で、新たな資材の手配は?」


「ロープについては既に手配済みで時間は掛からないようですが、木材を確保するためには一ヶ月ほど必要です」


「一ヶ月も掛かるのか……不味い状況だな」


 火が着いた木材も完全に灰になったわけではないが、浮橋を作るという点では使い物にならず、大量の木材の調達が必要だということだ。


 我が軍団の輜重隊が資材を運んでいるが、計画が急遽変更となったため、必要数が確保できず、途中の町でも調達することになっている。そのため、焼失分の手配先は遠方にならざるを得ず、余計時間が掛かる。


 時間を掛けられるなら問題はないが、今回は時間との勝負という面もあった。


 シュヴァーン河の渡河作戦を計画する際、地元民から念入りに情報を収集している。その結果、四月に入ると山から大量の雪解け水が流れ込み、渡河作戦の決行が危ぶまれるほど川幅が広がるというのだ。


 六月半ばに一旦水量は落ち着くらしいが、それでも二ヶ月以上の遅滞となる。二月下旬に到着しているから四ヶ月近く無為に時を過ごすことになり、兵糧などの物資を浪費するだけでなく、兵士の帰郷が遅れることから士気の低下は免れない。


 それでもまだ三月半ばには作戦を開始できるため、ギリギリ間に合うと思っていた。

 しかし、状況は我が軍に味方せず、更に悪化していく。


 フェアラートに入り最後の準備を行っていた三月十四日、あと数日で資材の確保が終わるというところで、兵士たちの間で病が発生した。


 百人を超える兵士が夜間に突然腹痛を訴え、激しい下痢と嘔吐を繰り返す。他にも痺れや呼吸困難を訴える者もおり、兵舎は阿鼻叫喚の様相を呈した。


 多くの兵士がその状況を見ており、彼らの間に死亡率が高い疫病が発生したという噂が一気に広まり、大混乱に陥った。


 幸い死者は数名で済み、発症者も三日ほどでいなくなったが、駐屯地での疫病発生は兵士たちの士気に関わる。また、敵の工作員による毒物の混入ということも考えられ、原因がよく分からない状況では作戦を開始できなかった。


 そのため、私は調査チームを立ち上げた。兵士や厨房の担当者に聞き取りを行い、その日の夕食でムール貝と牡蠣を使った料理が出され、それを食べた者の一部が発症したということが分かった。


 これについても謀略の可能性がないか調査したが、ムール貝や牡蠣はフェアラートを含むシュトルムゴルフ湾の名産であり、市民も普段から食べている一般的な食材だ。特にムール貝は手に入りやすく安価であるため、町の居酒屋では定番のつまみだということだった。


 更に詳しく調べると、ごく稀に貝に当たることがあるそうで、今回は地元民にも僅かに発症者がおり、その稀有な事例に当たったらしい。


 つくづく運がないと思うが、この騒動で調査を含め十日ほど時間を空費した。原因を大々的に発表し混乱は収まったが、準備が滞ったつけは大きく、渡河作戦の準備が整ったのは更に一週間ほど後の四月二日、予定より一ヶ月遅れとなってしまった。


 この一ヶ月の遅れが致命的だった。

 シュヴァーン河の水量は私が到着した二月下旬に比べ倍以上に見え、川幅もそれまでの五百メートルほどから一キロメートルほどに広がっていた。


 そのため、対岸に見えていた砂地は消え、葦のような草の穂先が見えるような状況になっている。渡河したとしても橋頭堡を築ける場所が限られることは明らかだった。


 救いは王国がこちらの情報を掴んでいないことだ。

 ヴェヒターミュンデ城に潜入させた工作員からの報告は定期的に入っており、王国軍の増援が到着したという情報は入っていない。


 元々王国の情報収集能力は非常に低い。彼らは旧態依然とした考えで、兵を戦場に送り込めばそれで済むと考えている節がある。


 三年ほど前のフェアラート会戦でもその傾向は顕著で、第三軍団がフェアラートの町を占拠していたことすら、渡河の後に知ったと聞いた。その話を聞いた時、信じられずに聞き返したほどだ。


 陛下はエーデルシュタイン周辺でグライフトゥルム王国が謀略を行っているとお考えのようだが、この程度の諜報活動もできない王国が関与しているとは到底思えない。


 水量は増加しているが、王国軍が油断している今、危険を冒してでも渡河作戦を実行すべきと決断した。

 地元の老漁師にこの水量でも渡河が可能なところがないか確認した。


「船ならともかく筏じゃ無理ですじゃ。まあ、タラレク村の対岸ならまだマシかもしれませんがの」


 タラレク村というのは王国側にある村でヴェヒターミュンデ城から六キロメートルほど上流に行ったところにある。

 翌日、馬でその辺りまで行ったが、水深があるためか、流れは他の場所より弱い。


「これならいけるな。すぐに資材を運ぶんだ」


 副官にそう伝えると、参謀たちに渡河作戦の変更案の検討を命じた。


「資材の移動に二日は掛かる。その間に計画の変更案を検討せよ」


 参謀たちは地図を見ながら検討を始めたが、すぐに意見がまとまる。

 参謀の一人が地図を指し示しながら説明を始めた。


「タラレク村から北公路ノルトシュトラーセに通じる道があります。夜陰に乗じて先発隊を送り込み、村を占領して橋頭保としてはいかがでしょうか」


 事前に真実の番人ヴァールヴェヒターの間者を使って、シュヴァーン河西岸の情報は集めてある。

 参謀たちの意見がすぐに一致したのは他に選択肢がないからだ。


 間者による調査でもシュティレムーア大湿原を通れる道は、タラレク村からのものしか見つかっていない。そのため、渡河するにはヴェヒターミュンデ城に近い場所か、タラレク村しか選択肢がないのだ。


「それしかないね。しかし、海を渡れればもう少し楽になるんだがね」


 思わず愚痴が零れる。

 シュヴァーン河ではなく、シュトルムゴルフ湾を渡るという選択肢もないわけではない。しかし、現状ではシュヴァーン河以上に困難だ。


 その理由は海には大型の魔獣ウンティーアが多く棲んでおり、人が多く乗る船に襲い掛かってくるのだ。


 そのため、船員を含め五十人程度しか乗っていない商船はともかく、数千人規模の部隊を運ぼうとすると、船と同じ大きさの魔獣、シーサーペントゼーシュランゲクラーケンクラーケなどが大量に襲ってくる。船の上ということで撃退することも難しく、全滅する可能性が高い。


 チマチマと二十人程度の小隊単位で送り込むという方法もないわけではないが、海岸に上陸する際にボートを使う必要があり、千人規模の連隊を輸送するだけでも時間が掛かり過ぎる。そのため、海を渡るという方法は検討すらされていなかった。


 タラレク村の対岸に密かに先発隊を集め、川船による渡河を試みる。

 タラレク村は人口三百人ほどしかおらず、常駐している兵士もいない。そのため、二個小隊も送り込めば充分であった。


 抵抗があるかと思ったが、村人は一切抵抗せず、あっけないほど簡単に終わった。

 しかし、新たな事実に頭を悩ます。


「道は確かにありました。ですが、人ひとりが歩ける程度の細い道しかなく、木の板が渡してあるだけの不安定な場所も多くあるそうです。確認したところ、村のすぐ西にも幅一メートルもない木道がありました。あれを渡っていくのは時間が掛かると思われます」


 その言葉で王国側がタラレク村を重視していない理由が分かった。

 渡河したとしても兵士が一列になって移動しなければならず、更に足元が不安定なことから千単位の兵を移動させるのは現実的ではないためだ。


 それでも橋頭保を確保できたことから、王国側に斥候を放つ。

 しかし、翌日に得た情報では既に王国軍も気づいており、北公路ノルトシュトラーセ近くに弓兵が待ち受けていたらしい。


 この事実にタラレク村からの侵攻作戦は諦めざるを得ず、頭を抱えるしかなかった。


 その後、ヴェヒターミュンデ城近くで筏を繋いだ浮橋による渡河を試みたが、王国側が手を出さなかったにもかかわらず、足を滑らせて水中に落下する者が続出し、作戦を中止するしかなかった。


(運がなかった……いや、王国が幸運だったのだろう。資材の焼失がなければ今頃ヴェヒターミュンデ城を手中にできていたのだから。今回は失敗に終わったが、王国攻略の糸口は掴めた……)


 今回の失敗は時期の設定が悪かったことと準備不足だ。

 余裕のある秋に作戦を開始し、多少の遅延があってもやり直しできる体制をとる。


 また、丸太を繋いだ浮橋は水の流れに弱く、大軍を渡河させる作戦には向かない。準備に多少時間は掛かるが、浮橋用の簡易な船を建造する方が確実だ。


 懸念があるとすれば、王国がヴェヒターミュンデ城の守備隊を増強することだが、多少増えても問題はない。王国の防諜体制は貧弱であり、工作員を送り込んでおけば、内部から呼応することは難しくないからだ。


 いずれにしても今回のことで王国への侵攻作戦は容易ではないことが分かった。皇帝陛下もリヒトロット皇国を滅ぼした後にしか本格的な侵攻はお考えにならないはずだ。


 私は報告書に署名をすると、帝都ヘルシャーホルストに送るよう命じた。

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