第7話 夫婦仲

 被害者の家の八百屋は、シャッターが閉まっていて、

「臨時休業」

 の札がかかっていた。

 それもあのような殺人事件の被害者として奥さんが見つかったのだから、さぞや家族の人間も憔悴していることだろう。それを思うと、数日の休業もやむなしであり、気が引ける思いもあったが、捜査上、どうしても執拗な事情鞘腫なので、行わないわけにはいかない。清水刑事と辰巳刑事は意を決して、八百屋の奥の勝手口の呼び鈴を鳴らした。

 まるで昭和を思わせる八百屋の勝手口は、昔の商店街を思わせる佇まいで、呼び鈴も少し甲高い音が、さらに懐かしさの余韻を残しているようだった。

「ごめんください」

 というと、中から、

「はい、どなたでしょう?」

 という、中年の男性の声が聞こえてきた。

「K警察署の辰巳というものですが、恐れ入りますが、少々お話を伺わせていただければと思いまして……」

 というと、中から無言で扉を開ける男性がいた。

 その男性は見るとそれほど身長があるわけではなく、今の時代では決して大きくないタイプだった。声の感じから中年男性を思わせたが、まだ三十代前半くらいの男性であり、家族が殺害されたことが、ショックなのが想像できた。

 亡くなった奥さんは三十歳になったくらいの人だっただけに、たぶん、今出てきた男性が夫にあたる梶原正人氏ではないだろうかと思った。

「このたびは何と言っていいか、お悔やみを申し上げます」

 と、挨拶をすると、

「早速ですが、奥さんが殺害された経緯を捜査しておりますので、少しそのあたりのご存じのことがあれば、お伺いできればと思いまして」

 と、最初の言葉を繰り返すように言ったのは、辰巳刑事だった。

 最初に声を掛けた時に話したのは、実は清水刑事だったのだが、旦那には声の違いに気付いていただろうか。

「どうぞ、お聞きください」

 という覇気のない言葉が返ってきた。

「ちなみに、殺害されたのは、奥さんの梶原聡子さんで、あなたが、旦那さんの梶原正人さんという認識でよろしいのでしょうか?」

「ええ、そうです」

「では、梶原さんは、封建深層研究会という宗教団体をご存じでしょうか?」

「ええ、知っています。時々彼らが自給自足でこしらえたという野菜を分けてもらったり、低価格で譲ってもらったりしていました。そういう意味ではお互いに好印象を持った関係だったと思っています」

「宗教団体だということはご存じでしたか?」

「ええ、もちろんです。最初、この街で宗教団体の建物の建設予定があるという話が上がった時、商店街の連中とともに、最初は反対していました。でも、宗教活動において、決して無理なことはしないということと、街の人との共存共栄を目指して、オープンな関係を築くという条件の下、建物の建設が始まったんです。私たちも最初は警戒していましたが、彼らの言っている通り、ちゃんとオープンな状態で、共存共栄を目指しているということが分かったので、次第に彼らを受け入れるようになりました。我々のような商売人は、最初こそ頑なですが、気心が知れると、これで結構相手を信じる切符の良さがあるので、共存共栄という意味でも、いい関係だったと思っています」

「なるほど、そうだったんですね。ところで、奥さんはその教団の信者だったんですか?」

 と訊かれて、臆することもなく、

「いいえ、そんなことはありませんでした」

 という堂々と冴え見えるその態度に、その言葉にはウソがないように思えた。

「教団にはご主人も、奥さんも赴かれたことはありますか?」

 と聞くと、

「いいえ、建物の近くに近寄ったということもありません。妻も同じだったと思います。あくまでも妻に関しては想像でしかないのですが」

 と言われた。

「奥さんが、教団の建物の中にある、道場と呼ばれている部屋の奥にある個室のようなところで殺されていたんですが、何か心当たりはありますあ?」

 と聞かれ、さすがにビクッとしたようだ。

「いいえ、私には分かりません」

 というそっけない態度で、答えていた。

 しかも、それが即答だったのも、少し二人の刑事には意外な気がした。

 梶原の様子が反射的に見えたことで、旦那さんはあまり詳しいことは知らないのではないかと思えた。我々が来た時、それよりも警察が事情聴取に来ることくらいは想像がついたはずで、奥さんについて聞かれたくないことも聞かれることは分かっていたことだろう。当然この質問も想定内だったはずなので、覚悟はあったはずなので、それに対して本能的な反応は、ただの条件反射の類となるので、ウソはないのではないかと、辰巳刑事は考えていた。

 だが、今回はどちらかというと、清水刑事の方が怪しんでいるようだった。

 清水刑事は辰巳刑事よりも刑事としてのキャリアは当然持ち合わせている。それだけに経験も豊富で、いろいろな人を見てきた。その分、辰巳刑事のように、簡単に人を信じる気にはなれないところがあった。

 確かに清水刑事の中では、彼が何かを隠しているなどという確証があるわけではないので、信じたいという気持ちもあっただろう。だが、冷静に考えることを信条としている清水刑事は、隣でこの言葉を信じようとしているように見える辰巳刑事を見ていると、

――私までが全面的に信用してしまうというのは危険な気がする――

 と感じたのだ。

 清水刑事は、辰巳刑事が梶原を正面から見ているのとは別に、辰巳刑事の背中越しに見ているという、状況に沿ったような感覚をそのまま持っていた。その分、見方も若干違っていて、冷静に見ることができるのだろうと思った。

 ただ、辰巳刑事越しに相手を見ているということには、もう一つの意味があり、聴取を受けている梶原に、清水刑事は自分が罪刑事よりも数倍、冷静に見ているということを感じさせないようにしていたかことだ。

「ところで、奥さんが誰かに殺されるというような恨みを買っていたなどということはありませんか?」

 と訊かれて、今度は先ほどほど、ビクッとした態度ではなかった。

 会話に慣れてきたのか、先ほどの質問よりもさらに漠然としていることで、あまり質問の主旨を理解していないのかではないだろうか。

 そういう意味では、今度の回答は少し時間が掛かった。

 慎重に回答しようという思いからなのか、それとも、思いだたるふしを思い起こしていたのか、思ったよりも回答が遅いことを、辰巳刑事は気になっていた。

「少し考えてみましたが、私にはやはり分かりません。夫婦と言えども、妻が殺されて、初めて一番私が理解していると思っていた妻のことを、何も知らなんだって思い知らされた気がして、情けない思いを感じています」

 と言って、嗚咽のような態度を示した。

 妻を殺された夫としては至極当然の対応のように思えた。だが、清水刑事はまだ何かを不審に感じていた。その不信感がどこから来るものなのか、すぐには分からかったが、質問をしている辰巳刑事の方は直接の会話からなので、その様子に違和感がないという思いがあることからか、必要以上の問題を感じているようには思えなかった。

「事件のあった晩のことなんですが、その日は、お二人とも何時頃に眠りに就きましたか?」

 と訊かれて、

「八百屋という商売は、買い付けで青果市場に行くこともあるので、結構朝が早いんです。昨日も朝四時起きの予定でしたから、もう九時前には寝床に就きました。それは女房も同じだったようで、私が最初に寝床につぃたのですが、妻はまだ夕飯の後片付けをしているようでした。いつものことなので気にすることもなく眠りに就いたのですが、目が覚めると妻がいないのに気付いて、どうしたのかと思って、気になりながら、市場に買い付けにいきました。きっとフラッと帰ってくると思ったからです」

「でも、実際に帰ってこなかった」

 言葉の途中で、遮るように辰巳刑事が言ったので、梶原は少し不満を感じているようだったが、なるべくそれを顔に出さないようにしながら

「ええ、そういうことでした」

「朝起きて奥さんがいないということは今までもあったんですか?」

「いいえ、それはありませんでした」

「じゃあ、夜中にどこかに出かけているというようなことは?」

 と訊かれて、ここでも言葉に詰まったようで、すぐに返答はできなかったが、今度はまるで覚悟が決まったかのように、

「いいえ」

 と答えたのだ。

 どうやら、この男は、思っていたよりも気持ちが顔に出るようだと、刑事は二人ともそう感じたようだった。

「ただ……」

 と、梶原は今の言葉が無意識だったのか、そう呟いた後で、

「ただ? どういうことでしょうか?」

 と訊かれて、梶原はたじろいだ。

「たまに、隣にいると思っている妻がいないことがあったんです。トイレかなと思って気にもしていなかったんですが、ある日、私自身も尿意を催したので、妻と入れ替わりにトイレに入ろうと思って行ってみると、そこに妻の姿がない。すると、真っ暗な店の方に入って、誰かと電話で話しているようでした。近くにいるのに声がハッキリしなかったので、さぞかし小さな声だったのだろうと思いました。妻は声質からなのか、小声になればなるほど、誰よりも聞き取りにくくなるんです。ハスキーな声と言えばいいんでしょうか」

 と、梶原が答えた。

「どんな様子だったか分かりますか?」

「会話が聞こえなかったので、よくは分かりませんが、どうも、もめているように聞こえました。時々、相手に対して訴えているような感じも見受けられたので、何かお願いをされていて、それに対して。そんな無茶なとでも言っていたのではないかと思っています」

「奥さんは誰かに脅されていたということでしょうか?」

 と清水刑事が聞くと、

「いいえ、よく分からないんです。そういえば、その電話がかかってきてから少しの間、何かを隠しているような感じがしたんです。ただ、数日で前の女房に戻りましたので、私とすれば、電話の一件から、妻に対して過剰な疑心暗鬼に陥っていたことで、猜疑心が頭をもたげたのではないかと思いました。実際には、友達から何か相談でも受けていて、その友達の悩みが解消しただけなのかも知れないですが、妻の様子が元に戻ったことで私の方も敢えて、それ以上言及することはありませんでした」

 と梶原は答えた。

「それはいつ頃のことだったんですか?」

 と辰巳刑事の質問に、

「数か月前くらいではなかったでしょうか? 私もそんなことがあったということすら、忘れかけていたくらいですからね。でも、今回のことがあって、しかも刑事さんからの質問を考えていると、その時の記憶と感情が思い出されてきたんです」

「ちなみに奥さんは、友人の多い方でしたか?」

「多いんじゃないかって思いますね。普段は気さくに店でも応対していますし、近所の奥さん連中とも仲良くしていたように見えました。だから、あの時の電話も、そんな奥さん仲間の一人の悩みを聞いてあげていたんじゃないかって思ったんです」

「でも、何も旦那さんに隠れるように電話しなくてもですね」

 と辰巳刑事がいうと、

「私と相手の奥さんに気を遣ったのかも知れませんね。私が朝市場に行くのは分かっていますから、起こすようなことはしたくなかったんでしょう。それに相手の奥さんの悩みの内容がたとえ、相談相手の旦那であっても、知られたくないものだとすれば、なおさらのことでしょう」

 と、旦那が妻を庇っているというような言い方をした。

 そもそも、この夫婦の関係というのは、そういう関係だったのかも知れない。妻は旦那に献身的に尽くし、旦那も妻に気を遣いながら、お互いを思いやって暮らしている。そんな夫婦は結構長続きするのではないかと辰巳刑事は考えていた。

 だが、今回の話を旦那が今思い出したのかどうかは別にして、口にしたということは、旦那としても、何か気になることだったのは否めないだろう。

 殺害されるという最悪の状況を迎えたことで、旦那としても、いまさら何を言われても不思議はないという思いと、死んでしまった相手のあらを探したとして、それが何になるのかという思いとが交錯しているのではないだろうか。

「旦那さんとしてはぼっちゃけどうなんです? その時の電話と今回の事件に何か関係があるとお考えですか?」

 と訊かれて、

「それは分かりません。でも、今回こんなことになってしまうなど、想像もしていなかったことですので、妻の今までの行動で、少しでも不審な点があったとすれば、疑いの対象になったとしても、それは仕方のないことだと思います。実際に電話の件は、今思い出すと怪しさに満ちているとしか思えませんし、その時のことを想い出すと、私は手が震えてくるんですよ」

 と言った。

「手が震える?」

「ええ、どうしてあの時に踏み込んで聞いておかなかったのかとですね。こんなことになるんだったらという思いからなんですけどね」

 それに対して今度は清水刑事が、

「それは仕方のないことだったんじゃないでしょうか? その時は大したことではないと思ったわけなら、仕方ないという他ないですよね?」

 というと、梶原は少し考え込んで、

「ええ、ただ今から思えば、本当に大したことないと思ったのかどうかですね。確かに大したことはないと思いました。だけど、それは自分でそう思い込もうとしただけだったのではないかと思うと、不思議な気分になるんです」

 と、次第に梶原は自虐的な態度に変わっていきそうだった。

 清水刑事は少しまずいと思った。

 あくまでも、

「殺害された女の夫」

 という立場での事情聴取である。

 冷静でいてくれなければ、まともな聴取などできるはずがないと思っているからだ。激情してしまうと、勝手な判断が頭を巡り、聞きださなければいけない内容を、故意に隠そうとされてしまうと、事情聴取も水の泡になってしまう。それだけは避けなければいけなかった。

「ご主人としては、そういう気持ちになられるのは無理もないことだと思いますが、ここはひとつ、奥さんをともらう気持ちで、冷静になっていただけると、ありがたいと思っています」

 と、清水刑事が一言言った。

 すると、その言葉が効いたのか、梶原は興奮しかかっていた様子から、スーッと魂が抜けていくような脱力感に包まれているように見えた。

「ええ、大丈夫です。私はとにかく事件の真相を知りたいと思っているんですよ。いきなり訳も分からず妻が殺害された。その状況に耐えられないのは刑事さんにも分かっていただけると思います。少しでも留飲を下げるには、真実を明らかにしていただくしかないと思っています」

「ええ、分かりました。最善の努力をいたします」

 と、清水刑事は約束した。

「奥さんは何かに悩んでいたんでしょうかね? 先ほどの電話の話も、奥さんが怒っていたように見えたというのも、誰かに弱みを握られているなどという感じだったんじゃないでしょうか?」

「今から思えばそうだったのかも知れません。でも、妻が誰と話をしていたのか分かりませんし、あ、そうだ、妻の電話の通話履歴か何かを調べれば分からないですかね?」

 と言われて、

「そちらからの線は当たってみようかと思いますが、何しろ数か月前のことで、奥さんが結構通話の多い人であれば、数か月前の電話を特定することは難しいかも知れませんよ」

 と辰巳刑事がいうと、

「でもですね、朝市場での買い付けがある八百屋の主婦が、普通なら就寝しているはずの夜中に、こそこそと電話をするんだから、真夜中の通話履歴はそんなにないと思うんですよ。そこからなら探れないですかね?」

 と言われ、

「なるほど、それならある程度絞り込めるかも知れませんね。さっそく調べてみることにしましょう」

 と、辰巳刑事が答えた。

「でも、私は、あの宗教団体と妻が関係があったとは、どうしても思えないんです。確かに野菜の納入などで面識がないわけではないですが、日常の営業トークか、世間話だけでしかないわけですからね。何よりもいつも私がそばにいたので、勧誘などというのは、考えられない気がします」

「では、奥さんが自分から行かれたというのはどうですか? 例えば、誰かに何か弱みを握られていたりして悩んでいる状態で、宗教団体のことを思い出した。旦那さんには決していうことのできないもので、それを団体に頼ろうとしたいうことですが」

 と言われて、

「それなら、なおさら考えられないような気がします。何か悩んでいるとすれば私には分かると思うんです、女房はどちらかというと、表情が豊かで、分かりやすい方でしたからね」

 と梶原は言った。

 梶原は、ある程度自分の奥さんに対して自信を持っているようだった。この自信がどこから来るものなのか分からない状態なので、清水刑事は少し警戒していた。

 もし、梶原の支配欲から来ているものであり、その思いが嵩じて、主従関係に至っていたのかも知れないと思ったからだ。

 だが、奥さんの方で、主従関係に悩みがあるとすれば、宗教団体における主従関係を受け入れることができたのかということである。そう思えば、聡子が入信していたのではないかという考えも怪しいものであろう。

 辰巳刑事も似たようなことを考えていたが、彼は最初から聡子が教団と関係があったということに疑いを持っていた。

 そもそも、教団の人間が殺人を犯したとして、死体をそのまま教団内部に放置しているというのも考えにくい。もっとも、幹部ではなく、一信者が行ったのだとすれば、殺人を計画するとすれば、別の場所で行えばいいだけだ。となると、犯人が教団の人間だとすれば、

「殺害したのが衝動的な殺人だ」

 ということになるだろう。

 しかし、この場合は、ほぼ可能性としては低い。なぜなら、まず一つには、致命傷を負う前に睡眠薬を服用していたということだ。睡眠薬を服用していたということは、黙らせておいて、密かに殺そうと思ったのだろうが、それなら、やはり死体を放置しておくのはおかしい。放置しておいてもいいと最初から考えているとすれば、

「死体が発見されることは構わないが、あまり早く発見されては困る」

 という意味での時間稼ぎのような発想であろう、

 そう思うと、殺害された時間帯に犯人は近くにいなかったことを証明できるというアリバイ工作か、それとも、自坊推定時刻を少しでも曖昧にするための時間稼ぎかということになるが、死後六時間や八時間では、死亡推定時刻のごまかしには到底及ばないだろう。そう考えると、時間稼ぎの目的はあったかも知れないが、、結構薄いものだったかも知れないということである。

 こうやって話を聞いていると、清水刑事は次第に梶原の話がいかにも奥さんに気を遣っているかのような話し方であることに対し、違和感を抱くようになった。

――何か違うんだよな――

 生きている奥さんに対してであれば、気を遣うというのは分からなくもないが、死んでしまった後で、気を遣っているというのは、どこか違う気がした。それを思うと、夫婦仲が表に出ているほど、親しかったのではないような気もしてきた。

 梶原が思い出したように奥さんの電話の話をしたかのように聞こえたが、話が進むにつれて、

――あの話は、最初から用意していたものだったのかも知れない――

 と感じた。

 話にウソはないとは思ったが。果たして彼の言葉をすべて信用していいものだろうか。ひょっとすると、どこかにトラップが含まれているのではないかと思うのだった。

 辰巳刑事は、どちらかというと、彼の話を信じているようだった。すべてを鵜呑みにはしていないようだが、概ね間違ったところはないと思っているのではないだろうか。辰巳刑事が特にそう思っていると感じたので、清水刑事は余計に慎重に考えるようになった。

「これは今回のことには関係のないことなのかも知れませんが、近くの民家で犬を飼っているんです。その犬は、よく吠える犬で、夜中などよく遠吠えのようなものが聞こえていました。朝の早い仕事なので、一時期私もノイローゼのようになったんですが、妻も同じように眠れないようでした。それで少し二人の間で気まずい雰囲気になりかかったんですが、それから少しして、犬の吠える声がピタリとやんだんです」

 と言い出した。

「それは、いつ頃のことですか?」

「一か月くらい前のことだったでしょうか? これでゆっくり眠れるということで、それからは妻とは気まずくならなくなったんですが、私も結構忘れっぽい性格なので、遠吠えがなくなってすぐに、そんなことがあって、女房と気まずい雰囲気になったなどということすら忘れてしまっていたんです」

「その時の奥さんの様子は?」

「何とも寂しそうな雰囲気でした。せっかく吠える声も聞こえなくなってよかったと思っているのに、何か妻の様子が煮え切らないように見えたのは、今から思えばそれもおかしかったような気がしますね」

「なるほど、そういうことがあったんですね」

 と辰巳刑事がいうと、

「今の話が事件に関係あるかどうかは分かりませんが、奥さんとすれば、直近の話ですよね。こちらの方で捜査してみましょう」

 と、清水刑事がフォローした。

 犬の話は、少し頭の片隅においておけばいいかという程度に思っていた二人だったが。実際にはこの時梶原が思い出したこの話が、今後の捜査において大きな問題を孕んでいるということを、この時二人はまだ知る由もなかったのだ。

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